29.決戦Ⅳ
十六年前の冬の月。
エスリア国ギルドはとある吸血鬼を捕らえた。個体名サラスヴァティと名づけられた彼女は半永久冬眠の処置が施された
非常に優秀な魔術因子を宿していたサラスヴァティは研究用の検体としてユートラント先進医療研究所に運び込まれる。
そこでサラスヴァティの管理を任された研究者こそがユンド・トレイクである。彼はすぐさま研究に取り掛かった。
サラスヴァティから取り出した遺伝子情報を込めた生殖細胞を作り上げ、無事成長したものに「サラ」という名前を与えた。
それが現在のサラ・トレイクであるという。
『つまり、彼女は人間と吸血鬼のハーフ────いや、もっと厳密に言うのであればワン・サードであるのだが、それは君にとってどうでもいいことだろう。君が知るべきはその先だ』
研究棟の一室で、ユンドとシルフィの対峙は続いていた。
ユンドは語り聞かせるように大仰な身振りで話を進める。
『サラの誕生によって魔物と人間の融合に関する研究は大いに進展を遂げた。サラが五歳になる頃、彼女は私の手元から離れ義父のもとへ行くことになったが、その時には十分なデータは集まっていたから問題にはならなかった』
そして、ユンドは到達した。人類の新たなる可能性、完全なる魔物との融合に。
彼は完成させていたのだ。研究員に施したような中途半端な不可逆の変化ではなく、自分の意志と理性を持って魔物の特性を操る技術を手にしていた。
この事実はエスリア国にさえ秘匿している成果だという。
『エリアル君、なぜ私が君の素性を知っているかについて答えを示しておこう。君がもっとも憂慮していることであるだろうからな』
ユンドは自身の目を指さす。ホログラム越しであるため判然としないが、その瞳は夕闇のように赤黒く染まっていた。
『私には見えるのだよ。流れる血潮から、その者の持つ情報が。住所、出身、年齢、容貌、骨格、性別、名前、血液型、家族構成────これが人間を貶め、血を啜って生きていく、浅ましくも力強い吸血鬼の種族特性【命脈解析】だ。サラが持つ魔眼とは比べ程にならないほどの高精度。例え顔を隠していようと私には手に取るようにわかるぞ、君の碧眼と翡翠色の髪が』
「……っ」
『そして、君がどのような体質であるのかも【命脈解析】にかかれば分かるわけだが……なるほど、これは面白い。魔力を無限に溜めこむ身体か』
シルフィは思わず息を呑む。対するユンドは愉快だと言わんばかりに目を細めた。
『表皮は魔力を通さず、魔臓から供給された魔力は外部に放出されないため骨や筋組織に吸収される。魔力を存分に含んだ肉体は自己強化魔法との親和性が極めて高く、常人の数百倍の効果を発揮する。瞬間的に爆発的な能力向上を図る戦闘スタイル────それが君の強さの秘密ということか?』
「…………」
シルフィは肯定も否定もしない。
しかし、ユンドの瞳は仮面の奥で冷や汗を流すシルフィの姿を的確にとらえていた。
『くくっ、図星か……ああ、心配せずとも君のことを口外するような真似はしないとも。何故なら、君と私は同じ穴のムジナだ。エスリアを敵に回した反逆者同士なのだから』
「……なんですって?」
『私たちは独断で研究を進めすぎた。出る杭は打たれるというように、行き過ぎた力を持つ個人は例え貢献していようと組織から恨みを買うもの』
ユンドは初めて笑顔を見せた。しかしそれは、皮肉げに歪んだ醜悪なもの。
『これは私なりの礼節だ、【星の大鴉】が一人【星】。君が人類を牽引するほどの強さを持つと謳われていることは、我々のような裏の界隈では有名な話だ。だからこそ、試させてほしい。君の首を取り、私の人生を肯定させてくれッ!』
「なにを言って……っ!?」
それは唐突に訪れた。
迸る殺気にシルフィは身を屈める。
刹那、シルフィの頭が位置していた場所に蹴りが振るわれていた。
シルフィはバックステップで体勢を立て直す。狭い研究室の中にはホログラムなどではない、実体のユンド・トレイクが不敵な笑みを浮かべていた。
(────どこから現れたのか全くわからなかった)
シルフィは身体に魔力を循環させながら観察する。目の前で白衣を翻すのは紛れもなくユンド・トレイクその人である。しかし、顔の皮膚には幾筋もの赤黒い線が走り、脈打つように明滅していた。その線は次第に拡大していき、ユンドの表皮を覆うように肉づく。
明らかに尋常ではない様子にシルフィは姿勢を低く構え、回避動作に専念する。
「私は嬉しいよ、シルフィ・エリアル君。君のような強者の前に立つことが出来て」
「…………貴方が何を言っているのか理解できないけど、敵対するというのなら潰すまで。もとより、私たちはそのつもりでここに来た」
「────これが闘争の高揚感か……悪くないものだ」
第二波が来る。
そう予感したシルフィは神経を限界まで研ぎ澄ませる。ユンドの一挙手一投足を見逃さないように瞬きすらせず注視していた────にも関わらず、シルフィの視界からユンドは掻き消えた。
斜め後方に空気の揺れ。
「【血鉤】ッ!」
「加速、【光走】!」
死角から繰り出された凶爪をシルフィはすんでのところで躱す。背後から訪れる追撃手をステップと姿勢で避け切ったシルフィは再び距離を取りながら思考を巡らせる。
(また背後を取られた。今度は相手の動きを見ていた筈なのに────私が見逃した?)
