第14話 水面に遺るもの
天正二年。
越前の山間にある小さな池は、
春の光を受けて静かに輝いていた。
池のほとりに、ひとりの旅人が立っていた。
今川氏真。
かつて駿河の主であり、
いまは徳川の客将として静かに暮らす男。
氏真は、池の水面に映る空を見つめた。
「……義景殿。」
風が吹き、池に波紋が広がる。
その波紋は、どこか懐かしい静謐を思わせた。
氏真は、懐から一通の書状を取り出した。
朝倉義景の最期の文――
吉家が命を賭して届けたもの。
「敗者の連環は、わしの死で完成する。」
氏真は、その一行を指でなぞった。
「あなたは、静謐を守り抜いた。
わたしは、生き延びた。
そして……」
氏真は、池の向こうの山を見つめた。
「前久殿は、消えた。」
その時、池の水面に影が揺れた。
風でも鳥でもない。
ただ、どこかで誰かが見ているような気配。
氏真は、静かに微笑んだ。
「前久殿……
あなたは、まだどこかで漂っているのでしょう。」
池の水面に、三つの影が重なったように見えた。
義景の静謐。
氏真の生存。
前久の漂泊。
それは、戦国の表には決して記されない、
敗者たちの“もうひとつの歴史”だった。
氏真は、池のほとりに膝をつき、
そっと鞠を置いた。
「義景殿。
あなたの静謐は、わたしの中に生きている。」
そして、空を見上げた。
「前久殿。
あなたの漂泊は、わたしの道を照らしてくれた。」
春の風が吹き、池に花びらが落ちた。
その花びらは、ゆっくりと沈んでいく。
氏真は、深く息を吸った。
「……敗者は、滅びぬ。
形を変えて、生き続ける。」
その声は、池の静けさに溶けていった。
やがて氏真は立ち上がり、
池に背を向けて歩き出した。
その背中は、
敗者ではなく、
敗者を超えた者のそれだった。
池の水面には、
もう何も映っていなかった。
だが、風が吹くたびに、
波紋が静かに広がった。
――敗者の連環は、
静かに、しかし確かに、
この世界のどこかに残り続けていた。




