第1話 京の灰燼
永禄十一年十月。
京は、静かに燃えていた。
炎は夜空を朱に染め、二条御所の瓦は崩れ落ち、
公家たちの叫びはすでに風に溶けていた。
その瓦礫の上を、ひとりの男が歩いていた。
近衛前久。
帝の血を引きながら、京の外の“風”を最も敏感に嗅ぎ取る男。
白い狩衣は煤で黒く汚れ、袖口には焦げ跡が残る。
だが、その眼だけは、燃え盛る京を冷静に見つめていた。
――この都は、もう終わる。
前久は崩れた廊の柱に腰を下ろし、懐から一通の書状を取り出した。
封には、越前・朝倉義景の花押。
この混乱の最中に届いた密書だ。
封を切ると、そこには一行だけ。
「天下は、我ら“敗者”の手に委ねられている。」
前久は、思わず息を呑んだ。
“敗者”――義景が自らをそう呼ぶとは。
だが、その言葉には奇妙な力があった。
敗北を嘆くのではなく、敗者であることを誇るような、
静かな美しさ。
前久は書状を光にかざした。
紙は越前の上質な奉書。
だが、文末の墨の濃さが微妙に揺れている。
――義景は、この文を書いた時、迷っていた。
その揺らぎが、前久の胸を刺した。
「……義景殿。敗者とは、なんと優雅な言葉か。」
その時、背後で足音がした。
黒装束の若い武士が、炎を背に膝をつく。
「近衛殿。駿府より急使にございます。」
駿府――今川氏真。
滅びゆく名門の若き当主。
蹴鞠の名手にして、戦国で最も誤解された男。
武士はもう一通の書状を差し出した。
封を切ると、そこにも同じ文言が記されていた。
ただし――
義景の文と、わずかに違う。
氏真の書状には、
「敗者」
と、仮名が添えられていた。
前久は目を細めた。
同じ文言。
同じ夜。
だが、微妙に異なる筆致。
偶然ではない。
これは、意図された“連環”だ。
前久は二通の書状を並べ、炎の光に透かした。
紙質も違う。
墨の濃さも違う。
だが、文意は同じ。
――この二人の背後に、もう一人いる。
前久の背筋に、久しく感じなかった震えが走った。
京の炎よりも熱い、歴史の胎動。
「……面白い。
敗者が手を結ぶなら、歴史は必ず揺らぐ。」
前久は立ち上がり、燃え盛る二条御所を背に歩き出した。
炎の光が、彼の影を長く伸ばす。
その影は、越前へ、駿河へ、
そして――史料に記されぬ“第三の地”へと続いていく。
この夜、京の空に立ち上る煙は、
やがて戦国の裏側で蠢く“影の三筆”の始まりを告げた。
歴史の表には決して残らない、
敗者たちの密やかな連帯。
その第一歩を、前久は確かに踏み出した。




