それぞれの持ち場
文化祭が始まった。
昇降口には来場者がごった返し、案内板の前で地図を覗き込む他校生や、スマホで写真を撮る保護者の姿がある。スピーカーから流れるアナウンスが廊下に反響し、どこかで歓声が上がっている。
その人混みの中を、東は早足で歩いた。
制服姿。コスプレなし。手ぶら。完全に出遅れた男の格好だ。
教室に着くと、「童話カフェ」は満席だった。
アーチ型の入口をくぐれば、ステンドグラス風のセロファンが窓を飾り、壁にはツタの装飾。林の材木で組んだフレームに白坂がレースを巻いた、段ボールには見えない内装。赤ずきん、チェシャ猫、ハンプティ・ダンプティ――コスプレしたクラスメイトが忙しなくお客を捌いている。
その中に、白坂がいた。
エプロンドレスに白いブラウス。裾のラインには小さなフリルが走り、腰にはリボン。スカートの丈は膝上で、白いニーハイがその下を引き受けている。編み下ろした銀髪がいつもより幼く見えて、完全にグレーテルだった。
自分で仕立てたのだろう。既製品の安さがどこにもない。ステッチの間隔、生地の落ち方、襟元のギャザー。白坂の手仕事だと、見ただけでわかる。
「すごいな。」
と同時に、白坂がこちらに気づいた。
「あ、東くん。どこ行ってたの」
カウンターの奥から顔を出し、呆れ顔でカメラを差し出す。クラス共用の古いデジカメ。
「写真係いないから、誰も記録撮ってないんだよ?」
「悪い」
「もう。お客さん入ってるうちに撮って」
「了解」
カメラを受け取り、教室の隅に移動する。
ファインダーを覗く。四角い枠の中に、文化祭がある。
賑わう客席。コスプレで給仕するクラスメイト。笑い声。紙コップの飲み物を運ぶ手。小道具の森の木が傾いて、慌てて直す男子。
シャッターを切る。また切る。アングルを変えて、もう一枚。意外と忙しい。
◇
十時半。東はカメラを首から下げたまま、教室の外に出た。
人混みを避けて階段の踊り場に立つ。窓から校庭が見える。テントが並び、焼きそばの煙が白く立ちのぼっている。呼び込みの声が重なり、どこかのクラスのBGMが地面を揺らしている。
人混みの向こうに、大林康太がいた。
焼きそばの鉄板の前。エプロン姿でヘラを振り回しながら何か叫んでいる。隣の男子が爆笑し、列に並んでいる客まで笑っている。大林が何を言っているかは聞こえないが、面白いのだと伝わる。声のトーン、身振り、間の取り方。全部が「人を楽しませる」ために最適化されている。本人はそんなこと意識していないだろうが。
◇
教室に戻ると、ちょうど客の入れ替えの隙間だった。
白坂がカウンターの裏で紙コップを積み直している。グレーテルの衣装のまま。しゃがみ込む姿勢でエプロンの裾が床に触れそうになり、白坂は片手で摘まんで避けた。何気ない仕草なのに、布の扱いが丁寧だった。自分で縫ったものに、ちゃんと愛着がある人間の手つき。
「白坂」
東はカメラを構えながら声をかけた。
「その衣装、自分で作ったんだろ」
「うん。まあ、当然」
白坂は立ち上がりながら、何でもないことのように答える。
「生地は?」
「駅前の手芸屋。型紙はネットで拾って、襟だけ自分で変えた」
さらっと言っているが、やっていることが違う。ネットの型紙をそのまま使わずに襟を自分で変える。それは「服を着る側」の発想じゃない。「作る側」の発想だ。
「一枚撮っていいか」
「え、なんで」
「写真係だから」
白坂は一瞬きょとんとして、それから少しだけ姿勢を正した。左手でスカートの端をつまんで広げ、ほんの少し首を傾ける。
グレーテルだった。森に迷い込んだ少女が、ふと足を止めてこちらを振り返ったような顔。
シャッターを切った。
液晶画面で確認する。銀髪のおさげ。エプロンドレスの白。背景のステンドグラスが柔らかくボケて、白坂だけにピントが合っている。偶然にしては、悪くない。
「……上手く撮れてる?」
白坂が横から覗き込んできた。近い。シャンプーの匂いがした。
「まあまあだ」
「見せて」
東がカメラの液晶を傾けると、白坂は数秒じっと見つめてから、小さく「ふーん」と言った。
「衣装は良く撮れてる。ステッチもわかるし」
褒めたのは写真じゃなく衣装の方だった。職人だな、とまた思う。
「白坂はさ」
東はカメラのストラップを弄りながら言った。
「こういうの、将来やりたいとか思わないのか。服作るの」
白坂はカウンターに肘をついて、少し考える顔をした。
「……わかんない。好きだけど、好きなだけじゃダメでしょ」
「十分だと思うけど」
「何が」
「好きで、上手くて、それを欲しいって言う人がいる。それだけで十分だろ」
白坂が少し目を見開いた。
すぐに視線を逸らす。カウンターの紙コップを一個つまんで、指でくるくる回している。
