第12話 再生の庭(今川氏真)
天正元年。
駿河を失い、遠江を追われ、
流浪の旅を続けていた今川氏真は、
三河の小さな寺に身を寄せていた。
秋の風が、庭の萩を揺らしている。
その音は、どこか懐かしく、どこか寂しかった。
「……ここまで来たか。」
氏真は、寺の庭に置かれた古い鞠を拾い上げた。
旅の途中で子どもから譲り受けたものだ。
鞠は、かつてのように白くはない。
土に汚れ、糸もほつれている。
だが、その軽さは変わらなかった。
そこへ、朝比奈泰朝がやってきた。
「御屋形様……徳川殿より、使者が参っております。」
氏真は、鞠を手のひらで転がしながら言った。
「徳川……家康か。」
泰朝は頷いた。
「はい。
今川家の旧臣として、
御屋形様を保護したいとのこと。」
氏真は、静かに笑った。
「家康は、父・義元の死を見て育った男だ。
わたしを憎んでもよいはずなのに……
不思議なものだ。」
泰朝は言った。
「御屋形様。
これは、再起の機会かもしれませぬ。」
氏真は、首を振った。
「泰朝。
わたしは、もう“大名”ではない。
再起など、求めていない。」
泰朝は息を呑んだ。
氏真は、庭の萩を見つめた。
「わたしが求めているのは……
“生きること”だ。」
その声は、静かで、揺るぎなかった。
泰朝は、氏真の横顔を見つめた。
そこには、かつての若き当主の影はなかった。
代わりに、
“敗者として生きる強さ”を得た男がいた。
そこへ、寺の僧が使者を案内してきた。
徳川家の使者だった。
「今川殿。
家康公よりの御意にございます。」
氏真は、深く頭を下げた。
「……聞こう。」
使者は、文を広げた。
「家康公は、今川殿を“客将”として迎えたいとのこと。
また、御息女・早川殿の身柄も保護する、と。」
泰朝は驚いた。
「御屋形様……これは……!」
氏真は、静かに目を閉じた。
「……家康は、わたしを許したのだな。」
使者は頷いた。
「家康公は申されました。
『今川殿は、戦国で最も美しく生き延びたお方だ』と。」
氏真の胸に、何かが静かに落ちた。
――美しく、生き延びた。
その言葉は、
義景の“静謐”とも、
前久の“漂泊”とも違う、
氏真だけの“敗者の美学”だった。
氏真は、鞠をそっと地面に置いた。
「泰朝。
わたしは、徳川の客将となる。」
泰朝は涙をこらえきれずに言った。
「御屋形様……!
ついに……ついに……!」
氏真は、静かに微笑んだ。
「泰朝。
これは再起ではない。
敗者の“再生”だ。」
その時、庭に風が吹いた。
萩の花が揺れ、鞠が転がった。
氏真は、その鞠を拾い上げた。
「義景殿……
あなたの静謐は、わたしの中に生きている。」
そして、空を見上げた。
「前久殿……
あなたの漂泊は、わたしの道を照らしてくれた。」
氏真は、鞠を胸に抱いた。
「わたしは、生きる。
敗者として、最後まで。」
その声は、秋の空に静かに溶けていった。
今川氏真の再生は、
敗者の連環が“生存”として結実した瞬間だった。




