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病と、出会い。







_________ この世界は 記憶 で溢れている。








『2組の七瀬 朝陽、超能力者らしいぜ』

『こわー』

『でも、それってずるくない?』

『えー羨ましい』





ふざけるのもいい加減にしてくれ。だいたい私は、超能力者でもなんでもない。ただの女子高生だ。まあ、少しだけみんなと違うところはあるかもしれないが。


毎日廊下を歩くだけで指をさされヒソヒソと噂される。軽蔑の視線を浴びせられる。正直、こんな生活にはうんざりだった。



多くの人は私を羨ましがる。


七瀬 朝陽 (ナナセ アサヒ) 17歳。


私は、超記憶症候群。ハイパーメシア 又は サイメシア とも呼ばれる病に犯されている。


簡単に説明すれば、見聞きした全ての出来事をつぶさに記憶し、過去の出来事がまるで今その場で起きているかのように思い出せてしまうほど、物事を細かく覚えてしまうものだ。


たしかに、いい記憶はいつまでも消えることのなく思い出せるし、授業を集中して一字一句見逃さないようにきいていれば テストを間違えることもない。



でも いいことばかりじゃない。



私は、私を羨む彼らが 羨ましい。














am 5:49



ああ、まただ。



____『朝陽、ごめんね。こんなお母さんを許してくれる?』

____『お母さん、いかないで、』



____『ごめんね、愛してる』




少し独特な香りのするあまり広くもない薄暗い病室。周りには、白衣を着て 申し訳なさそうに母を見つめる1人の医者と担当の看護師。そして14歳だった兄は黙って涙を流していた。ベッドの上にはいつのまにか痩せ細った母がいて、まだ小学生だった私は母の手を握っている。


愛してる。母はそう言った数秒後、ゆっくりと目を閉じた。だんだんと冷えていく手の冷たさと、母の頰を流れる一粒の涙。ピー と鳴り響く音に私は絶望感でいっぱいになった。



____『お母さん、!』



いくら呼んでも返事はない。それでも涙を流しながら母の体を揺する私を兄は止めて、私を抱きしめてくれた。



薄暗く、肌寒い病室は 涙に包まれて


母 は亡くなった。





am 5:56





またか。



ふと記憶から抜け出して、時計を見ると7分が経っていた。ベットから降りて洗面台に向かうと鏡の中には泣いてる私がいる。気がつかないうちに涙は溢れている。



「はあ、」



毎日毎日、朝から憂鬱だ。朝起きた瞬間に嫌な記憶や悲しい記憶が思い出される。まるで、自分がその場にいるかのように鮮明に思い出してしまう。気を抜くとすぐに記憶の中に入ってしまう。


私は記憶に縛られているんだ。






「朝陽?早いね」


「お兄ちゃん、ごめん 起こした?」



眠そうに目を擦りながら現れたのはお兄ちゃん。起こしてしまったのならば申し訳なくて謝るとお兄ちゃんは首を横に振って、柔らかく笑った。



「大丈夫。今までずっと、仕事してた。」



当たり前のようにそう言ったお兄ちゃんだけど、それ普通に考えて超不健康だからね?今6時だよ?なんて叱りたいけど、お兄ちゃんは私のために働いてくれているから私は何も言えない。何か言える立場じゃない。


お母さんが亡くなってから、お兄ちゃんは全部を背負った。中学を卒業したらすぐに働きに出て、生活費も私の学費も 全部 稼いでくれたのはお兄ちゃんだ。ときには、夜の仕事をして朝に甘い香水の匂いを纏って帰ってくることもあった。


お兄ちゃんは、


身を削ってまで私を守ってくれた。




「ありがとう、お兄ちゃん。」


「え?あぁ、ううん。朝陽は心配しなくていいよ」


「、うん」



もうすぐ壊れるんじゃないかってぐらい古いこの家に、2人暮らし。それでもいい。それでもいいから、お兄ちゃんがいつか本当にやりたいことをできますように。私はお兄ちゃんのどこか寂しそうな後ろ姿にそう願った。






「お兄ちゃん、行ってきます」


「行ってらっしゃい!気おつけてね」



見送ってくれるお兄ちゃんに手を振って家を出た。ドアを閉めた瞬間に私の笑顔を消える。学校に行くことが私にとって1番のストレスだ。バスに乗っても、ただ道を歩いていても 指をさされる私の身にもなってくれ。


教室に入ると一気に視線が集まり、一瞬静まり返るとまたざわざわと騒がしくなる。こんな学校生活のただ1つの救いは私の席が窓側の1番後ろってことぐらいだ。これほどまでに平和な席は無いと思う。



イスに座って、好きな作家さんの新作の本を開きヘッドホンをつける。こうすれば、記憶にひきづりこまれることもクラスで起こる喧嘩や噂話が、一生忘れられない「記憶」になることもないから。




友達なんて、いない。


それでいい。大切な人がいなくなる辛さを何度も何度も感じなきゃいけないなら、1人でいた方がずっとましだから。



隣の窓から、かすかに風が吹いて髪の毛を揺らした。ゆらりと揺れる髪を耳にかけて、本のページをめくる。



これ以上も、これ以下もいらない。



これでいい。それでいい。





pm 4:36




やっとつまらない授業も終わった。いつものようにバッグに荷物をつめて、帰る準備をしたけれど今帰る気にもなれなかった。家には誰もいない、かといって遊ぶ人もいない。孤独 だな、私。



