13.アーニャの災難Ⅲ
アーニャが目を覚ますと、そこは埃っぽい石壁の部屋だった。両手足と口を縛られ地面に雑に転がされている。魔法を行使して抜け出そうとするが、魔臓が機能していないのか上手く魔力を練ることができない。
アーニャは頭痛に苛まれながら周囲の観察を行う。六畳ほどの空間にはアーニャ同様に縛られた人間が十人ほど横たわっていた。意識のない者もいれば、己の状況を理解して涙を流す者もいる。
────ああ、アーニャは攫われてしまったのですね。
アーニャは冷静に記憶を辿っていく。最後の記憶は路地裏を歩いていた時。突如後ろから羽交い絞めにされ、口元に布を押し当てられたのだったか。
冷たい石畳に頬を付け、アーニャは瞼を閉じて思案する。
エスリアでの人攫いは珍しいことではなく、攫った人間を加虐趣味の富豪に売りつけるという「奴隷文化」が、一部の界隈では罷り通っている。その商品は痛めつけるオモチャとしてか或いは性奴隷として扱われるため、どちらにせよ、アーニャの未来は明るいものではない。
「なんだ、今日はこれだけか」
アーニャが恐怖に涙を零していると、薄暗い部屋に主犯格らしき大男の声が響く。ガスマスクで顔を覆った男はアーニャに歩み寄ると、無造作に髪の毛を掴んで頭を持ち上げた。
「愛玩用の娘が一匹。他は……実験用だな。ったく、高く捌ける奴を連れて来いと言っているのに」
男はぶつくさと呟きながらアーニャの頭を地面に打ち付けた。髪が数本抜ける感触にアーニャは顔を顰める。
「車を手配しろ。足が付く前に運ぶぞ」
男が指示を出すとガスマスクを付けた男たちが「商品」を担いでいく。アーニャも粗雑に抱えられ、箱型の荷台に投げられた。
アーニャは痛みに呻きながら、逃げ道は無いか視線を巡らせる。アーニャと同じように放り込まれた商品たちは老若男女を問わず、共通点と言えば皆みずぼらしい姿だということくらいだ。これは、人権もないような貧困層の者を狙って攫ったことの証左であった。
仮初とは言え華美な格好をしたアーニャが捕まったのは個人の娼婦であると見抜かれたからだろう。厳密にはこれからそのような仕事をする予定だったのだが、この状況が果たしてアーニャにとって幸か不幸かは判断しかねるところであった。
アーニャは魔法を使おうと魔力を練るが、相変わらず魔臓は機能していない。魔法を出力しようとすると眩暈にも似た吐き気に襲われることから、アーニャは何らかの形──恐らくは薬物だろう──で魔法が封じられていると判断。物理的に拘束を解こうとするが、幾重にも巻かれた麻縄はビクともしない。
整備されていない砂利道を走る振動が内臓を打ち付ける。悪戦苦闘していたアーニャだったが、その時間は突如として終わりを迎えた。
「おい女。降りろ」
目的地に着いたのか、男たちが運転する車が巨大な倉庫の中で停車した。荷台を開け放ったのはリーダー格の男。アーニャは芋虫のように這うが、荷台から降りるもとい落ちることはできなかった。
男は舌打ちすると、アーニャの首根っこを掴んで引きずり降ろした。アーニャが大枚を叩いて購入した仕事用の衣装は無惨にも引き裂かれ、太もものあたりにスリットを作っている。
「お前はオークションの商品だから別口で輸送だ。ジャックス、他にもオークション行きの商品がいただろう。アレはどうした」
「すんませんお頭、殺さなきゃいいってんで投薬してたらぶっ壊れちまいました」
ジャックスという管理役らしき男の視線の先には痙攣を続ける少年少女の姿があった。目は虚ろで、口からは止めどなく唾液が垂れている。
お頭と呼ばれたリーダー格の男は苛立ったように爪先をタンタンと打ち付ける。
「やりすぎだ。今回は二束三文の商品だから痛くはないが……ああ、まあいいだろう、あんなのでも需要があるんだ。寧ろ調教する手間が減ったって売り文句で出品するか。乗せろ」
男が顎で使うと、ジャックスは商品の子供たちを大型車に詰め込んでいく。地面に転がされて放置されていたアーニャも雑に押し込まれた。
今度は目隠しと耳栓も施され、いよいよアーニャに自由は無くなる。周囲を観察することもできないため、アーニャはただ車に揺られるのみとなった。
時間の感覚も分からなくなってきた頃、爆発が輸送車を襲った。上下左右の感覚もない中、体の至る所を打ち付ける。内臓が掻き回されて吐き気も覚えた。
聴覚を封じられているアーニャには痛みと衝撃しか伝わってこなかったが、激しく揺さぶられる感覚で横転したのだと理解した。同時に、アーニャの肌をチリリと熱波が焼く。
────車が炎上している……!
またとない逃亡の好機であると同時に、生命を脅かす危機。アーニャは必死に藻掻いた。身体を激しく撓らせ、縄を切るために激しく体を打ち付ける。しかし、状況は好転しない。
肌を刺す熱量が増していくことに焦りを覚える。油と髪が焼ける嫌な臭いが肺を刺してむせる。
アーニャの脳裏にはかつて両親と過ごした日々が走馬灯のように流れ始めていた。幼い頃から貧乏で、満足に食事を取ったこともない。嗜好品や贅沢品は年に一度、アーニャの誕生日にだけ振舞われる。それでも、彼女は幸せだった。父がいて、母がいて、貧しくても家庭には笑顔があった。しかし、ある日突然アーニャから一欠片の幸福は奪われた。
取り残されたアーニャは"覚悟"を決めて生きる道を選んだ。だが、彼女の決意が実を結ぶ前に攫われて、気が付けば死の間際に立っていた
────こんなところで終わりなんですか?
終わり。両親と一緒のところへ行ける。このまま死ねたらどれだけ楽だろうか。
────イヤだ、いやだいやだいやだ! アーニャは、まだ生きたい!
生きる。生きたい。
アーニャの生への執着が、生物としての本能が叫びをあげる。
「んんーっ!! あーっ! あっ、か、うけえっ!」
塞がれた口のせいで思うように音が出ない。喉が引きちぎれても構わないと声を張る。
────誰か、だれでもいいからアーニャを救ってください!
失われゆく酸素のせいで朦朧とする。意識を手放したら死が確定するというのに、いつの間にか肌を刺す火傷の感覚すら消え失せて、アーニャは────




