第8話 荒くれ者たちの長
「うぅ……重いぃ……」
レインさんとあの部屋で別れて、廊下を歩いているのだけど、歩く度にガシャンガシャンと音がして、時折すれ違う人たちからの視線を集める。
私だって、今の自分が奇怪な何かに見える事は十分分かってるよ!
認識疎外がかかっているから私だっていう事は分からないだろうけど、それでも朱色のフリッフリドレスの上に、厳つい甲冑だよ?
頭には、三日月が付いた被り物だよ?
こんなのが歩いていておかしくない訳がない。
「『裏の世界では普通にこういう人もいるのかも』っていう一縷の望みに掛けたんだけど、全然そんな感じじゃないし」
「当たり前でしょ。変だよものすごく」
私の認識をバッサリと一刀両断してきたのは、私が着替えてから十分ほど笑い転げたカイン兄様だ。
「まったく、サラのせいで仕事の前に無駄な腹筋運動させられちゃったじゃないか」
「勝手に運動しておいて、その言い草は流石にない」
ムーッと頬を膨らませてそう言う私の隣で、兄様は思い出したように「あ、クシー、実働班に『開始』伝えといて」と斜め後ろに軽く作業を振る。
私が急にそう言われたらちょっとドキッとしそうなものだけど、クシーさんは慣れた様子で「分かりました」と端的に告げこめかみ辺りに人差し指を当てる。
誰かと話し始めたところをみると、おそらく通信伝達の魔法を使っているのだろう。
仕事のできる人っていう感じだなぁ、なんていう感想を抱いていると、「ごめんってば。怒らないで?」と言いながら、兄様が私の顔を覗き込んできた。
少しは悪いと思っているのだろうか。
覗き込んできた兄様に少し様子を窺うような気づかわしさを感じて、それがほんの少しだけ、兄様の「嫌われるのは嫌」という気持ちを示しているような気がして。
私はハァとため息を吐く。
兄様は、中性的な顔立ちとこの妙な愛嬌に生まれてラッキーだったのではないだろうか。
これなら私に関わらず、兄妹の情の有無にかかわらず、多分許すこの人を許す人は多い。
「……今度、美味しいケーキ屋さんで食べ放題させてくれたら許す」
「いいよ。金は腐る程あるし」
「え、兄様そんなに持ってるの?」
私もお店で働いている。
それなりに繁盛しているお店で給料も王都内の平均くらいはある筈だから、月々に稼げる額がどのくらいかはある程度正しく把握している筈だ。
それでも私には「金は腐る程ある」なんて言える気がしない。
お金が有限な生活というのも、その中でやりくりする楽しさやたまの贅沢の喜びなんかがあって結構好きだ。
でも、英雄の末裔とはいえ私の表の顔は貴族にギリギリ引っかかっているような男爵家の令嬢で、裕福な暮らしをした記憶はない。
そんなふうに言えるような大金を一度くらい手にしてみたいという、願いと言う程の切実さはないけど、夢のようなものは漠然とある。
まぁ、際限なく贅沢な暮らしがしたいというよりは「一日限定で贅沢三昧の暮らしを一度くらいしてみたい」という感じのものだけど。
私がそんなふうに考えている間に、兄様もこめかみに人差し指を当てて「はいはーい、俺」「うん」「いやぁそのくらいはやってくれないと」「え? そうなの?」「あー、じゃあそうしといて」「うんうん、お願いね」などと、見えない誰かと話をしていた。
どうやらそれも済んだらしいところで、なんという事もなさげに一言。
「まぁ、軽く月に白金貨百枚くらいは入ってくるからね」
「白金貨、百……?!」
目ん玉飛び出ちゃうかと思った。
「月に、うちの一個銅貨三枚の売れ筋パンが三百三十三個……」
何という事だ、食べきれない!
「サラさぁ、もう少し年頃の女の子らしい物欲とかはないの?」
こういう時に出てくる例えが、パン。
と笑う兄様に、私はムッとなって反論する。
「パンは美味しいでしょ! あの香ばしい匂いも、ふわふわの生地も、具は甘いのもあれば辛いのもあって……一口食べただけで幸せになれる。あんな万能な食べ物、他にないんだからね!」
「なる程、サラにとってパンは、自身の平和の象徴な訳か」
フッと楽しげに笑いながら、彼はまたこめかみに指を当てて「どう?」「うん」「そう」「ほぉらやればできるんじゃん」なんて言い、嗤う。
相手を嘲り笑うような気配のある笑いだった。
こんなカイン兄様の顔、見た事なかった。
こうして周りに指示をして報告を受けるところを見ると、『兄様が闇社会を牛耳っている』という話もやっと現実味を帯びてくる。
しかしこの時の『現実味』がまだまだ序の口だった事に、この後すぐに気づく事になる。
兄の後について、裏口から酒場の外に出た。
裏は細い路地になっていて、店の中の雑多な騒がしさから一変、しんと静まり返っている。
そこに、治安の悪そうな人たちが何人もいた。
顔が怖い人、大きな傷がある人、静かに燃える瞳を持った人。
一堂に会していたその人たちが、音もなくこちらに――いや、カイン兄様に視線を向ける。
「場所のあぶり出しは済んだらしいね」
「ふんっ、できてなきゃあ戻ってきてねぇよ」
「よかったよ。いつまでもあぶり出せなくて戻るに戻れず、野良犬化しちゃったりしなくて」
「あぁ?! てめぇ馬鹿にしてんだろ!」
言いながら、男が兄様の胸倉をグッと掴んだ。
私なら絶対に悲鳴を上げてしまっていた。
むしろ自分事ではないにも拘らずむしろ喉元まで上がってきた悲鳴を、ギリギリのところで抑える事ができた今の私を褒めてほしい。
そのくらいには、おそらく相手は本気で苛立っていて。
兄様は、すごい。
そんな感情をぶつけられても、まったく動じる様子はない。
むしろ余裕しゃくしゃくに、冷たい微笑を浮かべている。
隣でジャリッと地を踏みしめる音が聞こえたので見てみれば、ものすごい形相で歯を食いしばり何かに耐えているクシーさんの姿があった。
強く握りしめた手に血管が幾つも浮いている。
ブルブルと震えているその手だけでも彼女の怒りが分かりそうなものだけど、ここまで感情を露わにした彼女を初めて見て、私は少し驚いた。
こんなにも怒りに満ちているのにそれでも尚彼女が飛び出さないのは、おそらく兄様が胸倉を掴まれる前の一瞬で、わざわざこちらに目配せをし、手振りで彼女を制したからだ。
でなければ、彼女は今頃きっとカイン兄様が胸倉を掴まれる前に、両者の間に割って入り男を無力化していたのではないだろうか。
そう思わせるだけの説得力が、彼女の形相に籠っている。
「念のために言っておくけど、俺が何もしなかったのは、今も尚何もしていないのは、しちゃったらこの後の予定が狂うからだ。俺はね、これでも君たちの事をまぁまぁな駒だと思ってるんだよ。一つでもなくなれば、俺の描いた未来予想図が、ほんの少しだけ崩れる。――ただ」
言いながら、兄様がダランと下げていた手を、胸倉を掴んでいる男の手に添える。
「俺は、本気で手を噛んでくるような、舐めた駒はゴミだと思う」
そして見下すように嗤った。
「ゴミはちゃんと掃除しないとね。かつて俺がこの王都のアンダーグラウンドでやったみたいに、そしてこれからやるみたいに」
さぁ、お前はゴミなの? 駒なの?
暗にそう尋ねているのだと、おそらくこの場の誰もが分かったと思う。