『あ、七瀬 ちょうどいいところに。これ、第二音楽室に運んどいて』


「え、あ、」


『よろしく』



いつのまにか私の腕の中にはあるのは、ダンボール箱二つだ。先生も人使い荒いなあ。よく女の子にダンボール持たせようとするな、まぁ持てるけどさ。なんて頭の中では文句ばかり浮かんだがどうせ暇な私はゆっくりながらも第二音楽室に向かった。



「おも、」



運んでいる最中、思わず本音が出てしまった。意味のわからないほど重いこのダンボールの中に何が入ってるのかは不明だけど、流石に重くて腰と腕が痛くなってきた。



「やっとだ」



長い廊下の突き当たりを右に曲がるとやっと見える第二音楽室。そもそもこの部屋は今は使われていない、物置状態だ。かろうじてピアノはしっかりと残っているけど。そんなことはまぁどうでもいい。今はこの重さから解放されたい。


私はなんとか腕でドアを開けて、第二音楽室に入り積み重なった箱の端に、持ってきたダンボールをふたつ適当に置いておいた。



「いたたた」



腰を抑えながら少し反ると ぼきぼき と骨がなった。ふぅ とひとつ小さくため息をつくと、風が吹く。ふと後ろを振り向くとベランダに繋がる窓は開いていて、そのベランダには金髪の男の人がいた。それに気づいたすぐ後、彼はベランダの柵に足をかけた。その行動を見て私の頭には"自殺"の文字が浮かび、とっさにベランダに向かって急いだ。



「まってまってまって!!!死なないで!」



私は彼の腕を思いっきり引っ張りながらそう言うと彼は一瞬目を丸くしてから、ふはは と笑った。そして何故か柵から降りて未だに楽しそうに微笑んでいる。



「いや、笑うところじゃない」


「ごめん、いや、うん、ごめん」



相変わらずニコニコと笑う彼の顔を改めてしっかり見てみると想像していたよりずっと整った顔をしている。これが俗に言うあれか、イケメンってやつか。



「大丈夫。俺、死のうとしてないよ」


「あ、え、そう なんだ」



恥ずかしい。つい先走って彼を引きずり回すところだった。彼はニコリと笑顔を見せて、私の頭に手を乗せて優しく撫でてくれた。



「でも、ありがと。いいやつだな」


「、いや、別に」



彼の言葉に若干の戸惑いや照れが生まれた。私がそれにおどおどしているといつのまにか彼は音楽室に戻ってピアノの椅子に座っている。私は追いかけるようにベランダから出て、少し距離の離れたパイプイスに座った。



「なんでさ、あんなに必死に自殺止めようとしたの?」


「なんで、って、もったいないじゃん」


「もったいない?」


「せっかく貰った命なのに、自分から捨てるなんてもったないよ」



私がそういうと彼は一言 そっか と呟いて目の前のピアノに手をかけ、たった一音だけを鳴らした。絶対音感があるわけじゃない私はそれがなんの音なんかなんて分かりもしないけど、ただその一音が頭の中に響き続けた。



「いつ消えるかわからないものだから」


「え?」


「わからないから、怖いんだ。命って」



そう言った彼はどこか寂しそうで、悲しそうだった。私は彼のことなんて何も知らない。今、初めてあったばかりの人。でも、初めてだった。初めて、誰かを知りたいと思った。



「いつ死ぬかなんてきっと、神様しか知らないんだよ。だからもう、後悔したくないの」


「、俺もだよ。


だから、君は笑って」



彼は不意に椅子から立ち上がる。その瞬間また、ふわりと風が吹いた。



「君は、笑ってた方が可愛い」



まるで時間が止まったかのように私の思考は停止した。眩しいほどの笑顔で 可愛い と吐き出した彼。これは現実なのか?そもそもこの出会いが幻なのではないかと一瞬疑ってしまった。


我に帰ると、彼はもういつのまにか第2音楽室を出ようとドアを開けていた。



「これも!」


「ん、?」



「これも、後悔しないために聞きたい。あなたの名前、教えて」



もしもこれが最後だとしても、この記憶を私の脳内で いい記憶 として残しておきたいから。彼は少しだけ考えてからゆっくりと振り向いた。



「んー、ナ・イ・ショ・♡」



彼は人差し指を唇に当ててウインクをして冗談交じりにそういうと、この部屋から消えた。1人残された私は、はぁ?!と本音を漏らした。だけどそれがどこか可笑しくてつい笑みがこぼれる。



「なにこれ」



初めての彼との出会いはあまりにも独特で、初めての彼との別れもあまりにも独特だ。



いつかもう一度、彼に会えますように。なんて、叶いそうにないことを私は願った。



そしてまた、


この全ての記憶が脳内に住み着いたのだ。






pm 11:30




「お兄ちゃん、どうしたの?!その傷!」




兄は帰ってくると静かに涙を流して、顔中に傷を作って呆然と立ち尽くしていた。お兄ちゃんが泣いているのは母が死んだあの日以来だ。あの日からきっとお兄ちゃんは我慢し続けていたから。



