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井坂先生と保健室


 意識が戻るのと同時に目を開けた。

 ぼんやりとしていた視界がはっきりして来ると、二つの顔が林太郎を覗いていた。


「林太郎君!気が付いたんだね!ああ、良かった~」


 健吉が笑い泣きの表情で林太郎に縋りつく。健吉の隣で無表情に腕を組んでいるのは保健教諭の井坂(いさか)(あかね)だ。


「…俺、どうしたんだ」


「ワイゲルトさんに向かって彼女の名前を叫んだと思ったら、急に意識を失って倒れたんだよ。覚えていないの?」


「…うん」


 林太郎は片方の肘を付いて保健室のベッドの上から上半身を起こそうとした。

 途端に頭蓋骨の中で脳みそが波打つ感覚が戻ってくる。

 慌てて額を押さえると、口から呻き声が漏れてしまった。その様子を見た井坂が、林太郎の胸に掌を当ててベッドに押し戻した。


「森、お前は貧血を起こしたんだ。無理して起き上がると、また卒倒するぞ」


「そうだよ!本当にびっくりしたんだからね!女子なんかもうパニック起こして、教室中大騒ぎだよ。授業どころじゃなくなっちゃった」


「そうか。それは悪いことしたな。みんなに迷惑かけたみたいで…」


「いやあ、全然!」


 健吉の明るい否定に林太郎は口を噤んだ。

 そうだろう。授業なんて退屈だ。林太郎がぶっ倒れるというハプニングは、日々平坦に過ぎる学校生活にちょっとした(いろどり)を添えたようだ。

 クラスの生徒の表情を想像して、林太郎は苦笑した。


「で、健吉。何でお前が保健室にいるんだ?」


「だって僕、保健委員だもん。林太郎君の意識が戻るまで付き添っていてあげてって、鈴木先生に言われたんだ」

健吉は当然だという表情で胸を張った。


鈴木は、健吉がいつも林太郎の面倒を見ていることを把握しているらしい。

 気恥ずかしく思うも、今は意識のなかった自分が保管室のベッドの上に寝ているまでの過程が知りたい。


「意識のない俺を保健室まで運んだのは誰だ?お前か、それとも鈴木先生か?」


「僕じゃ無理だよ。鈴木先生も腰痛持ちだしね。岩崎君が林太郎君をおんぶして保健室に運んでくれたの」 


(げ、あいつに)


 確かに、林太郎より立端(タッパ)があるのはクラスの中では坂本と岩崎くらいだ。

 体重が六十八キロある長身の林太郎を二階から一階に、それも二年三組の教室から結構距離のある保健室に一人で運ぶには、身長が百九十二センチで体重が九十キロ以上もある筋肉体(ガチムチ)柔道部副主将しかいないだろう。


(まさかこの俺が貧血など起こすとはな。意識を失ってはどうにもならんが、この俺が岩崎におんぶされるなぞ、女子にとってはあんまり美しくない構図であったろうな。イメージダウンにならなければいいが)


「俺はどのくらい意識を失っていたんですか?」


 仰向けになったまま目を瞬かせて林太郎は井坂に聞いた。


「ベッドに寝かせるまでは完全に意識が戻ってなかったな。救急車を呼ぼうか考えてたところだったが、相沢の声に少し反応するようになったから、様子を見ていたんだ」


「そうですか」


 その前に意識が戻って良かった。大事になるのはご免だ。


林太郎は安堵の溜息をついて井坂に目を向けた。


この角度(アングル)からだと、井坂の顔は胸から突き出た二つの半球で埋もれて全く見えない。

 それもその筈、三十二という妙齢の保健教諭のスリーサイズは上から九十五、六十、九十三という、くらくらするようなダイナマイトボディだ。顔も美人の中央値。

そんな井坂が喋る口調は、誰もが想像出来ない超辛口(スーパードライ)である。


 これには初心な男子高校生は井坂にメロメロになってしまう。まさに岨野山田高校の女子の頂点に(クイーン)君臨する(オブ)女王様(クイーン)である。(上倉かおりは二番手)


  林太郎は、お馬鹿な男子生徒がバレーボール二つを体操着の胸に入れて「あかねせんせい♡」と腰をくねくねさせているのを、そこはかとなく思い出した。


(あいつらからすれば、俺の今の状況は至福(ぱらだいす)の真っただ中にいるという事になるな)

 

 神妙な顔で天井を睨んでいる林太郎の顔を覗き込んだ井坂が憂い顔で眉を顰めた。


「やはりかなり具合が悪そうだ。保護者…お母上に連絡を取って学校に迎えに来て貰った方がいいな」


「あのう、井坂先生。母は働いているので、家にはいないんです。今日は和歌山に出張すると聞いていますので、今は新幹線の中だと思います。携帯に連絡入れても、東京駅にまで戻ってこられるのは、早くても三時間は掛かるでしょう。だから、母が学校に迎えに来る時間は、午後四時を過ぎてしまうかと思います」


