2. 申請
何の前触れのない日だった。
前の日に勢いよく降った雨で、地面がまだ水浸しだったからかもしれないし、風邪のひきはじめで、調子が悪かったのかもしれない。
理由は、はっきりとしなかったが、どうしても仕事に行く気になれなかった。
デバイスを手に取り、連絡フォームの滞りなく表示される指示に沿って、勤務先へ当日欠勤の手続きを済ませる。
もし代わりの人員が見つからなくても、日勤メンバーへのディスプレイ上の指示が、均等に少しずつ増えるだけで、問題はない。
無理をする必要はない。また明日から、代り映えのしない毎日が再開されるのだ。
◆
その日から何日過ぎただろうか。
季節も変わったような気がする。
一度リズムを崩すと、空白の期間を延長するたび、それまで機械的に当たり前に行ってきた毎日のこなし方が、段々とわからなくなった。
今では、日常の生活品のためストアへ行くとき以外は、基本的に部屋にいる。
仕事に行けなくなってすぐの頃には、異変に気付いたニシモトが、たびたび訪ねてきた。
訪ねてきたといっても、ドアノブを遠慮なくガチャガチャと上下させ、無神経に玄関ドア越しに声を掛けてきただけなのだが。
最初は無視していたが、少しずつ溜まった怒りに堪えかねて、
「いい加減にしろ!」
と対面で怒鳴ってしまった。
ニシモトは、それを全く気にしない様子で、
「どうして? ねえ、どうして?」
と執拗に俺の仕事に行かない理由を聞いてくる。その態度に、逆に俺が面食らってしまい、歯切れの悪い言い訳を繰り返す。自分の状況を再認識させられているようで、惨めな気持ちになる。
頭の中に一匹の喋る虫が入り込んできたような不愉快さだ。
「うるさい!」
さっきよりも大声で怒鳴り、ニシモトをドアから離すように押し出す。納得のいかない様子のニシモトを尻目に、その関係性を断ち切るように、怒りに任せて乱暴にドアを閉めた。
ニシモトもこれに懲りたのか、訪問の頻度は以前と比べると、だいぶマシになった。
◆
気を紛らわすための娯楽は、ネット上に数限りなく提供されており、籠るようになってすぐの頃は、無我夢中で、食い散らかすように消化していた。だが、気の済むまま一時の快感を貪り食うことを繰り返しているうち、脳と心の距離が空くようになった。脳はさらに刺激を求めるが、心は次第に何もを求めなくなる。そうするうち、心は石のようになった。
今では、五感を働かせることが億劫になった。
キクチから預かった原稿は、結局、うっすらと積もったホコリを払っただけで、読まずにそのまま返した。
キクチは少し残念そうだったが、ネット上には俺よりも文章のわかる人がいくらでもいる。
評価ならAIにだって可能だ。ちゃんと感想もくれるし、それをきっかけとした関係もつないでくれる。
俺から感想をもらう必要はないし、俺が読む必要も、全くない。
仕事の契約更新のキャンセルはデバイス上で手続きを行い、少しの違約金が給与から相殺されただけで事なきを得た。
こうして自分にはすべきことも、予定も、何もなくなった。
最初は、どこにも属さない、社会に足の着かない浮遊感のような感覚に、心細さを覚えた。しかし、そのうちその感覚に慣れたのか、感覚自体が麻痺したのか、特に何も感じなくなった。
ただ、後ろめたさのような薄暗い気持ちだけは、ずっと引きずっている。
◆
考えるという行為は、人を不幸にする。
何もしていない頭の中に、とりとめのない考えが巡る。
なぜ生きているのか。単純だが、泥沼のようなその問いかけに片足を取られてしまう。立ち止まって、考えれば考えるほど、深みにはまっていくような感覚。
もともと、生きることにたいする虚無感は、物心ついたときからずっと傍にいた。
そのきっかけは、生き物には寿命があると知ったことか。それとも、自分が生きられるであろう秒数が、計算機の画面にすっぽりと収まったことか。
今となっては、どうでもよい。
同じ問いを自分自身に投げかけるその姿は、自分のしっぽを追いかける犬のようで、無駄で、滑稽で。
しっぽがあった方が、実体のない考えを追いかけるよりもマシだったかもしれない、とも思う。
時代が進むとともに、精霊、神、雲の上の世界から、遠く離れ、茫漠とした砂漠に向かっているような気がする。信じるものは、その身から剥がれ落ちた。明るかった先行きも、人工的な照明によるものだと気付いた。それでも歩みを止めることは許されず、闇に包まれた不毛の地を突き進む。見えない足元を踏みしめたびに広がる不気味な感触からは、腐敗臭でさえ漂ってくる。
機械化の先にあった大量生産・大量消費は、効率化に淘汰された人間に新たな意味を持たせるための理由に過ぎず、そのしわ寄せとして、おぞましく醜い行為が繰り返され、基盤となる大地は消費されることとなった。
もはや、進むことに何の意味があるのだろう?
俺は、歩くことを止め、歩き出すことも放棄した。
◆
何度閉鎖された思考の中をグルグルと回っただろうか。
あるとき気付いたのだ。ここから出る唯一の方法が、その中心にずっと置かれていたことに。
困難も工夫も必要のない方法が示されていたことに。
朝か昼か夜か、一体いつかわからない靄の中、手に取ったデバイスの光を頼りに、俺は、国直轄の公的機関の申請フォームを開いた。