「朝陽、」


「救急箱、持ってくる」


「、ごめん」



なんで?なんでお兄ちゃんが謝るの?分かんない、私には分からないよ。けど、今はそれよりも手当だ。どこにあるかもよくわからない救急箱をやっと見つけて、お兄ちゃんのところに戻る。



「痛いかもだけど、我慢してね」



傷口に消毒液をつけると、痛そうに顔を歪めるお兄ちゃん。それを見ているだけで心が痛んだ。



「聞かないの?なんで、傷だらけなのか」


「聞いていいの?」



彼は小さく頷いた。頰に付けられた絆創膏を少し撫でて ありがとう と告げると私をソファーに座るように言った。素直にお兄ちゃんの隣に座ると彼は悲しそうに微笑んで、コーヒーを一口飲み込んだ。




「父さんに、会ったんだ」




その言葉を聞いた瞬間、目の前が真っ暗になった。ただその言葉が頭の中をぐるぐると回って私の脳に刻まれていく。



「なんで?、どうして」


「父さんが金貸してくれって俺に連絡してきて」


「、貸したの?」


「断ったよ。断ったから、殴られた」



とことん、最低な親だ。昔から父は最低だった。ずっと、ずっと、最低だった。



「朝陽。もしかしたら父さんが、この家に来るかもしれない。」


「え、?」


「その時は、逃げて。いい?」



そもそも父とはとっくの前に縁を切ったはずでこの家を知るわけないのに、父は金欲しさに家まで突き止めたっていうの?もしそうだとして 私が逃げたら、そしたら



「お兄ちゃんは?お兄ちゃんは、どうするの?」


「心配しなくていいよ。大丈夫」



大丈夫じゃないくせに。よく言うよ。なんて怒りたいけど何も言えないのは、私が守られているから。お兄ちゃんが無理をしているのは全部、私のせいなのに 何もできないのは私にできることなんてないから。



「私は、この家にいていいの?ここにいる意味も 権利も、私にはない」


「朝陽、」


「私お兄ちゃんに迷惑ばっかりかけて、何もできてない、もうそんなの嫌だ、嫌なの!」



嫌なんだ。弱い自分が、迷惑しかかけれない私が。大嫌いだ。





「それでも、俺の妹だよ。大切な妹だよ」



お兄ちゃんはそう言った。私を 大切な妹 だと言ってくれた。やっぱり私は いつだってお兄ちゃんに守られていて、いつだって救われている。私達は、もうお互いしかいないから。



「ごめんね、お兄ちゃん」











am 6:03




_____『もう、やめて!』


_____『黙れ、くそ女』



またか。


お父さんがお母さんを殴っている。お母さんが泣き叫んでどれだけ抵抗しても、お父さんは暴言と暴力でお母さんを追い詰め続けている。お兄ちゃんの腕にはいくつもの大きな赤黒い痣があって、魂がなくなっているかのように部屋の隅っこで体操座りしている。私は呆然と、この光景を見ているしかなかった。



_____『おい、朝陽。ちょっとこい』


_____『やめて!子供には手出さないって約束したでしょ!』


_____『きゃあぁぁあ!』


_____『うるっせぇ、黙れ』



お父さんに無理矢理引きづられて、髪を引っ張られた。お母さんは血が出ている足を抑えて 泣きながらやめて と叫んでいた。だんだんと火のついたタバコが近づいてきて鈍い音の後、私の腕には跡がつく。私と母の泣き声と父と笑い声が薄暗い部屋に響いた。




am 6:18




「はぁ、はぁはぁ、」




また頬は濡れている。あぁ、もういい加減この記憶の呪いから抜け出したい。でもいくらそう願っても、いくら泣いても、嫌だ と叫んでもこの病気は消えてくれない。


ふと腕を見ると、未だにはっきりと残るタバコを押し付けられた跡。


私が見てしまうのは、夢でも幻覚でもなくて全て私の記憶だ。現実なんだ。












「行ってきます」



今日は返事は帰ってこない。まだきっと寝ている。兄が寝ているのを久しぶりにみたから、起こすわけにもいかなくて 小さく挨拶をして家を出た。


ここからは毎日が無限ループ。


バスに乗っても、学校の廊下を歩いても、何をしていても距離を取られる。噂される。そんなのにはいつのまにか慣れてしまっていて、いつものようにヘッドホンをつけて周りをシャットアウトする。



ここからは私の、私だけの世界だ。



ずっと、私だけで生きていくんだ。







pm 4:25



兄が傷をつけて帰ってきたあの日から一週間が経ったある日の放課後。


無い。無い。どこを探しても、ヘッドホンが無いんだ。バッグの中も、ロッカーの中も引き出しの中も教室中をくまなく流したのに見つからない。



『これじゃない?あんたが探してるの』



突然に上から聞こえてきた声に顔を上げるとそこにはクラスの一軍女子がいる。彼女が持っているのは紛れもなく私のヘッドホンだった。嫌な予感がする。この予感、当たらなければいいけど。



「そう、それ私の。ありがとう」



何事もなかったかのように、彼女が持っているヘッドホンを取ろうとするとすぐに避けられてしまって何度やっても取らせてくれない。あぁ、さっきの言葉 訂正することしよう。予感、当たってるみたい。



