32.決戦Ⅶ
通常、人間は己の身を守るために無意識下で力を制御している。「全力を出した」と思っていても、本来出せる機能の半分も出力できていないという研究があるほどだ。
それは、脳の防衛本能によるもの。
火事場の馬鹿力というように、生命の危機に瀕して初めて人間は脳のリミッターを外し、「全力」を出す。
下敷きになった人を助けるために大岩を持ち上げた、脅威から逃げ切るために風のように走ったという話は何も空想の産物ではない。
これを応用し、意図的に脳のリミッターを外すことができれば、言葉通り超人的な身体能力を得ることになる。痛みも、傷も、人間性も捨て去り、自身の身体を顧みないことを前提とするのであれば、常に最大限のスペックを引き出すことが出来る。
しかし、意図的なリミッター解除など誰にでもできることではない。後の人生を諦めた者か、或いは狂人ほどの精神力が無ければ成し得ない荒技である。
「はぁ────あははっ」
シルフィは戦場の中にありながら恍惚とした表情を浮かべる。自身の身体をかき抱き身震いする姿は、いっそ妖艶と言っても過言ではない。
シルフィは人間性を著しく欠いていた。
彼女は自身にかかる制動を解除することに成功していた。
身体は「聖職者の血」によって。精神はリミッター解除によって。その効果が切れた時、まず間違いなくシルフィは只では済まないだろう。少女の中に巣食う生存本能だけが彼女を彼女たらしめていた。
シルフィの金色に変色した瞳が揺れる。その視界は獲物を捕捉していた。
少女の身体が撓む。しなやかな一本のムチとなったシルフィは弾かれたように飛び出した。
それは、戦いの中で初めてシルフィ側から攻撃を仕掛けた瞬間でもあった。「受け」の戦術から「攻め」の戦闘へ移行した猛攻はユンドの知覚を超越する。
一陣の風となったシルフィはユンドが反応する間もなく懐に潜り込むと、頭突きによって彼の巨躯を空へと打ち上げる。
成す術もなく打ち上げられて足場を失ったユンドは空中姿勢を保つことに意識を割く。故に、空を駆けてきた脅威への反応が数舜遅れた。
「四重攻撃強化【豪傑の調】・【勇猛の旋律】・【獅子の宴】・【竜王の咆哮】」
月影が照らす少女の姿は、まさしく狂気。
ユンドの上を取ったシルフィは天誅が如く、踵を落とす。
少女は嗤笑を浮かべた。
「────堕ちろ」
音が、消えた。
ユンドの肉体は大気の壁を突き破って大地へ叩きつけられる。衝撃波によって放射状に捲れ上がる地盤、根こそぎ吹き飛ぶ木々、吹き荒れる暴風。
ユンドの肉体は膨大なエネルギーを受け止めきることが出来ず関節は在らぬ方向に折れ曲がり、内臓が体内で破裂した。
(何が起きているのか、理解できん────ッ!!)
