12.アーニャの災難Ⅱ
魔物が跳梁跋扈の様相を呈するようになって三百と余年。生物学的ヒエラルキーの頂点から転落した人類は暗黒時代を迎えていた。
そんな折、外界で魔物を討伐するための同業組合────ギルドが設立され、冒険者を名乗る「ならず者」が現れ始めた。最初こそ「まともな職業ではない」と冷笑されていた冒険者であったが、社会的貢献度の観点から徐々に立場が改善され、現在では「子どもが憧れる職業ランキング」の上位に名を連ねるほどの社会的地位を獲得している。
少女、アーニャ・ストレインの両親は冒険者であった。階級は両親ともに下から数えて一番目のFランク。孤児院出身の両親には教養がなく、命一つで金を稼げる冒険者になる他に生きていく術はなかった。
うだつが上がらない両親の日銭はその日を生きるための費用を家族分揃えるだけで底をつく。国からの支給金で学校に通っていたアーニャは給食で空腹を満たす日々を過ごしていた。
家に帰れば泥だらけになった両親が笑顔でアーニャを出迎えてくれる。貧しい生活の中で、アーニャにとってはそれだけが幸せだった。
服を買うお金も満足に無いためアーニャは学校の制服を私服にしていた。平日は三日ほど着の身着のままになることも珍しい話ではなく、同級生には「不潔」の烙印を押された。
その日もクラスメイトから虐めを受けたアーニャは俯き気味に帰路を辿っていた。学校からアーニャの家があるクメズメ市まで徒歩で帰るには余りにも遠いが、バスの運賃すら払えないため仕方なく三時間の行程を歩く。
自宅に両親の姿は無かった。どれだけ仕事が長引いても夜には家にいるはずの両親がいないことに首を傾げるアーニャであったが、そういう日もあるかと無理やり自分を納得させた。
アーニャが火の魔法でランタンを灯すと暖色が狭いリビングを包む。両親が帰ってくるまで寝ていようかと部屋の片隅で膝を抱えて座っていたアーニャの耳に扉を叩く音が届いた。
アーニャが表に出ると、そこにはギルドの制服に身を包んだ男女が二人、神妙な面持ちで佇んでいた。
「あの、何か御用でしょうか……」
アーニャが恐る恐る話しかけると、男が不愛想に頷いた。
「アーニャ・ストレイン様ですか。我々は冒険者ギルドの者です」
「はい、あの、両親に何か……?」
アーニャが尋ねると、ギルドの職員たちは顔を見合わせる。その様子に嫌な予感を覚えたアーニャは一先ず家に通すことにした。
「すみません、お茶の一つも出せなくて」
「いいえ、どうぞお構いなく」
「それで、話というのは……」
「大変、心苦しいものではあるのですが────」
重たい声音で話を切り出したのは女性職員の方であった。手元の資料に目を通し、沈痛な表情でアーニャに告げる。
「本日の昼前、ストレイン御夫妻がお亡くなりになりました。アーニャ様のご両親におかれましては、勇ましい最期であったと聞き及んでおります」
「…………ぇ」
それは青天を劈く霹靂の如く、アーニャの意識を突き刺した。唐突に告げられた言葉の理解を脳が拒否し、口を開閉させることしかできない。
茫然自失のアーニャはその後、何を聞き、何を話したのか曖昧であった。気が付くとギルド職員の姿はなくなっていて、アーニャの目の前には母親の冒険者証が置かれていた。父親のものは確か────魔物に食われて持ち帰ることすら出来なかったのだったか。
「うっ、おえ、おええぇっ────」
アーニャは厠に駆け込み、ひっくり返すように吐き出した。胃袋が空になっても込み上げてくる吐き気が収まることは無く、涙と鼻水に塗れた顔が激しく歪んだ。
アーニャが落ち着いたのは翌日の朝の事であった。いつの間にか気絶するように眠っていて、制服には唾液と吐瀉物が付着していた。全て夢だったのかと重たい足取りでリビングへ向かうも、そこで彼女を待っていたのは唯一の形見である母親の冒険者証だけ。
もう涙は枯れ果てていて、乾いた嗚咽しか出てこなかった。
このまま何もかもを捨て去って、泥のように眠ってしまいたい。しかし、アーニャ・ストレインは聡い人間であった。
「今日から、独りで生きていかなきゃ────」
取り残されたアーニャは寂れた家屋で呪怨のように嗄れた声を出す。
学校を出て、就職をして、両親に楽をさせてあげようという人生の目標すら失われた少女の目の前には深い絶望が横たわっていた。
◇
冒険者の両親ないし保護者を持ち、その者が外界の任務等で命を落とした場合に取り残された子供のことを「冒険者孤児」と呼ぶ。この冒険者孤児は国の抱える大きな問題であった。政府はギルドと提携して資金を工面するものの、捻出できるのは子ども一人あたり一月二万ネイが限界である。二万ネイでは食費すらままならない。エスリアで衣食住をすべて揃えようと思うと、安く見積もっても五万ネイは必要になる。
自らお金を稼ぐ能力を持たない子供たちの行く末は薄暗く、後ろ盾のない少年少女たちは売春や万引き、強盗等の違法行為に手を染めて生きていくしかない。当然、アーニャもその覚悟はできていた。両親が健在であった時分は禁止されていた行為であったが、天涯孤独となったアーニャを咎める者はいなかった。
家財は全て売り払って、変わりに華美な衣装と化粧品を買ってきた。これから己のすることを意識して、アーニャはニヒルな笑みを浮かべる。
────せめて、羽振りがいい人の目に留まりますように。
抜け殻のような空虚を湛えて、アーニャは裸足で外へ出ていく。目指すのは、金を余らせた者が集うユートラント西部の歓楽街。
しかし、アーニャがそこに辿り着くことは無かった。
人通りの少ない夜道。
彼女は何者かに攫われた。