『あんた、ウザい』



まるでドラマの中に入った気分だ。あぁ、よくあるドラマのまま進んでいくならば、きっとこのまま私は嫌な記憶を一つ増やしてしまうことになりそうだ。



『だからさ、ちょっと遊びに付き合ってよ』



私は、その言葉に抵抗も否定もしなかった。されるがまま彼女の両脇にいた、ただついて来たまるで モブAとB のような女の子2人に両腕を掴まれて彼女の後をついていった。


ついた場所は無難にトイレで、無難に個室に閉じ込められて。トイレには カランという音と水道から水が出ている音だけが響いた。



『やって』



しばらくすると降ってきたその言葉と共に、私に降り注いだのはバケツに入った水。冷たい水が二杯分私に降り注いでくる。目の前が真っ暗になって、ほんの一瞬だけ「私、死ぬのかな」なんて思った。でもすぐに現実に戻されて冷たさと彼女達の笑い声に包まれた。


不幸中の幸い、ドアを開けてくれたことだ。そのまま笑って逃げていったけど。



「なんで、こうなるかな」



ふと出たその言葉はかすかに震えていて目の前はぼやけて涙が溢れる。私が助けてって言ったらたった1人でも私を助けてくれてたかな。そんな人、私にいるのかな。


ゆっくりと個室を出て前を向くとそこには鏡に映る私の姿がある。びしょ濡れのままただ涙を流す姿が。


震える足でトイレを出ると、廊下の端に転がっているヘッドホンがあった。ゆっくりと拾うとそのヘッドホンに、かけられた水なのか涙なのかわからない水滴が一粒ポツリと落ちた。



「っ、なんで?」



赤く染まる空は、時間が経ったことを知らせてくれて誰もいない静かな廊下で1人絶望の淵に立たされ崩れ落ちた私を照らす。



「なんで、なんで?なんで私なの?ねぇ、なんで私だけこんなに辛い思いしなきゃいけないの!!ねぇ、なんで、!」



誰も答えてはくれないことなんて、わかっていた。今まで誰にも言えなかったことを 誰にも届かない私の思いを、喉が張り裂けそうなほど声に出してもどれだけ涙を流しても、ただただ薄暗い廊下に消えていった。



「あぁぁぁぁあ!!!!!!!」



このときばかりは『死にたい』そう思った。嫌なことに、嫌なことが重なり続けて私の精神はとっくに限界を超えていたのかもしれない。相変わらずに止まらない涙。叫ぶことしかできない無力さを痛感して自分が嫌になった。



「助けて、誰か助けて、」



か細く私の口から出たのは 助けて という言葉。どんなことがあっても、私は1人でも生きていける なんて思っていたけれど実際はそんなことなくて 結局 誰かを頼ってしまうんだ。初めて助けてという言葉を放ったとき、全ての感情が爆発しそうになった。



「っ、助けて、!たすけて!!!」









「 まじで、バッカじゃねぇーのお前」



その言葉が聞こえたのと同時に私はいつのまにか誰かの腕の中にいた。この匂い、覚えてる 知ってる。ハッとして顔を上げるとそこには、この前の金髪の男の人がいて放った言葉とは反対に優しく私を抱きしめてくれている。



「なんで、1人で抱え込むんだよ」



彼はびしょ濡れの私を抱きしめてそう言った。だけどその声はどこか震えていて、しばらくすると鼻をすする音が聞こえてきた。



「なんで、あなたが泣いてるの?」


「泣いてない」



私は そっか って返したけれど本当は泣いてることは分かってる。泣いてない なんてあまりにバレバレな嘘だ。だけど、きっと今は私の方が泣いてるだろうから今は 言わないでおくことにするよ。



「ねぇ、私って、生きてる意味あるのかな」


「… 」


「私 誰のことも幸せにできない。」



むしろ、人を不幸にさせてきた。どれだけ頑張っても結局私は 誰も幸せにすることはできなかった。邪魔者扱いされる私が この世界に存在する意味があるのだろうか。



「やっぱ バカ」


「え」



容赦ない言葉に思わず驚いてしまった。そんな軽く バカ とかいう雰囲気じゃなかった気がするけど、彼はそう言ってから私のおでこにデコピンをくらわせた。それもまあまあガチのやつ。



「った、」


「君が言ったんじゃん"せっかく貰った命なのに 自分から捨てるなんてもったいない"って」



言った。確かに私は、そう言った。そんなこと言っておいて 生きてる意味あるのかな なんて問いた私は確かにバカだ。だけど、私が放ったその二つの言葉は 全て 私の本音から出てきたものであって、ひとつも偽りの物なんてない。



「もし、あなたが来てくれなかったら 私 死んでたかも」


「俺が来て、良かったって思う?」



いっそ、死んでしまった方が楽なんじゃないか と幾度となく考えたことはあったけど、今 私を強く優しく抱きしめてくれている彼のその質問への答えはもう決まっている。



「うん。あなたが来てくれて、ほんとによかった。ありがとう」



その言葉を放った瞬間、抱きしめられていた腕は離れてお互いを見つめ合うような体勢になった。彼は赤い夕日に照らされていて、少しだけ眉間にしわを寄せて困ったように笑い 私の頰に手をかける。