ユンドの数度に渡る攻撃で研究室は一部が崩壊していた。資料が収まっていた棚は倒壊し、天井は崩落────シルフィは体勢を整えるために、廊下へと飛び出る。
(いや、私が見逃していたというよりは、彼が何か細工をしたと考える方が妥当ね。加速歩法の類ではないのだから、時間や空間に対する縮地的干渉、或いは認識をずらすような幻属性の魔法って所か)
シルフィは至って冷静に分析を進める。それは場数を踏んできた【星】としての経験に基づく推測であった。
考えを纏めた頃、シルフィの後を追うようにユンドが廊下へと姿を現す。戦場は狭く、互いに動きが制限されている。
「随分と苦々しい顔をしているじゃないか【星】。やはり、人類最強の一角といえども、魔竜に次いで最強と謳われる吸血鬼族の動きには付いて来れまいッ!」
ユンドは一足飛びで距離を詰める。筋力に任せたデタラメな跳躍は、しかし、確かにシルフィの動きを捉えていた。
「【血殴】!」
「────くっ」
捻るように繰り出された右の拳は凄まじい膂力を伴ってシルフィの眼前を掠める。風圧で仰け反ったシルフィは勢いのままに反撃の蹴り上げを放つが、その爪先は吸血鬼の硬化した皮膚に弾かれた。
(速いうえに堅い、加えてパワーも馬鹿げている。あまり余裕を見せているとこちらが喰われる……でも────)
後方に宙返りをするシルフィに向けてユンドが蹴りを放つ。腹部へのクリティカルヒットを確信したユンドはニヤリと口端を歪めるが、次の瞬間、宙を舞っていたのはユンドの方であった。
「【流転の型】」
剛に対するは柔。
相手の力を己のものとし、一連の技の中で相手に送り返す純粋な体術。
ユンドの足蹴を受け止めたシルフィは力のベクトルを変更し、位置を入れ替えるようにユンドの巨躯を投げ飛ばした。
ユンドは空中で体勢を立て直し、浅い轍を刻みながら勢いを殺す。
(やっぱり、戦闘技術は私の方が上────)
シルフィは確信を得たように仮面の奥で息を吐く。
一方のユンドは猛り狂うように白衣を脱ぎ捨て、上半身を露わにする。筋肉の膨張によってシャツは破れ、浅黒い肌が別個の生き物のようにドクドクと脈打っていた。
夜の時間帯は吸血鬼の独壇場である。廊下の白色魔力灯が異形の姿となったユンドを主役のように照らした。
シルフィとユンド、彼我の距離は十五メートル。
シルフィは再び体勢を低く取った。
「上手いこといなしたつもりだろうが、お前の攻撃は吸血鬼の肉体の前には無力だ」
「……」
ユンドの言葉はその通りで、彼の身体には傷一つ付いていない。ただ、それはシルフィも同じ。
沈黙を貫くシルフィの態度に痺れを切らしたユンドは体勢低く駆け出し、シルフィとの距離が五メートルを切ったところで空気に溶けるように姿をかき消す。
シルフィは小さく息を吐き、ポツリと呟いた。
「攻撃強化、【豪傑の調】」
シルフィは後方、何もない空間に向けて後ろ回し蹴りを放つ。周囲の空気を巻き込んで振るわれた豪脚は空振りする────ことなく、中空を割くように現れたユンドの怪腕に食い込み、砕き、その肘から先を捻じ切った。
「ぐ、ああああああああああぁぁぁっっっっぁ!!」
衝撃に吹き飛ばされて二度、三度、長い廊下を転がった怪人は夥しい量の血を零す左腕を押さえつけて痛みに呻く。
彼の左腕は肘から先が綺麗に無くなっていた。
「ぐ……こんなっ、何故──!?」
反撃を貰ったことがあまりにも衝撃的だったユンドは敵対する者の前で無防備な姿を晒しながらも疑問を口にしてしまう。
シルフィは足元に落ちている腕を踏み砕いた。
「後学のために教えておいてあげる。貴方は覚醒した吸血鬼とやらの力に酔いしれて能力任せの攻撃をしているけれど────」
一歩、黒衣の少女は距離を詰める。
仮面の奥の碧眼が不気味に揺れた。
「戦いっていうのはね、そういうものじゃないのよ。相手の呼吸、体温、心音、視線、癖、範囲、相性……そういったものを引っ括めて、戦術を組み立てるの。敵に手の内を見せず、相手の情報を引き出す、駆け引きの集大成────それが戦い」
ユンドはふらつきながらも立ち上がる。その額には脂汗が浮かび、表情は苦しげに歪んでいる。
吸血鬼の特性なのか既に左腕の切断面は血が止まり、徐々に再生を始めていた。
シルフィは立ち止まる。ユンドとの距離は五メートル。
少女は鋭く息を吐いた。
「かかってきなさい────攻撃強化、【勇猛の旋律】」
瞬間、ユンドは再び姿を消す。
シルフィは半歩下がり、右に踏み込む。上半身を右に捻り──何もない空間から飛び出してきたユンドの顔面に渾身の左ストレートを叩き込んだ。
シルフィの拳はユンドの顔に埋没していく。砕け散る歯牙、飛び散る紅血。鼻梁は酷く陥没し、遅れるようにその巨体は吹き飛んで行った。
研究棟の壁を貫いたユンドの身体は外へ放り出される。
シルフィは拳に付着した返り血を払った。




