創作のライブ感とキャバ嬢である創作者
創作のスレで、何度かライブ感なる言葉にぶちあたることがありますが、これってなろうみたいなウェブ小説だと、かなりあてはまるように思うんですよね。
要するに、毎日更新しないと評価されない読まれないのがデフォなので、自然とライブ感覚が生じるということです。
このライブ感覚というのは、ドフトエフスキーの悪霊のエピソードを想起させます。悪霊はタブロイド紙、今で言えばウェブでの毎日更新みたいな感じで、細かく連載されたのですが、その中で幼女が犯されるシーンが書かれたこともあったそうです。
このエピソードについては倫理的な問題から掲載を拒否され、構成を変えて発表されることになりました。その後、単行本になったときも、このエピソードは破棄されたままだったそうです。
ライブ感というのは、一気呵成の勢いで書いているということもそうですが、毎日書き続ける中で、創作物が簡単に外界の影響を受けるというような『柔らかさ』の問題として取り扱うこともできます。
なろうで、もし創作を始める際に、仮に書き貯めておかなかったりすると、この柔らかさ『ライブ感』はもろに創作物に影響しはじめます。
具体的に言えば、『◯◯は出ない方がいい』『◯◯の行動が気に食わない』『このエピソードいる?』とか、否定的なコメントのほうがより影響力は強いのではないかと思います。
この影響力を避けるために、ライブ感は紋切り型のストーリーを生み出しやすい土壌を創ります。
例えば、2000文字や3000文字くらいの中で、ストーリーのうねりを創るのは至難ですから、何話分かかけて、うねりを創り出すわけですが、最初の2000文字の段階で、それには『NO』をつきつける読者が必ずいるということです。
そんな読者がいないぐらい閑散とした小説ならそういうことは起こらないかもしれませんが、ランキングにかけのぼった小説はたぶん必ずそう言う人は出てくるでしょう。
それでも物語のうねりを生み出すために、ストーリーのスローライフ状態、安寧、安定なプラトーを脱する必要があります。
これって怖くねっていうのが、いままさにライブ感バリバリで書いているわたしが思ってることです。まあハッキリ言えば、ダラダラとずーっと変わらない関係性を書くこともできるっちゃーできるんでしょうが、これって引き伸ばしじゃねって思うんですよね。
なろうとか、ハーメルン、その他の小説でも、この引き延し傾向はわりと多いように思います。ライブ感がゆえに、逆に冒険心がなくなるわけです。安牌な安定の創作を続ける。
実際、まあなんというか、読者もそれを求めてるところはあるような気がします。
なろう小説の本質的な『おもしろさ』は、このダラダラさ……というか、低刺激を継続的に受け取るライブ感にあるとも思うからです。
作者は、商業的じゃなくて同人的な性質を強く持てば、どうしてもキャバ嬢的なサービス精神を強く持ってしまう。これはその要素がどのくらい優勢を占めるかという作者側の問題なのですが、作者は読者の感想を完全に切り捨てることはできないということです。
要はできるだけ楽しんでもらいたいという話で、そのためなら、ライブ感にしたがって、幼女がぶち犯されるストーリーは回避しようとする。つまりは、安牌である安定路線をとりがちになる。
なろう小説の主人公は、その精神性において『成長しない』とか、前にエッセイで書いたことがありますが、これも同じ理由だと思います。
成長したら、ライブ感からはずれてしまう。あるいはなろう主人公は勝ち続けなければならない。負けそうになってもいけない。そのストーリーのノリから外れた変奏をすると、読者が冷めてしまうかもしれないからです。
それもまた並外れたストーリー構築能力とかヘイト管理能力があればできるんでしょうが、これって上位ランキングで、感想できない設定にしている作者さんが多いところを見ると、かなり至難なのではと思ってしまいます。感想を切ることで自衛しているのでしょう。
であれば、創作者としては主に三つの道があることになります。
ひとつは、完成してから投稿すること。
ひとつは、山も落ちもない安定したストーリーを投稿しつづけること。
ひとつは、山も落ちもあるが読者の声をある程度聞かないこと。
以上です。ただ、三番目の読者の声をある程度聞かないっていうのは、かなり難しいんですよね。
わたしの中のキャバ嬢が顔をだしてしまうんです。
あ、これ……ダメかも。
安牌に逃げたいって。
実際には、読者に影響を受けるというより、
自分の中のサービス精神との戦いだったりするんですよね。
やっぱり書き溜めは重要な気がする……