「ずるいなあ、ほんとに」



彼は小さくそう呟く。彼との距離がだんだんと小さくなっていって私はどうすることもできないまま、その距離はゼロになった。唇に感じる 感触と温度がこれは夢でも幻でもないのだと教えてくれた。彼は唇を離すと私の首元に頭を埋める、触れる髪の毛が少しだけくすぐったい。



「あーもう、ごめん。」


「、いいよ」


「よくない。勝手にするとか、最低だろ」


「された本人がいいって言ってるんだからいいの」



でも! と顔を上げてどうしても引き下がろうとしない彼の頰をつねる。うわ、これでもイケメンなのか。世の中不平等だな。彼は少しだけ顔を歪ませて、なにしてるの?とでもいいたけな顔を私を見ている。



「ひとつだけ、聞いていい?」


「うん」


「今の、キス、はどういう意味?」



私は彼の頰から手を取ってそういうと、彼は私がつねったからなのか照れたからなのか わからないけど頰が赤くなっている。彼は少しだけ考えるように目線を外して、やっと目があったと思えば 彼の色素の薄いあまりに綺麗な瞳に吸い込まれそうになって 逆に目が離せなくなってしまった。





「好き って、意味」




なんだ、この感覚は。例えるなら、まるで鈍器で頭を殴られたんじゃないかってぐらいの衝撃だった、私にとって彼が言ったその言葉は。時間が止まったかのように私の思考は停止して、彼はずっと真剣な顔でこっちを見ている。




「まっ、て、」


「答え、出さなくてもいいよ」



彼から出てきたその言葉はあまりにも予想外のものだった。付き合おう とか 君はどう思ってる? とかじゃなくてただ 答えは出さなくてもいいんだと私にそう言った。



「え?」


「出さなくてもいい。だから まだ、好きでいてもいい?」




私のなにが良かったのか、どうして2度会っただけの相手にそこまで想えるのか 彼に聞きたいことはたくさんあるけれど、寂しそうな顔をして 私にそう言うあなたに私は小さく頷いて彼のそのどこか寂しそうな顔を見ているしか出来なかった。




「名前は?」


「ナナセ アサヒ。あなたは?」


「うーん、内緒?」


「そういうのいいから、はやく」



こんな時にまで、少しふざける彼に早々とツッコミを入れると彼は楽しそうにふわりと笑った。前回会った時と全く同じ、あの明るい笑顔で。



「シノミヤ ダイチ。」


「ダイチ、か。ありがとう、助けてくれて」


「よかった。死ななくて」



立ち上がりながらそう言った彼には、さっきまでの悪戯な表情は消えていてむしろどこか手の届かないような大人っぽい雰囲気を纏って夕日に照らされている。つられるように私も立ち上がると、ポタポタと水が垂れて 現実に引き戻された。



「寒、」


「風邪引くぞ」



途端にふわりとした感覚と温かい温度と彼の匂いに包まれた。隣にいる彼にはさっきまで来ていた上着が消えていて、その上着は私にかけられている。どこまでも、優しい人だ。きっと彼も寒いはずなのに。



「かっこいいじゃん、」


「だろ?」


「うわ、やっぱ。取り消す」


「ひどっ!」



今まで友達なんてほとんどいたことなかったのに、なぜか彼とは何年もの付き合いみたいに楽に接することができて、一緒にいてものすごく楽しくて 心地よかった。





「なぁ、アサヒってどんな字?」


そろそろ暗くなってきた帰り道を彼が送ってくれると言ってくれて、2人で並んで歩いていると彼は突然に私にそう言う。



「普通に朝の朝に、太陽の陽。」


「めっちゃいい名前」


「ダイチは?」


「そのまま、大地の大地。」


「私は好きだよ。なんか。」



特に周りに誰もいない薄暗い夕方に、2人でお互いのことをひとつひとつ知っていく。一見、平凡な会話かもしれないけれど私にとってはそれがすごく嬉しかった。それがすごく、幸せだった。




「私ね、病気なんだ」



自分からそのことを言ったのは初めてだった。だけど彼になら言ってもいいかなって、彼には知っててほしいなって 思ったんだ。彼は一瞬 歩くのを止めて顔を歪ませた。ああ、やっぱり、言わない方がよかったのか。



「どんな、病気、?」


「全部、覚えちゃう病気。」


「覚えちゃう?」



ねえ、あなたに全て話したら あなたは私から離れていってしまうのかな?みんなと同じようにきみ悪がって、逃げていってしまうのかな。ねえ、あなたを一度信じてみてもいい?どうしてだろう、あなたには話してみたいの。



「超記憶症候群。聞いたこと見たもの、全部記憶しちゃうの。まるでその場面の中に入り込んだかのように、そのことを思い出せる。」



私にとって、その病気はストレスでしかなかった。ずっと コンプレックスだった。この病気の人は世界に20人程しかいないのに、どうして私はその20人に入ってしまったんだろう、とずっと悩み続けてきた。




