朝
いていた。
廊下にはまだ人影がまばらで、校舎全体が目を覚ましたばかりのような静けさ。
東は教室の扉を開けると、すでに先客がいた。
カーテンを半分だけ開け、外の様子をぼんやり眺めている河北。
別に話す事仲では無いので、近くの
「……今日、早いね」
独り言に近い調子だった。
「まあ、なんとなく」
東はそう返す。
嘘ではない。理由は説明できないが、事実でもある。
河北は一度頷き、また窓の外に視線を戻した。校庭では、すでに実行委員らしき生徒が慌ただしく動いている。
「文化祭って、始まる前が一番落ち着かないよね」
「わかる」
即答すると、河北は少し意外そうな顔をした。
「松田くん、そういうの気にするタイプだっけ?」
――しまった。
東は内心で小さく舌打ちする。
“松田”としての自分と、“東”としての感覚が、こういうところで微妙にズレる。
「……まあ、たまには」
誤魔化すように肩をすくめると、河北は「ふーん」と意味ありげに笑った。
また、短い沈黙。
そして、河北は椅子の背もたれに軽く寄りかかりながら、何気ないふりをして言った。
「そういえばさ」
来るな、と東は思う。
でも、来る。
「最近、松田くん……変じゃない?」
心臓が、ほんの少しだけ跳ねた。
「変?」
「うん。なんていうか……前より落ち着いてるっていうか。急に大人っぽくなったっていうか」
それはつまり、中身が入れ替わっているということなのだが、そんな説明ができるわけもない。
「気のせいじゃない?」
東は、できるだけ軽く言った。
「そうかな」
河北は首を傾げる。
「でもさ、前はもっと……こう、雑だったでしょ? 話し方とか」
それは完全に、元の松田のことだ。
東は思い出す。
病室で見た、眠ったままの松田翔太。
機械音だけが淡々と響く、昏睡状態の身体。
「……人って、変わるもんだろ」
そう言いながら、東は机の端を指でなぞる。
自分は確かに松田に会っている。
だが、それは“話せる松田”ではない。
「ねえ」
河北が、少しだけ声を落とす。
「最近、松田くんに会った?」
――それだ。
さっきの「いきなりすぎる」質問より、ずっと自然で、ずっと鋭い。
「……会ったよ」
嘘ではない。
事実だ。ただし、真実ではない。
「そっか」
河北はそれだけ言って、ほっとしたように息を吐いた。
「よかった。ずっと忙しそうだったから」
東は思う。
忙しいのは、松田じゃない。俺だ。
「河北は?」
「え?」
「会いたいの?」
一瞬の沈黙。
そして、河北は慌てたように首を振った。
「べ、別にそういうわけじゃ……!」
典型的な否定。
ラブコメ的には満点の反応だ。
「ただ、文化祭だし。クラスも一緒だし」
「ふーん」
今度は東が、わざと曖昧に返す番だった。
「なにその反応」
「いや」
東は立ち上がり、カバンから文化祭用の腕章を取り出す。
「会いたかったら、言えばいいのにって思っただけ」
河北は一瞬、言葉に詰まり、それから小さく笑った。
「松田くん、やっぱり変」
「そう?」
「うん。でも……」
そこで言葉を切り、河北は東を見る。
「嫌じゃないかも」
その一言で、東の胸の奥が、わずかにざわついた。
読者だけが知っている。
彼女が“気になっている松田”は、
今、目の前にいる東時生そのものだということを。
そして当の本人だけが、
その事実から、一番遠いところにいる。
教室の外から、賑やかな声が聞こえてきた。
文化祭が、本格的に始まろうとしていた。
二人きりの時間は、もう終わる。
だが、この何でもない会話が、確実に何かを動かしてしまったことだけは、東にもわかっていた。




