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幽明の三碩  作者: 双鶴


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第13話 影の消失(近衛前久)

 天正元年。

 越前・一乗谷が燃え落ちたという報せは、

 近江の山中にいた近衛前久の耳にも届いた。


 前久は、しばらく言葉を失ったまま、

 山道の苔むした石に腰を下ろした。


 「……義景殿。」


 風が、木々の間を抜けていく。

 その風は、どこか焦げた匂いを運んでいた。


 前久は、懐から一通の書状を取り出した。

 義景の最後の文――

 吉家が命を賭して届けたものだ。


 封を切ると、そこにはただ一行。


 「敗者の連環は、わしの死で完成する。」


 前久は、目を閉じた。

 その一行は、胸の奥に深く沈んでいった。


 「……義景殿。

  あなたは、最後まで美しかった。」


 そこへ、比叡山の僧・明慶が駆け寄ってきた。


 「前久殿!

  一乗谷は……全て焼け落ちました……!」


 前久は頷いた。


 「知っている。」


 明慶は震える声で言った。


 「朝倉家は滅び、浅井家も危うい。

  信長公は、もはや止まりませぬ。

  前久殿……あなたは、どうなさるのです。」


 前久は、静かに立ち上がった。


 「わたしは――

  “消える”。」


 明慶は息を呑んだ。


 「消える……?」


 前久は、義景の書状を胸に抱いた。


 「義景殿は静謐を守り、

  氏真殿は生存を選んだ。

  ならば、わたしは――

  漂泊の果てに、影となる。」


 明慶は理解できずに言った。


 「前久殿……あなたは公家の頂点。

  消えるなど……!」


 前久は、山の向こうの空を見つめた。


 「公家の頂点だからこそ、

  わたしは“時代の外側”へ行ける。」


 明慶は震えた。


 前久は続けた。


 「信長は、わたしを利用したい。

  義昭は、わたしを縛りたい。

  毛利も、上杉も、皆わたしを必要とする。」


 前久は、静かに微笑んだ。


 「だからこそ、わたしは消える。

  誰のものにもならぬために。」


 その時、山道の向こうから馬の蹄の音が響いた。

 信長の使者だ。


 明慶が叫んだ。


 「前久殿! お逃げを――!」


 前久は、首を振った。


 「逃げぬ。

  ただ、消えるだけだ。」


 使者が馬を止め、前久の前に膝をついた。


 「近衛殿。

  信長公よりの御意にございます。」


 前久は、使者の目を静かに見つめた。


 「言わずともわかる。

  わたしを京へ戻せ、と。」


 使者は頷いた。


 「公家の代表として、

  京の政を支えてほしいとのこと。」


 前久は、ゆっくりと息を吐いた。


 「……断る。」


 使者は驚愕した。


 「な、何と……!」


 前久は、山道の奥を指さした。


 「わたしは、京へは戻らぬ。

  越前にも、駿河にも行かぬ。

  どこにも属さぬ。」


 使者は声を荒げた。


 「前久殿!

  信長公に逆らえば――!」


 前久は、静かに言った。


 「逆らうのではない。

  “歴史の外側”へ行くのだ。」


 その言葉は、山の静寂に吸い込まれた。


 前久は、明慶に向き直った。


 「明慶。

  義景殿の文を、氏真殿へ届けてくれ。」


 明慶は涙をこらえきれずに言った。


 「前久殿……あなたは、どこへ……?」


 前久は、山道の奥へ歩き出した。


 「わたしは、影となる。

  敗者の連環を、

  歴史の闇で見届けるために。」


 その背中は、

 公家でも武家でもない、

 ただの“影”のようだった。


 明慶が叫んだ。


 「前久殿――!」


 だが、前久は振り返らなかった。


 山霧が、彼の姿を包み込む。


 そして――

 近衛前久は、歴史の闇へと消えた。


 その名は、史料の行間にしか残らない。

 だが、敗者の連環は、

 彼の消失によって完成した。


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