「つらかったよな」



「、どうして、そう思うの?」



「全部がいい記憶ならいいけど、そんなの無理だろ?朝陽は悪い記憶も 忘れられないってことじゃん。そんなの、つらいだろ。」




つらかったよな なんて初めて言われた。多くの人は私をずるいだとか羨ましいだとかそんなことを言うけれど、彼は違った。誰よりも私をわかってくれる。私がまさにつらいと思っていたことを1発で当てたんだ。



「つらい。ものすごく、つらいよ。」


「うん。朝陽は凄いよ」



彼はそう言った後、いつかのように 大きな手で私の頭を撫でてくれた。彼のぬくもりが伝わってくると目頭が熱くなって視界がぼやけた。涙が一粒落ちると私は彼を見つめて、今出来るだけ笑って。



「今日も最悪だった。だけど、大地が助けてくれたから 少しだけいい記憶になった」


「俺は何にもしてないよ」


「抱きしめてくれたじゃん。私にとってそれが 誰のどんな言葉より、救われたよ。」



わかろうともしれくれない他人が言う『可哀想』『大丈夫?』『頑張れ』なんかよりもずっとずっと、優しく抱きしめてくれたことが何より嬉しかった。何より救われたんだ。




「朝陽」


「ん?」





「朝陽の中の俺との記憶は、全部 俺がいい記憶にするよ」





あまりにも真剣にそう言う彼。彼がそんなことをしても何一つとして、得することなんてないのに。だけどね、彼の言葉は嘘なんてないように見えるの。私がおかしいのかもしれない、だけど、一度だけ。ほんの少しだけ。



「期待してる」


「おう」



また前を向いて歩き出した彼の背中を追いかけて、少しの期待と少しの不安を抱えたまま 肌寒く薄暗い道を 特に言葉も発することもなくただ二人で隣に並んで歩き続けた。






「ありがとう、送ってくれて」


「ううん。」


「じゃあね」


「うん、また」



小さく手を振って、別れを告げると彼はニコリと笑って去っていった。どこか恋人みたいだな、なんて考えたりして。その後ろ姿に「明日も彼に会えますように」と願った。



「雪?」



途端に降ってきた小さな白い雪たちは今年初めての初雪だ。あぁ、今日 初雪になるかもって7時48分にニュース番組で言ってたなあ。


今日は 初雪が降った日。トイレに閉じ込められて、水をかけられた 最悪な日。彼が助けてくれて、私を好きだと言ってくれた 最高な日。いろんなことがありすぎたような気がする。その全ては、私の頭の中に記憶される。嬉しいような、嬉しくないような。



そんなことを思いながら、家に入った。当たり前のように照明はついていなくてお兄ちゃんもいなかった。とりあえずびしょびしょになった制服を乾かして、お風呂に入ろう。






「お兄ちゃん、?早いね」



お風呂から出てリビングに向かうとソファーにはお兄ちゃんの姿があった。いつもよりかなり早い帰宅に少し違和感を感じながら、水を飲もうとキッチンの方へと向かう。数十秒しても返ってこない返事にさらに違和感が大きくなった。



「お兄ちゃん?」


「 …… 」


「お兄ちゃん!」


「、え、ん?なに?」



明らかにおかしい。おかしいけど、それを隠そうとしてる。でも嘘が苦手なお兄ちゃんだから、作り笑いがあまりにぎごちなくて きっと気付きたくない人でも気づいてしまうだろう。



「なにか、あったんでしょ?」


「ごめん、」



「お兄ちゃんはこの家の全てを背負ってくれてるのに、私 何もできてない。だけどね こんな私にも話を聞くことぐらいはできるから。もし 言いたくなったら いつでも言って」



私はお兄ちゃんにどれだけの迷惑をかけたのだろう。きっと数えきれないほどだ。私は、聞くことしかできない。それを解決することも、いいアドバイスをすることさえもできないかもしれないけど、聞くことぐらいはできるから。



「ありがとう。いつか、絶対に言うよ。」


「うん」


「ごめん、お兄ちゃんもう寝るね。今日は少し疲れてるから」



そう言って早々とリビングを出て行ったお兄ちゃんに「おやすみ」と声をかけた。いつもなら返ってくるはずのその言葉も返ってこない。やっぱり、今日は少しおかしい。コップに注いだ水をゴクリと飲み干して、私も自分の部屋に向かった。



一人になると、明日になることが怖くなる。もう一生 時が進まなければいいのに、そしたら誰も傷つかないのに。



「大地」



小さく、でもはっきりと私の口から出てきたのはやっぱり彼の名前で。彼が言った「朝陽の中の俺との記憶は、全部 俺がいい記憶にするよ」と言う言葉が頭の中をぐるぐると回った。もしも、本当にそれができるとしたら私はずっと幸せだろう。彼との思い出が、たった1人だけでも、その人の思い出がいい記憶ならば それほどに幸せなことはないんだ。



ねぇ、神様。


明日だけでもいいから。

いい記憶の中に行かせてはくれませんか?






am 5:26





あぁ、もう、また始まってしまった。





______『触らないで』


______『キモい』



中学校の放課後の教室。その教室には全部で3人の制服を着た女の子達が目の前にいる。外からは部活の掛け声が少し聞こえてきて、その声をかき消すように彼女達は私にそう言った。まるで、怪物を見ているかのように。



