第10話 影の調停者(近衛前久)
元亀二年。
近江・坂本の湖畔に、ひとりの公家が佇んでいた。
近衛前久。
京を離れ、漂泊の旅に出てから数ヶ月。
その姿は、もはや公家というより、
戦国の“影”そのものだった。
琵琶湖の水面に映る空は、どこか不穏だった。
信長の勢いは止まらず、浅井・朝倉の包囲網は揺らぎ始めている。
前久は、湖面に小石を投げた。
波紋が広がり、やがて消える。
「……義景殿。
あなたの静謐は、時代の波に飲まれつつある。」
そこへ、ひとりの僧が近づいてきた。
比叡山の僧、明慶。
「前久殿。
信長公が、比叡山に圧力をかけております。」
前久は目を細めた。
「来たか。」
明慶は続けた。
「浅井・朝倉が動かぬ限り、
比叡山は孤立いたします。」
前久は、懐から二通の書状を取り出した。
義景と氏真からの文。
「敗者の美学。
敗者の生存。
そして、敗者の漂泊。」
明慶は首を傾げた。
「……それが、何を意味するのです。」
前久は、湖面を見つめたまま言った。
「信長は、戦で時代を動かす。
だが、わたしは――
“言葉”で時代を揺らす。」
明慶は息を呑んだ。
前久は、湖畔の石に腰を下ろし、
静かに語り始めた。
「義景殿は、越前で静謐を守ろうとしている。
氏真殿は、駿河の滅びを利用して生き延びようとしている。
だが、どちらも“時代の中心”には届かぬ。」
明慶は問う。
「では、誰が時代を動かすのです。」
前久は、湖面に映る自分の影を見つめた。
「わたしだ。」
明慶は驚愕した。
前久は続けた。
「わたしは、信長の前にも立てる。
義昭の前にも立てる。
毛利にも、上杉にも、朝倉にも、今川にも――
どこへでも行ける。」
その声は、静かで、揺るぎなかった。
「公家は、戦をしない。
だからこそ、どの陣営にも入れる。
それが、わたしの“武器”だ。」
明慶は、前久の言葉の意味を理解し始めた。
「……前久殿。
あなたは、戦国の“調停者”になろうとしているのですか。」
前久は微笑んだ。
「調停者ではない。
“影の筆”だ。」
その時、湖畔に馬の蹄の音が響いた。
毛利家の使者だった。
「近衛殿!
毛利輝元公よりの密書にございます!」
前久は受け取り、封を切った。
そこには、ただ一行。
「信長と義昭の間を、繋ぐべし。」
前久は、静かに笑った。
「……毛利も、わたしを必要としているか。」
明慶が言った。
「前久殿。
あなたは、どこへ向かわれるのです。」
前久は、湖面に映る空を見上げた。
「越前だ。
義景殿に会わねばならぬ。」
明慶は驚いた。
「義景殿に……?
しかし、越前は危険です!」
前久は、狩衣の裾を払って立ち上がった。
「危険だからこそ行く。
敗者の連環を、わたしが繋がねばならぬ。」
湖畔の風が、前久の袖を揺らした。
「義景殿。
氏真殿。
わたしは、あなた方の“影”となる。」
その声は、湖の静けさに吸い込まれた。
近衛前久の漂泊は、
この瞬間、“影の調停者”としての使命へと変わった。