「……東くんって、たまにそういうこと言うよね」
「そういうことって?」
「なんか……こう...。普段ぼーっとしてるくせに」
東は言葉に詰まった。
核心なんて突いたつもりはない。思ったことを言っただけだ。白坂の手にはドレスが縫える。それは紛れもない武器で、本人はその価値に気づいていない。だから言っただけ。
「ま、ありがと」
白坂はそう言って、紙コップを元に戻した。
「お客さん来るから、仕事して」
「了解」
東はカメラを持ち直し、入口の方に目をやる。次の客がアーチをくぐろうとしている。
カウンターに戻った白坂がグレーテルの笑顔で「いらっしゃいませ」と迎える。さっきまでの素っ気ない口調がまるで嘘みたいに、声の温度が上がっている。接客のスイッチが入った瞬間、白坂葵はグレーテルになれる。
切り替えの早さも含めて、あれは才能だ。
東はファインダーを覗きながら思った。
――で、俺は何ができるんだろうな。
◇
午後。劇の準備が始まった。
客席用のパイプ椅子が並べられ、照明代わりの懐中電灯にセロファンが巻かれている。背景幕の位置を微調整している実行委員。音響のスピーカーをテストしている男子。
白坂はグレーテルの衣装の上からエプロンを外し、針と糸を持って走り回っていた。河北のドレスの裾を直し、王子役の男子のマントの金具を付け替え、背景幕の歪みをピンで留める。手が触れるたび、百均の素材が舞台美術に化ける。
東はカメラを構えて、その手元を撮った。
ファインダー越しに見る白坂の指先に、迷いがない。針を刺す角度、糸を引く力加減。何百時間も布に触れてきた手だ。
◇
劇が始まった。
教室の照明が落ち、窓の暗幕で外光が遮られる。プロジェクターが背景幕に森の映像を投影し、スピーカーからBGMが流れ始めた。
東は教室の後方、ドアの横に立っていた。カメラを構えて。椅子は満席、立ち見も出ている。廊下にまで人が溢れ、つま先立ちで教室を覗こうとしている。
王子役の男子が登場する。セリフは棒読みだが声は大きい。森の動物たち。小道具の出来がいいから、演技の荒さを補っている。
そして――姫が現れた。
河北結羽がステージに立った瞬間、空気が物理的に変わった。
二十人分の息を呑む音が、同時に聞こえた。
白いドレスに懐中電灯のスポットが当たる。布地が光を柔らかく返し、髪の輪郭が縁取られる。真紅の瞳が、薄暗い教室の中で存在感を放つ。
それだけならモデルだ。
だが河北がセリフを口にした瞬間、モデルが消えて、姫になった。
「この城に光が戻るのを、私はずっと待っていた」
声に、感情がある。暗記したセリフを再生しているのではない。河北結羽の内側から汲み上げた、本物の何かが声に乗っている。表モードでも理論モードでもない、もうひとつの河北。
客席が静まり返っていた。拍手でも歓声でもない。沈黙。本物を見た時だけに起きる、あの沈黙。
東はファインダーを覗いた。四角い枠の中に、河北がいる。光を纏い、声を放ち、空間を支配している。
シャッターを切った。切れた。それだけだった。
すごいな、と思った。混じりけなく、素直に。
◇
劇が終わり、拍手が教室を揺るがした。
カーテンコールで河北が頭を下げると、拍手が歓声に変わった。王子役がおどけて手を振り、動物役が照れ笑い。白坂がカーテンの裏で、小さくガッツポーズをしている。グレーテルの衣装の腕がぐっと上がる。衣装係としての仕事が実った瞬間。
東はカメラを下ろして、拍手に混ざった。
河北のカリスマ。白坂の職人技。大林の天性の人間力。今日一日で、色んなやつの「武器」を間近で見た。
ふと思う。
――俺のとりえって、何だろうな。
料理? 行動力? 十年分の人生経験? どれもパッとしない。さっき白坂に偉そうなこと言ったくせに、自分のことになると何も出てこない。
まあ、今はいいか。まだ写真が足りてない。
◇
午後三時を過ぎた頃。
東はカメラのデータをパソコンに取り込む作業を終え、教室を出た。
廊下の窓から校庭を見下ろす。テントの数が減り始め、来場者もまばらになっている。西日がテントの白い布を赤く染めていた。
自販機でコーヒーを買おうとして、ボタンを押し間違えた。出てきたのはカフェオレ。
一口飲む。甘い。三間が好きそうな味だ。
「あ」
声がした。振り返ると、松田妹がいた。
私服姿。白いカーディガンに水色のスカート。来場者として校門から入ってきたのだろう。手には小さな紙袋。
「東先輩」
「松田か。来たんだな」
「はい。劇……間に合わなかったんですけど」
ひなの視線が東の顔を見て、一瞬だけ揺れた。松田の顔ではなく、東時生の顔を確認するような目。あの夜以来、ひなは東の正体を知っている。だから「東先輩」と呼ぶ。
「すごかったらしいですね、河北先輩」
「ああ。すごかった」