______『障害者と友達なんてこと知られたら、私までいじめられるからやめて』


______『もう私達に近づかないで』



目の前のその光景が信じられなかった、何も言えなかった。昨日まで仲の良かった彼女達は、病気のことを言った途端に私を嫌った。私はただ立っていることしかできなくて、彼女達を呆然と見ていた。



______『そもそも最初から障害者って知ってたら仲良くなんてしなかったのに。ねぇ?』


______『そうそう。マジでキモいわ。菌 移りそ〜 ねぇ、早く帰ろ〜』



彼女達は散々悪口を言って、この教室を去って行った。私は何も言えなかったことが悔しくて、制服のスカートをぐしゃりと握る。涙は 出ていない。ただ怒りと悔しさにまみれた感情ばかりが、私を支配していった。




am 5:42




「、なんで、今泣いてるのよ、」




記憶の中から抜け出した私は涙を流していた。記憶の中の私は泣いていなかったのに。この記憶だって幾度となく見てきたはずだった。もう慣れているはずだった。それなのに、何故か記憶の仲の彼女達が言ったその言葉に 酷く傷ついてる自分がいた。



「私だって、なりたくてこうなってるわけじゃないの」



それは今 泣いてることにも当てはまるし、何より 障害者 と呼ばれる人物だと言うことだ。病気や怪我を抱えている人はきっとみんな、なりたくてそうなってるわけじゃない。ものすごく嫌なはずだ。病気だからダメなの?人と違うからダメなの?



この世の中には、差別と偏見がある。

この世の中には、個性とそれぞれの人生がある。



肌の色、心の性、同性愛者、障害、病気、知能、見た目。他にもいろんなことで悩んでる人がいるはずだ。この世からその悩みが全て消えればいいのに。どうしてこの世界はこうも残酷なのだろうか。



「なんで、とまらないのっ?」



流れる涙は止まらなかった。どうしてだろう、昨日 人の優しさに触れてしまったから?無駄に神様に願ってしまったからかな?ああ どうしてこんなに、辛いんだろう。










am 7:35



「行ってきます」


「行ってらっしゃい」




いつものようにお兄ちゃんに挨拶をして家を出た。さっき泣きすぎて少し腫れてしまった目を出来るだけ隠すようにつけてきたマフラーに顔を埋めた。チラチラと雪が舞っていて、手袋もしてくれば良かったなんて少しの後悔を残し 学校に向かった。



学校に着くと、いつもと同じようにヘッドホンをつけてもうすぐ終わりそうな本を開いた。


どこにでもありそうな三角関係を描いたラブストーリーだ、2人の男子が1人の女子を奪い合う。しかもその3人は幼馴染!みたいな。意外と面白かったな、と思いながら一番最後のページを閉じた。私もいつかそんな本の主人公になれるかな、なんて叶いそうにないことを考えてみたり。


ふと、ヘッドホンを外すとクラスのざわざわとした音が聞こえる。教室の端で喋っている女の子達や、高校生にもなってほうきで遊んでいる男子。


こういうのを記憶したくないんだ。


この状況の中でずっと1人の自分が、いつか 悪い記憶になってしまいそうで怖いから。





pm 4:42




第二音楽室前。初めて彼に会った場所で時間で。もしかしたら、ここにいるんじゃないかって ほんの少しの期待を込めて。重いドアを開けた。その瞬間 ぶわああ と風が吹いて髪の毛とスカートを揺らす。いつかと同じ現象に、私はハッとしてベランダの方を見るとやっぱり窓は開いていて特徴的な金髪が見えた。



「大地!」


「朝陽?!」



名前を呼ぶと、彼は振り向いて驚いたように私の名前を呼んだ。ベランダから中に戻ってきて、窓と扉を閉めると彼は 少し照れ臭そうに笑って 「よっ」と手をあげた。



「昨日ぶり」


「うん、どうしてここに?」


「、ここに来たら、大地に会える気がした」



私にしては、かなり素直になった方だ。普段こんなこと言わないし、言えない。だから 勇気を振り絞ってこんなことを言ってみたけど、きっと頰は赤く染まっているだろう。




「俺も。ここにいたら 朝陽が来てくれる気がして。だから めちゃくちゃ嬉しい」



彼が太陽みたいに笑ってそう言うから、きっと私は真っ赤だ。体温が上がって、無駄にぽかぽかとしてきてしまった。なんだ、なんなんだ これは。



「照れてる?」


「ちがっ!」


「図星かぁ」



ニヤニヤしてくる彼にペシリと腕を少し叩くと彼は「痛っ!!」ってあまりにオーバーに反応してくるから 笑みがこぼれた。彼と向き合って、笑いあって。それだけのことなのに、その「それだけのこと」が私には何より幸せだった。




「教えて」


「ん?」


「大地のこと、教えてよ。」


初めてだから。こんな気持ちになったの。誰かのことをもっともっと知りたいと思ったのは、大地が初めてだったんだ。だから、教えて欲しいの まだ私 あなたのこと何も知らないみたいだから。




