06.アーニャとのデート
サラによる魔法の特訓が始まってから数日。学園ではすっかりサラと行動を共にすることが日課になったシルフィは「ユンド・トレイク」に関する探りを続けているが、これといった進展は無かった。
週末の休日。昼前に起きてきたシルフィを迎えたのはバッチリめかし込んだアーニャだった。いつものエプロンドレスではなく、アイボリーのボリュームスカートと白のブラウスを合わせたカジュアルな格好をしている。
「何か用事でもあるの?」
「忘れたんですかシルフィ様。今日はアーニャとショッピングデートの日ですよ」
頬を膨らませたアーニャに対し、シルフィは「はて?」と首を傾げる。寝ぼけた記憶をぐるぐるとかき回し、ようやく思い至った。
『──週末にアーニャとデートしちゃいます?』
『気が向いたらね』
『期待しちゃいますよー?』
「そんな話をしていた気がする」
「もう、アーニャは楽しみにしていましたのに。ぷんぷん」
アーニャはシルフィを椅子に座らせると、手早く髪を整えていく。
魔法によって熱を帯びたアーニャの指がシルフィの翡翠色の毛先にウェーブを描いた。
「お召し物はアーニャが用意しています。今日はどこに行きましょうかね~」
「あの、気が向いたら行くとは言ったけど……」
「アーニャ的には最近流行りのパンケーキを食べに行きたいんですよ~」
「私の話聞いてないし」
渋い顔をするシルフィを差し置いて、アーニャは手早く整髪を進める。パッと手を離すと、シルフィの髪はふわりと肩口で纏まった。
「ありがとう、相変わらず惚れ惚れするほど器用だね……」
「ささ、お化粧の前にパジャマをぬぎぬぎしましょうね~」
「ちょ、自分で脱げるから!」
シルフィはわきわきと伸びてきたアーニャの手を叩き落とし、髪型を崩さないようにその場で着替える。用意されていたベージュのチュニックと黒のタイトパンツがその痩身を包んだ。
シルフィの出発準備に時間を費やし、二人が家を出たのは正午を僅かに回ってからのことだった。
◇
ハイフィル地区。ユートラント市の北部に位置するハイフィルは、冒険者ギルドや市の主要機関、商業施設が立ち並ぶユートラントの顔である。
休日のハイフィルは往来の激しさから「人の川」と評され、メインストリートは人混みによって渋滞していた。
「はぁ~、アーニャのパンケーキがぁ……」
「無いものは仕方ないでしょ。朝一番で並ばないと買えないらしいし」
ボーデンからバスを乗り継いでハイフィルにやってきたシルフィたちは人を掻き分けてようやく喫茶店の空席に腰を落ち着けることが出来た。
アーニャお目当てのパンケーキは品切れ状態だったため、それぞれ軽食を頼んで今に至る。
「期間限定なんですよ。今日を逃したらシルフィ様と食べに来れないじゃないですか~。しくしく」
「別に私は食べたいわけじゃないし、明日にでも一人で食べに来たら?」
「一人で食べたいわけじゃないですもん。はぁー。シルフィ様が鈍感すぎてイヤになっちゃいます」
まーいいですけど、とアーニャは首を振る。
シルフィはアーニャから視線をはずし、ガラス窓に目を遣る。外界帰りであろう冒険者のパーティが隊列を組んでギルドへ入っていく姿が映った。
シルフィの視線の先を追ったアーニャは、そういえば、とこぼした。
「シルフィ様って冒険者にはならないんですか」
「何で?」
「いやあ、シルフィ様の力があれば最高階級のSランクも余裕だと思うんですよ。今のお仕事より富も名声も稼げるのに勿体ないなーって」
「……そういうのにあまり興味が湧かないから」
「粋人ですね~。無欲は毒ですよ?」
「欲が無いわけじゃないよ。私にだって夢があるし」
「へぇー?」
ウェイターがサンドイッチと紅茶をテーブルに運んできたため会話は一度途切れる。アーニャが料理を受け取り、シルフィがチップを払った。
