蛍光灯の下
閉会のアナウンスが流れた。
スピーカーから実行委員長の声が響き、まばらな拍手がそれに続く。「本日はお越しいただきありがとうございました」という定型文が廊下に反響して、どこかで消えた。
東はカメラを首から外した。
SDカードの残量がほぼゼロ。二百枚以上。朝から夕方まで、シャッターを切り続けた一日分の記録が、このカード一枚に詰まっている。
教室では片付けが始まっていた。ステンドグラスのセロファンを剥がす手。ツタの装飾を解体する手。段ボールのフレームを畳む手。三時間前には童話の世界だった場所が、手作りの素材の山に戻っていく。
白坂がエプロンドレスの上から作業着を羽織り、指示を出している。グレーテルから現場監督への切り替えがあまりにもスムーズで、誰も突っ込まない。
「東くん、写真のデータ、パソコン室に落としてきてくれる?」
「了解」
SDカードをポケットに入れて、教室を出た。
◇
パソコン室は無人だった。
蛍光灯のスイッチを入れると、白い光が並んだモニターを照らす。文化祭の喧騒がここまでは届かない。
一番奥の席に座り、SDカードを差し込む。画面にサムネイルが並んでいく。小さな四角形の中に今日一日が圧縮されていて、一枚ずつ確認しながらフォルダに分けていく。
白坂のグレーテル。河北の姫。大林の焼きそば。カーテンコール。西日の中のカフェ。
どの写真も、悪くない。
光の加減も構図も素人の域を出ないが、被写体がいい。白坂の指先。河北の横顔。大林の笑い声が聞こえてきそうな一瞬。みんな、自分の武器を全力で振るっている瞬間が、ちゃんと写っている。
撮った人間の名前は、どこにもない。
写真を撮る側は、写真に写らない。それは当たり前のことで、東がいちいち気にすることでもないはずだった。
「――意外とまともに撮れてんじゃん」
声がした。背後から。
東の指がマウスの上で止まる。
振り返ると、パソコン室の入口に如月優奈が立っていた。
腕を組み、ドア枠に肩を預けている。文化祭の赤い法被を着崩して、その下は黒いTシャツ。銀のネックレスが蛍光灯の光を反射している。
口元には、いつもの――人を見下すような、だが同時にどこか退屈そうな薄笑い。
「如月」
「データ整理? ご苦労さま」
如月はゆっくりと室内に入ってきた。東の隣のモニターをちらりと見て、鼻で笑う。
「白坂ばっか撮ってんね」
「……写真係だから。衣装担当を多めに撮っただけだ」
「ふーん」
そのまま、隣の椅子に座った。キャスターが床を擦る音が、静かな室内に響く。
距離が近い。
東は画面に目を戻そうとしたが、如月の視線がモニターに貼りついたまま動かない。サムネイルを一枚一枚、なぞるように見ている。
「ねぇ」
「なんだ」
「一つ聞いていい?」
如月の声のトーンが一段落ちた。
退屈そうな薄笑いが消え、代わりに現れたのは妙に落ち着いた――いや、落ち着きすぎた表情。獲物を見定めた後の、静かな目。
「あんたさ」
如月は椅子をくるりと回し、東に正面から向き合った。
「松田の中に入ってたの、あんたでしょ」
空気が凍った。
蛍光灯の微かなジー音だけが、室内を満たしている。
東の心臓が一度大きく跳ねて、次の拍動までの間が、やけに長く感じた。
「……何の話だ」
「とぼけなくていいよ」
如月は腕を組んだまま、東の顔をまっすぐに見ている。
「あたし、松田が変わった時期と、あんたが変わった時期、照らし合わせたの。松田が別人みたいに大人びたのと同じ頃、あんたも急に雰囲気変わったって白坂が言ってた」
東は何も言えなかった。
「喋り方のクセって、そう簡単に変わんないんだよ」
如月は人差し指を立てて、東の顔の前で振った。
「"おかしいだろ?"。あんた、それ口癖でしょ。松田の中にいた時も同じこと言ってた。修学旅行の夜。あたしが録音したやつに、ばっちり入ってる」
東の背筋を、冷たいものが走り抜けた。
録音。あの時の録音が、まだ残っている。
「……」
「黙ってていいよ。別に否定してほしくて言ってるわけじゃないし」
如月は椅子の背もたれに体重を預けた。天井を見上げる。蛍光灯の光が、横顔を白く照らす。
「あたしが聞きたいのは一つだけ」
視線が、天井から東に戻る。
「松田が目ぇ覚まさないの、あんたのせい?」
東の喉が干上がった。
答えを知らない問いではない。答えたくない問いだ。
松田翔太が病室で眠り続けている。心拍モニターだけが動いて、それ以外の全てが止まった白い部屋。ひなが泣いていた。手の甲に落ちた涙の温度を、まだ覚えている。