「そーだなぁ。17歳、一人っ子で、サッカーが好きで、トマトが大嫌い。」


「トマト美味しいじゃん!」


「無理。あれだけは一生克服できない。」



へぇ。意外と子供っぽいところあるんだ。なんて思いながら、彼が言ったことも彼の表情も声もひとつひとつ記憶していく。



「なんで、金髪なの?」



前から少し気になっていた。高校生にしては明るすぎるその金色の髪に。なにか、意味があるんじゃないかって。勘違いかもしれないけれど。



「なんだろ、気分かな」


「え、それだけ?」


「うん。それだけ」



私の予想は、本当に勘違いだったらしい。あまりにもあっさりと終わってしまったこの質問に思わず苦笑いしてしまいそうだ。



「勉強も運動もそこそこ。好きな動物は 猫。好きな色は白。あと、雨が好き。」


「雨?」



私は雨が嫌いだ。私の大嫌いなカエルが出てくるし、濡れるし 髪ぐちゃぐちゃになるし 何より少し 憂鬱な気分になるから。そんな雨を彼は好きだと言った。



「知り合いの小さい女の子がいるんだけどね。その子に初めて会った時に 大雨の中 傘もささずに歩いてたんだ。」


「え、ほんとに?」


「うん。そしたらその子、言ったんだ。『雨に打たれてるとね。嫌な気持ちも全部 一緒に流してくれる気がするの』って。」



息が止まりそうになった。その女の子が誰だかなんてわからないけど、その子はきっと人より多くの傷を負ってきたんだ。雨の中 その言葉を言う女の子を想像するだけで涙が出そうになった。



「まだ、6歳の女の子なのに。その言葉聞いたら なんかわかんないけど涙が出てきて、傘 放りだしてその子抱きしめて大泣きして。バカだよな」



彼は笑って話しているけど、どうしてなのか悲しくなって でも、彼が泣いていないのに私が泣くのはやっぱりおかしいから 我慢して、彼の声に耳をすませた。



「でも その日から、雨が好きになった。」


「素敵だね。その女の子も、大地も。」


「ふふ、俺も?」



彼は可笑しそうにふわりと笑って、そう聞き返した。だけど、私は本当のことを言ったまでだ。女の子の言葉に涙を流して、雨に打たれるその子を抱きしめて。そんな大地は 十分、素敵だよ。



「きっと、その子も嬉しかったと思うよ」


「なにが?」


「抱きしめてくれる人が、一緒に泣いてくれる人が いるってこと。」



そんな人がいてくれるって、奇跡だと思う。1人って かなりつらいから。私も1人だった。周りにたくさん人がいてもずっと 孤独を感じ続けてた。



「大地が、私にもしてくれたでしょ?」


「、うん」


「嬉しかったよ。ありがとう」



だからね。心の底から嬉しかったの。抱きしめてくれたことも、私のために泣いてくれたことも。何度ありがとうって言ってもたりないぐらい、本当に感謝してるんだよ。彼は私の言葉に微笑んで、窓の外に顔を向けた。




「俺、母子家庭なんだ」


「え、?」


思いもしなかった告白に少しだけ、ドキッとした。どこか私と重なるような気がして。



「でも、母さん優しいしいつも笑わせてくれるし 金はないけど 楽しく過ごしてる」


「そうなんだ、」


「それでも、俺のために働きっぱなしの母さん見てるとやっぱり 申し訳なくて」



やっぱり、私たちは少し似てるみたいだ。たった1人だけ支えてくれる人がいるけど、その人に無理をさせてる気がして



なにもできない自分が嫌になる

「なにも出来ない自分が嫌になる」



私の心の声と、彼の声が重なって心臓がきゅーっとなって苦しくなった。きっと彼の痛みも苦しみも、私は知ってる。私は気づいたら彼のもとへ歩いていて、彼の大きな背中を抱きしめた。



「朝陽?どうした?」


「大地が私にしてくれたみたいに、今度は私が抱きしめるの」



彼は少し間をあけてから そっか とだけ呟いた。その言葉が少しだけ震えていたような気がして、自然と抱きしめていた腕の力が強まる。大きくて温かい彼の背中も 彼の匂いも声も 全部、覚えておこう。もしも、これが最後だとしても 彼に何度でも 記憶の中で会えるように。



少し埃がまっていて肌寒い、今は使われていない第二音楽室。この場所で出会った私達は、また出会うことはできるのだろうか。



「まってるからね。ここで」


「うん、まってて。」








pm 4:41



彼に最後に会った日から、4日が経った。あの日から毎日 4時42分にこの第二音楽室のドアを開いてきたが 彼はあれ以来 姿を見せなくなった。それでも、いつかまたここに来てくれると信じて今日も 42分にドアを開けるんだ。



「いない、か、」



シーンと静まり返った音楽室は、いくつもの段ボール箱と 大きなグラントピアノがあるだけだ。ベランダにも、彼の特徴的な金髪は見当たらなかった。



「何期待してんだろ、私」



自分が馬鹿馬鹿しくなって、心の中で苦笑いをした。でもきっと今も、今でもまだ懲りずに私は 彼が現れることを期待してる。だった彼は、言ったじゃないか まってて と。ねぇ、大地 私、ずっと待ってるよ。



いつも彼がいるベランダにつながる窓を開けて冷たく吹く風に当たると、その風と一緒にココナッツのような甘くいい香りが届いた。















「なにしてるの?」








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