いただきます、と挨拶を一言述べてから口を付ける。かぐわしい胡椒の香りとハムの塩味が味蕾を刺激した。おいしいね、と二人は顔を合わせる。
「それで、シルフィ様の夢って訊いてもいいものなんですか?」
「うん。というか、アーニャには話したこと無かったっけ」
「聞いたことないです。シルフィ様とは一年も寝食を共にしていますのに」
「そっか……まあ、夢って言っても尊大なものじゃないんだけど」
シルフィはコーヒーを口に含み、間を持たせる。唇をペロリと舐めて僅かな逡巡を見せた後、内緒話をするように声を潜めた。
「サクラの花を見てみたいの」
「ふむふむ、サクラですか。それはどんなもので?」
「ここから遥か遠く、外界を突き進んだ東の国に起源があるとされる木だよ。春になるとピンクや白の美しい花を咲かせるんだって」
「サクラですか……聞いたことないですね。やっぱり外界にあるあたり、珍しい木なんですか?」
「うーん、クロハさんが言うに、昔はこの辺りにもあったらしいんだけど。戦禍に見舞われて焼けてしまったみたい」
「そうなんですね~。でも、そんなに綺麗なら見てみたいです。外界の先だっていうのならシルフィ様はともかく、アーニャには叶わない望みかもしれませんけど」
「大丈夫。そのために私たちがいるから」
シルフィはコーヒーを呷る。
アーニャはジッと手元のカップを見つめていたが、やがて得心したらしく小さく頷いた。
「人類の生存領域拡大……皆が諦めてしまった夢物語。期待してもいいんですよね?」
アーニャの瞳は不安そうに揺れる。彼女の握ったカップの中に揺蕩う黒水が波紋を広げた。
◇
軽食を取り終えた二人は混雑する表通りから二本ほど離れた通りを並んで歩く。
アーニャは視界に入った雑貨店や骨董店に片端から立ち寄って冷やかしを行う。ウィンドウショッピングの真髄に至っていないシルフィは、買うわけでもないのに何が楽しいのだろうと唸った。
そんな状況が暫く続いて、古い魔導書を取り扱う店に入った時のこと。シルフィは一冊の本を見つけて小さく声を上げた。
「これは……」
シルフィが手に取った本は装丁の施されていない安価な造りのもので、肝心の中身は経年劣化によって酷く色褪せていた。古い紙の匂いがシルフィの鼻を刺す。
「いいものでもありました?」
「これ見て、アーニャ」
「うわっ、古い本ですね。魔導書なら値打ちものですよ」
「どうやらそういう類ではないみたいだけど……読める?」
「えーと…………ごめんなさい、全然読めないです。というかこんな文字始めて見ました。シルフィ様は読めるんですか?」
「部分的には。例えば、ほらここ、インテグラルが書いてある。こっちはパーミテーションとコンビネーション。これは数学の古文書……だと思う」
「ふーむ? 浅学なアーニャにはよく分からないですが、シルフィ様がそういうのならばそうなのでしょうね」
こてん、と首を傾げたアーニャは信頼した様子でシルフィを見つめる。
「でも、どうしてここに古文書があるんですかねー。しかも数学の」
「さあ、訊いてみないと分からないね。すみません、少しお尋ねしたいことがあるのですが────」
シルフィは書店の主である老婆に声をかける。老婆は皺の深い笑顔でシルフィの問いに答えていった。
曰く、この本は先代──店主の父親が切り盛りしていた時代から売れ残っている品で、誰も読めない上に保存状態も悪いということで店の肥やしになっていたそうだ。
「この本を売りに来た人のことは覚えていらっしゃいますか?」
「さてねえ、もう数十年も前の話だから。そもそも、そのお客さんが生きている可能性だって少ないもの」
必要とした情報は得られず、礼を述べて店を後にする。シルフィの手には買い上げた古書が収まっていた。