俺がこの身体に入ったせいだ。
その可能性をずっと考えていた。ずっと考えて、ずっと答えが出なくて、ずっと目を逸らしていた。
「……わからない」
絞り出すように言った。
「わからないって?」
「わからないんだ。俺がやったのか、そうじゃないのか。入れ替わりの仕組みも、松田が倒れた原因も、全部わからない」
声が震えているのが、自分でもわかった。情けない。二十七歳の記憶を持つ人間が、十七歳の女子の前で声を震わせている。
如月は東の顔をじっと見ていた。嘲笑も怒りもない。ただ、見ていた。東の言葉が嘘かどうかを測るように。
「……本当にわかんないの」
「ああ」
「調べてないの」
「調べてる。調べてるけど、手がかりがない」
如月は小さく舌打ちした。
椅子から立ち上がり、窓際に歩いていく。窓の外はもう夕暮れだった。校庭ではテントの撤去が始まっている。さっきまで祭りだった場所が、ただの校庭に戻ろうとしている。
「だっさ」
如月が言った。窓の外を見たまま。
「調べてるけど手がかりがないって、何もしてないのと同じじゃん」
「……」
「人の体乗っ取っといて、壊しといて、"わかりません"で済むと思ってんの?」
声が震えていた。
如月の声が。
東は顔を上げた。
窓際に立つ如月の肩が、かすかに揺れている。腕を組んだ手の指が、自分の二の腕に食い込んでいる。
「あたしは……」
如月は一度言葉を切り、唇を噛んだ。
「あたしは、松田に告白して、振られて、それでも諦めきれなくて。あんたが松田じゃないって気づいた時だって、松田が戻るのをずっと待ってた」
振り返らない。窓の外だけを見ている。
「なのに松田は帰ってこなかった。代わりに病院のベッドで寝てる。目ぇ覚まさない。あたしが待ってた松田は、どこにもいない」
声が震えから怒りに変わった。
「で、あんたは何? こんなとこで写真整理? 文化祭楽しかったですかって?」
如月が振り返った。
目が赤かった。泣いてはいない。泣く手前の、ぎりぎりのところで踏みとどまっている目。
「ふざけんなよ」
東は、何も言い返せなかった。
反論する材料がなかったからではない。
如月の言っていることが、全部正しかったからだ。
人の身体を借りて、好き勝手に使って、壊して、返せなくなった。それが事実だ。文化祭を楽しんでいる場合じゃないと、ずっとわかっていた。わかっていて、目の前の忙しさに流された。写真を撮って、白坂と話して、ひなのクッキーを受け取って。
全部、逃げだった。
「……ごめん」
声が小さい。パソコン室の静寂に、かろうじて届く程度。
「謝んなくていい」
如月は鼻をすすった。一度だけ。
「謝られても松田は起きない」
「……ああ」
「あんたにできることがあるなら、やれ。ないなら探せ。それだけ」
如月は法被のポケットに手を突っ込んで、入口に向かって歩き出した。
東の横を通り過ぎる時、足が止まった。
「録音と写真は、まだ持ってる」
横目で東を見る。
「松田が目ぇ覚ましたら消してやる。覚まさなかったら……わかるよね」
東は頷いた。
如月はそのまま、パソコン室を出ていった。
ドアが閉まる音が、蛍光灯のジー音に溶けて消えた。
◇
東はしばらく動けなかった。
モニターの画面がスクリーンセーバーに切り替わる。暗い画面に、東の顔がうっすらと映っている。
松田翔太ではない。東時生の顔。中の下。取り柄のない、普通の男の顔。
如月の声が、頭の中でリフレインする。
――人の体乗っ取っといて、壊しといて、"わかりません"で済むと思ってんの?
済むわけがない。
わかっている。最初からわかっていた。ただ、わかっていることと向き合うことは別で、向き合うことと行動することはもっと別だ。
東はマウスを動かし、スクリーンセーバーを解除した。
画面に、さっきまでの写真が戻る。サムネイルの列。白坂。河北。大林。ひな。カフェ。劇。拍手。笑顔。
この写真の中の全員が、松田翔太と接点がある。松田がいた場所に、東が代わりに立っている。松田の友人と話し、松田のクラスで文化祭をやり、松田の妹からクッキーをもらった。
全部、借り物だ。
写真だけが、東時生のものだった。
データの保存を済ませ、SDカードを抜いた。パソコンの電源を落とし、椅子から立ち上がる。
足が重い。如月の言葉が、鉛みたいに脚にまとわりついている。
それでも歩く。教室に戻らなければ、片付けがまだ残っている。