 林太郎は自分の家庭の状況を井坂に説明した。


「そうか。ではお父上に連絡を入れようか?」


 父と聞いて途端に健吉の表情が曇る。そんな健吉を横目で見ながら、林太郎は再び井坂に家庭の事情を説明した。


「いえ、俺、父親いないんです。俺が幼稚園の時に交通事故で死んじゃってて」


「それは…」

 井坂が身じろいで胸の下で両腕を組んだ。林太郎の父が亡くなっていると聞いて困惑したのだろう。

「申し訳ない。不用意なことを言ってしまった」


「いえ、別にいいです」


(ほほう、これは絶景。組んだ両腕から見事な乳がはみ出ているぞ。俺の目測値が正しければ、胸の下で組んでいる左右の腕幅が十二センチとすると、薄いニットのセーターの上に白衣着用を考慮しても、ヌード寸法でアンダーバスト七十センチ。下から見上げるバストトップの垂直高低差は少なく見積もって十五センチ。であるからして、井坂茜教諭のバストはプラス三センチで九十八に変更。何というメガトン級爆弾おっぱいだ!多分、ブラジャーはHカップ。バストのアンダーとトップのサイズを考慮すると、恐らく特注品であろうな)


「そういう訳で、井坂先生、俺、このまま保健室のベッドで寝ていていいですか?休んでいれば体調も回復すると思うんで」


「分かったわ。そうしなさい。私は机で日誌を書いているから、もし気分が悪くなったら、いつでも声を掛けなさいね」


 父の死を語らせてしまった罪悪感からだろうか、井坂はいつになく女らしい口調なった。林太郎の腕にコアラのようにしがみ付いている健吉を引き離してから、目隠しになるカーテンを引く。


「林太郎君、僕も休み時間には必ず様子を見に来るからね!大人しく寝ているんだよ!」


 カーテンの後ろから悲痛な声で健吉が叫んだ。

 心配してくれるのは有り難いが、林太郎ももう高校二年生だ。小学生の頃ならともかく、さすがに健吉がうざったい時もある。

 

 うん、分かったと、短い返事を健吉に返すと林太郎は毛布を被って反対方向を向いた。

 アイボリー色のカーテンの裏で、健吉が早く教室に戻れと井坂に保健室から追い出されている様子が伺えた。



 ドアが閉められると、保健室は静かになった。


軽やかな足音で、井坂が机に向かうのが分かる。椅子が小さく軋むのが林太郎の耳に届いた。パソコンのキーを叩くカタカタという音が聞こえてくる。

林太郎は頭の下に両腕を組んで軽く息を吐いた。


(貧血なんかじゃない。本当は現実を受け止めきれなくて、気絶したんだ)


 だって、そうだろう。


自分は明治の文豪、森鴎外の生まれ変わり。それに、幼稚園から幼馴染の相沢健吉も、明治からこの時代に転生している。

健吉は、自分が明治時代に貴族院議員である(あま)(がた)伯爵の秘書官として活躍していた事は全く覚えていないようだった。

あの時代の健吉は学業優秀で、秘書官の仕事も卒なくこなす世渡り上手な男だったのだが。


それに、エリス。林太郎のクラスに突然転校してきたアメリカの少女は、林太郎がベルリンに留学していた時に知り合った、あのエリス・ワイゲルトだ。


(あの様子じゃ、十八世紀後半のドイツに生きていたなんて記憶していないだろうな)


ああ、エリス。


生まれて初めて覚えた胸の疼きに、林太郎は低く呻いて身悶えた。

これが初恋か。

それも、一目で恋に落ちるなんて。

恋愛至上主義の浮かれた連中の与太話だって、今までそう思ったのに。


なのに…。


(くそっ!あのじじい。俺の転生前だか何だか知らんが、横からぐちゃぐちゃ喋りやがって!一生に一度しかない純真無垢なときめきの瞬間を台無しにしやがったな!)


林太郎は怒りのあまり、毛布の端を両手で掴んで雑巾のように捩じった。

 声に出して怒鳴りたいが、井坂に聞かれると本当に救急車を呼ばれてしまうかもしれない。歯噛みしながら己の頭の中で怒鳴り声を上げた。


(おい、じじい。聞いているのか?)

 

 林太郎は口を閉じて耳を澄ました。自分の頭の中は授業中とは打って変わって、しんと静まり返っている。


「あれ?じじい、どこ行った?」


 思わず声が出てしまった。

 しまったと口を押えたのだが、やはり聞こえてしまったようだ。井坂が椅子から立ち上がる音がすると、林太郎のベッドに向かって来るのが分かった。林太郎は捩じっていた毛布を素早く被って頭まで引き上げた。


その直後に仕切りのカーテンが開いた。



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