「いい買い物をしましたね~」
「どうだろう……良い物かどうかは私じゃなくてクロハさんが判断するものだから」
シルフィは所属する組織の副リーダーを思い浮かべる。永い時を生き、叡智に優れたあの女性ならば、この書物も読み解いてくれるのではないかという淡い期待を寄せて。
「定例会の手土産が出来た」
「よかったですね~」
ふやけた笑いを浮かべるアーニャに首肯を返し、二人のウィンドウショッピングは夕方になるまで続いた。
日が暮れ始めると、アパレルショップや食事処が軒を連ねる大通りの混雑も緩和される。そろそろ帰ろうかと二人が歩いていると、向かいから一人の少女が現れた。
編み込んだ柔らかい金の髪と、人好きのする大きな瞳。その姿は十代の半ばといったところか。
冒険者ギルドの制服を着た彼女はシルフィの姿を認めると、胸元で小さく手を振った。
「シルフィちゃん、こんにちは。こんなところで奇遇だね」
「……ええ。もう仕事は終わり?」
「昼の仕事はね。これから夜の仕事だよ~」
「そう、頑張って」
「うん、頑張る~。あ、これから帰りなら、その前にギルドに寄って行ってよ。面白いものが見れるからさ」
「面白い……?」
「行ってからのお楽しみということで。掲示板に注目ね~」
金髪の少女は長話をしたいわけではないらしく、早々にその場を立ち去った。
存在感を消していたアーニャは途端に黄色い悲鳴を上げた。
「ひゃー、誰ですか今の超絶かわいい子! もしかしてシルフィ様の愛人ですか! このアーニャというものがありながら、多感な女!」
「うるさい。そういうのじゃないから。それに、あれはアーニャも知っている人だよ」
「ほえ? アーニャの美少女図鑑に登録されていませんけど」
なんだそれ、と溢したシルフィはアーニャを物陰に引っ張って行く。
突然の主の行動に顔を赤らめたアーニャだったが、彼女が期待したようなイベントはもちろん発生しない。
「あれ、ミラー・アギノス」
シルフィが声を潜めて耳打ちすると、アーニャは目に見えて驚きの表情を宿した。
「それ本当ですか? ミラー様って、スタイル抜群で色気ムンムンのお姉様じゃありませんでしたか?」
「それは夜の姿ね。私が表向き学生であるように、ミラーは姿を変えて昼間はギルドの受付嬢をやっているの。夜はバーの店員」
「へぇ~。ミラー様の得意とする変身魔法ってやつですか」
厳密には変身魔法ではないのだが、概ねその解釈で間違いはない。野暮だと思ってシルフィは口を出さなかった。
シルフィの反応を見て「しかし」とアーニャは続けた。
「ミラー様の正体をアーニャに明かしてよかったんですか。組織のトップシークレットだったりしません?」
「無論、秘匿すべき事項。だけど、私の従者を名乗るなら幹部の素性は知っておいた方がいい。知らなかったから足元掬われました、ってなっても言い訳にしかならないから」
その言葉の意味することは何か。アーニャは呆けたように口を開け、小声で呟いた。
「もしかして組織内に敵がいるかもって感じですか?」
呑気な感想だね、とシルフィは眉を八の字にする。
しかし、アーニャの所感は言いえて妙であった。
「目下のところ敵はいないし、杞憂かもしれない。だけど──いつか裏切り者が現れるって思ってる。私たちの組織はそのくらい不安定だから」
だからアーニャも隙を見せないように、と言葉を続け、シルフィは気を引き締め直す。
思い出すのは白昼堂々と接触を図ってきたミラーのこと。任務外で幹部同士は相互不干渉が暗黙の了解となっているにもかかわらず、一言二言とはいえ会話を交わしたのだ。
────裏があるに決まっている。
シルフィはアーニャの手を引いてギルドに向かう。人の波を掻き分けて、堅牢な煉瓦造りの建物が二人を出迎えた。