嘘じゃない。本当にすごかった。写真の出来も、たぶん悪くない。
「これ、差し入れです」
ひなが紙袋を差し出す。
「クッキー焼いてきました。……兄さんに教わったレシピです」
東は紙袋を受け取った。中を覗くと、丸いクッキーがきれいに並んでいる。大きさが揃っていて、焼き色も均一。丁寧に作ったことが、見ただけでわかる。
「上手いな」
「練習しました。兄さんが起きた時に、食べてもらいたくて」
ひなの声が、少しだけ揺れた。
東は何も言えなかった。
ひなにはクッキーがある。河北にはステージ。白坂には針と糸。大林には笑い声。
みんな「自分の手」で何かを届けられる。
俺は今日、写真を撮った。それだけだ。
「東先輩」
ひなが、少し黙ってから言った。
「兄さんのクラスの出し物、写真に撮ってくれてますか?」
「……ああ。一応、係だからな」
「じゃあ、あとで見せてください。兄さんが起きた時に、見せてあげたいんです」
東の指が、缶を握ったまま止まった。
兄さんが起きた時に。
その言葉が、さっきの「空欄」の答案用紙の上に、小さく落ちた気がした。
答えにはならない。一文字にも満たない。でも、白紙の上に何かが触れた感覚だけが、確かにあった。
「……わかった。ちゃんと撮っとく」
東はそう言って、首からぶら下がったカメラに触れた。
さっきまで「とりえ」が見つからなくてモヤモヤしていたのに、今は不思議とそれが気にならなかった。
やることがある。それだけで、少し楽になる。
◇
ひなが去った後、東は教室に戻った。
文化祭の終了アナウンスまで、まだ一時間ある。片付けが始まる前に、撮り残しがないか確認しなければ。
教室に入ると、白坂がグレーテルの衣装のまま、一人でカウンターを片付けていた。他のクラスメイトは客の対応に出ている。
「白坂、まだ客いるのか」
「最後の回。あと三十分で閉めるって」
白坂は紙コップを拭きながら言う。
東はカメラを構えた。閉店間際のカフェ。客足が落ちて、さっきまでの喧騒が嘘のように静かだ。西日が窓から斜めに差し込んで、ステンドグラスのセロファンを通過した赤やら青やらの光が、白坂の銀髪にまだらに落ちている。
グレーテルの衣装が、その光の中で妙に映えた。
物語の終わりみたいだ、と思った。森から帰ってきたグレーテルが、日常に戻る直前の、最後の一コマ。
シャッターを切った。
「また撮ってる」
白坂がこちらを見る。怒ってはいない。少しだけ不思議そうな顔。
「東くんさ」
「ん?」
「お菓子の家が目の前にあったら、入る?」
唐突な質問だった。ヘンゼルとグレーテルの話だとすぐにわかったが、意図がわからない。
「……入らないだろ。罠だし」
「でもお腹空いてたら?」
「空いてても入らない」
「なんで」
「だって、中に何があるかわかんないだろ。見た目がどんなに良くても、中身がどうかは別だ」
言ってから、自分の言葉に少しだけ引っかかった。
見た目がどんなに良くても、中身がどうかは別。
――それは、松田の身体のことか?
白坂はカウンターに顎を乗せて、じっとこちらを見ていた。
「私はね、入ると思う」
「罠なのに?」
「だって、入ってみないとわかんないじゃん。罠かどうかも、本当のことも。外から眺めてるだけじゃ、何もわかんないよ」
白坂の目が、普段の温度とは少し違っていた。何かを確かめるような、あるいは何かを伝えようとしているような。
「……お前、意外と肝座ってるな」
「グレーテルだからね、今日は」
白坂はそう言って、ふっと笑った。いつもの力の抜けた笑い方。でも目だけが笑っていなかった。
東にはその視線の意味がわからなかった。白坂が何を言おうとしているのか、何に気づいているのか。
わからないまま、カメラのストラップを弄る。
客が一組、入ってきた。白坂はすぐにグレーテルの顔に切り替えて、「いらっしゃいませ」と笑顔で迎える。
東はまた、ファインダーの向こう側に戻った。
◇
カメラの電源を入れ直す。
液晶画面に、今日の写真が表示された。
童話カフェの賑わい。グレーテル姿の白坂。白坂の指先のアップ。劇のステージに立つ河北。拍手する客席。カーテンコール。西日の中で佇むグレーテル。
写真を一枚ずつ送っていく。白坂はグレーテルになりきっていたし、河北は完全に姫だった。普段より三割増しくらいの顔で、みんな楽しそうだ。
悪くない。
自分で言うのもなんだが、悪くない写真だと思う。
東はカメラを持ち直して、教室に入った。片付け前の最後の時間。まだ賑わっている童話カフェに、ファインダーを向ける。
白坂の言葉が、頭の隅に残っている。
――外から眺めてるだけじゃ、何もわかんないよ。
俺のとりえが何なのかは、まだわからない。
でも、ファインダーの向こう側の景色が嫌いじゃないことだけは、今日わかった。




