4. ナツさん
青い錠剤を飲んだ日の夜、インターホンが鳴った。
一瞬、ニシモトの姿が浮かんだが、その想像を掻き消した。
ヤツならインターホンを押さないだろうし、そもそも、もう訪ねてくることはないだろう。
あの件があってから、明らかに俺を避けている。部屋の前を通るたび、息を殺して震えるように縮こまるニシモトを想像してしまう。
モニターの中には、右隣の部屋のナツさんが、小さく手を振って立っていた。
◆
遠慮なく上がったナツさんは、部屋を見回し、
「荷物まとめてるんだ。」
と、問いかけるでもなく呟いた。
「まあ、あとに国が手配した業者がくるとはいえ、一応。
ナツさんは、あの、俺の例のこと知ってるんですか?」
「聞いたよ。この住民の数じゃあ、噂ともいえないよね。
でも、他の棟の人にも少し広まってるよ。」
縛った本を興味なさげに手に取りながら言った。
ナツさんは、よくわからない人だ。
いつ部屋にいるのか分からないし、ときどき数日間空けている様子だった。
何度か互いの家で少し飲んだことはあったが、それだけで、あまり深入りしたいと思わなかった。
人当たりの良い軽い雰囲気だが、その奥底にいつも疲れを抱えているように見える。
「ふーん」と言いながら、一通り部屋の確認が終わったのか、ナツさんは、
「じゃあ、私の部屋で飲もっか。」
と、明け透けに言った。
◆
「俺、もう食べられなくて。」
と辞退した俺は、
「飲み物は問題ないでしょ?」
と半ば強引に、部屋に連れてこられた。
部屋の様子は以前と同じだった。
ドアを開けた瞬間、生活と怠惰と洗剤の籠った臭いが溢れ出した。
ズレたピンクの玄関マットは薄汚れ、流しには洗い物が、ドアの隙間から見える脱衣所には洗濯物が、乱雑に積まれている。
部屋の中も、脱ぎ散らかした服、袋に入ったゴミ、潰された空き缶、放置された食べ物が、ベッド、テーブルの上問わず、高級そうなバッグ、ファンシー雑貨と区別なく、そこら中に散乱していた。
「相変わらずですね。」
「それ、嫌味?」
と言いながら、冷蔵庫から缶の酒を2つ取り出している。
「何にか知らないけど、かんぱーい。」
酒は久々だったが、何も感じなかった。
「今、アルコール禁止の法案が進んでるみたいですね。
他じゃあ、もう可決された国もあるとか。」
「ねー。だんだんと生きにくくなってきてるよね。
これがなきゃ生きられない人がいるって、わかってんのかね。」
取り留めのない話をしながら。舐めるように酒を飲む。
それでも、空腹の身体にはアルコールがすぐにまわる。
◆
「でさ、なんでなの?」
くだらない話の間に、本題らしき楔が打ち込まれた。
一瞬、誤魔化そうかとも悩んだが、酒が口の滑りを良くしていた。
「それは、もういいかな、と思って。
やりたいことも特にないし、この先、未来が明るいとも思えないし。
単に、自分が淘汰される側の人間だった、ってことですよ。」
「とうた? いらないってこと?」
「そうです。俺は、世界に必要ない、ってことです。」
酔っている。そう自分でもうすうす気付いているが、調子の良い言葉が気持ちいい。
「ナツさんは、なんで生きてるんですか?」
やめろ。そんなこと、人に聞くべきではない。
「改まって聞かれてもね。
なんとなくじゃない? みんな、深く考えないで、ある程度、目の前のことに集中して。
遠くを見ないようにしてさ。
でないと、やってらんないよ。人生なんて。」
「でも俺は、冷静に考え込んでしまった。人生を、拗らせてしまった。」
言いながら、心地の良さの下に沈殿していた悲しみが心の中に広がる。
目頭が少し熱くなる。
「だから、もう駄目なんです。」
「そういう時もあるよ。」
ナツさんは、冷静だった。
「でさ、結局、タクミくんは、死んじゃうの?」
「はい。そうです。」
「楽しいこと、いっぱいあるよ?」
「でも、もう、いいんです。」
「そっか。」
遠くを見つめるように、酒を一口飲んで、ナツさんは言った。
ベッドに腰かけていたナツさんは、おもむろに立ち上がり、床に座る俺に、寄りかかるように座りなおした。
熱を帯びた身体からは、洗剤のにおいと、動物的な生々しいにおい、それと少し血の混じりあったにおいがする。
少し溶けたような瞳がこちらを見つめる。
「だめですよ。子供ができたら大変だ。」
「なんで? 別にいいじゃん。」
熱い手のひらが、Tシャツ越しにわかる。
「でも、生まれてくる子供が、かわいそうです。」
手が、上半身から少しずつ下がっていく。
ナツさんの顔が、耳元に近付く。
熱くなった頭と、早くなる鼓動を感じる。
一息入れて、ナツさんは言った。
「で、残ったおカネはどうするの?」
耳元で囁かれたその一言は、俺のすべての熱を一瞬で奪った。
すべてが冷たく感じる。
寄りかかるナツさんと、乱暴に距離を空け、荒々しく立ち上がる。
「ねえ! どうしたの?」
背後から呼び止める声を遮るように、開けた玄関ドアを、乱暴に閉めた。
(俺は、バカだ!)
凍えるほど冷静な脳味噌で、少し前の、いい気な自分を呪った。