ユンドは突如として動きが変わったシルフィに恐怖ともつかぬ感情を抱く。
血だまりに伏せる吸血鬼の身体が急速回復を試みるも、それを許さない者がいた。
シルフィだ。
再生するための時間を一秒たりとも与えはしない。シルフィは中空でユンドを見下ろしながら健脚を振るう。
「【黒翼の鎌鼬】」
シルフィが振り抜いた脚は大気を鳴動させ、自然の刃を創り出す。狂風は直線状にユンドへと迫っていった。
ユンドは折れた脚の代わりに【縮地】を用いて回避を試みる。血だまりにゲートを開き、転移先はシルフィの攻撃範囲外。
しかし、その先には既にシルフィが待ち構えていた。
「何故っ……!?」
這う這うの体であるユンドは驚愕に目を見開く。
それは、シルフィの限度を超えた身体能力と歴戦の戦闘勘による未来予知。ユンドの視線と癖から転移先を読んでいた。
「【血精】ヴラスティアァッ!」
シルフィが攻撃を繰り出す前に、ユンドは【血精】によって一か八かの反撃を狙う。創り出したのは血の弾を込めた散弾銃。彼我の距離は五メートル。
ユンドが引き金を引くと同時に、シルフィも豪脚を振り上げた。
「散れッ!!」
「【黒翼の鎌鼬】」
シルフィの右腕は凶弾によって肩口から千切れ飛び、ユンドの身体は風刃によって上下に分かたれた。双方ともに満身創痍の様相。
しかし、シルフィは尚も笑い続けていた。
燎原を焼く烈火のように、枷を外した少女の勢いは止まらない。
一方のユンドは上半身のみとなり、唯一機能している左腕だけで這いずりながら逃走を試みる。
(オカシイ、オカシイオカシイオカシイッ! こんなことがあっていいはずがない! なんだアノ化け物は────)
技術のシルフィとスペックのユンドによるシーソーゲームは、シルフィの身体能力がユンドを凌駕したことよって均衡が破られた。
地を這うユンドの背にシルフィの脚が突き刺さる。傷口が再生していないユンドの身体から内臓が零れ落ち、その姿はさながら串刺しにされた標本のよう。
「あーあ、全身傷だらけだ」
クツクツと笑いをこぼすシルフィは金に染まった瞳を揺らす。そのセリフは自身に向けたものか、それとも獲物に向けたものか。ほんの僅かに理性を覗かせる彼女は世間話でもするように、足元のユンドへと語りかける。
「これからアンタは地獄をみることになるんだけど……言い遺すこととかある?」
「何をッ……する、気、だっ……!」
「はーい、それがアンタの遺言ね。あまり私好みじゃないなぁ」
「ふざけ────ガアッ!?」
シルフィは左腕を振り上げてユンドの背に刺す。グリグリと押し込むように動かし、目的の物────心臓を親指と人差し指で摘まんだ。
「私ね、小さい頃から魔法使いになりたくって。一回でイイから使ってみたかったんだよね」
「なんの、話をッ、ごふっ」
「空を飛んで、水を作って、火を放つ。私にとって、それは紛れもない幻想なんだけど────」
シルフィの瞳が淀む。
短期催眠によって暴走した意識が徐々に理性を取り戻し始めた。金色の瞳の中に、僅かな碧が見え隠れする。
「でも、一つだけ、教えてもらったのよ。私にも使えるっていう放射型の魔法をね……」
「シルフィ」を取り戻したシルフィは全身を苛む激痛に苦辛しつつ、意識を指先へと傾注していく。
シルフィの脳裏には、かつての情景が走馬灯のように駆け巡る。それは、サラとの特訓。初めて「人並みに魔法が使えるようになるかも」と感慨を抱いたあの日のこと。
『いい、シルフィ。アナタは身体の外傷を穴にすれば魔力を外に出せる。だけど、それで無理やり魔法を使おうったって傷口が爆発するわ。だから────』
────絶対にするな、と釘は刺されたけど。
「ごめん、サラ」
シルフィの口から、言葉がこぼれた。誕生日を終えたあの子は何をしているだろうか、今はもうベッドの中だろうか。そんな取り留めのない想いが少女の中を駆け抜けた。
シルフィは指先へと魔力を送る。心臓を掴んでいる親指、人差し指、中指。そして、ユンドに切り落とされた薬指と小指へと。
「灼けろ────【速炎】」
指先に込められた魔力が魔法へと昇華を果たす。
指の切断面から流れ出た血潮に乗せられた魔力は紅蓮の炎に────────成り得ない。
魔法の不発が魔力場を狂わせる。
行き場のなくなった魔素が存在の安定を図り、しかし、それも叶わぬと悟った数舜後────
「爆ぜろッ!」
爆発。
シルフィの叫びは血飛沫と共に、夜闇へと残響を撒き散らした。