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林太郎卒倒する


「森、君?」

 

 鈴木が心配そうな、というより、戸惑い顔で林太郎を見た。


「何が消えないんだい?さっきから体調が悪そうだけど、大丈夫?」


「あ、はい。大丈夫です」


 瞬時に、林太郎はいつもの怜悧な表情に顔を戻して、鈴木に頭を下げた。


「すいません。昨日、家で勉強していた数学Ⅲ-Cの問題集の無限等比級数の収束・発散の式なんですが、収束する条件から和に至るまでの数式がきれいにまとまらなくて、つい苛立ちが声に出てしまいました」 


「そ、そうなの」


  数学と聞いた途端、鈴木の顔が引き攣った。


「だけど今は現代国語の勉強中だから、数学の問題は、この授業が終わった後に解いて下さいね」


「はい」


 そそくさと教壇に戻る鈴木の後ろ姿に、林太郎は、ふんと、鼻から息を吐き出した。

 咄嗟の出まかせだったが、何とか誤魔化せたようだ。大して難しくもないチャートの数式名称にびくびくと怯えるとは、文系様様だ。


(明治生まれの森鴎外・本名林太郎が平成に転生して、現在高校生をしている森林太郎になったのを、現国の授業中に突然思い出しました。それで、自分の書いた小説の背景となったドイツ留学を、鴻池の朗読を聞きながら懐古(かいこ)に浸って頭の中で一人語りしています。…だなんて、口が裂けても言えないからな。自分でも何を言っているのか、全く理解できんぞ)


 林太郎の様子を窺っていた生徒達も、自分の教科書に目を戻していく。ほっとしたのも束の間、林太郎の騒動に暫し口を閉じていた鴻池が朗読を再開した。


「余は幼き(ころ)より厳しき庭の(おしえ)を受けし甲斐(かい)に、父をば早く(うしな)ひつれど、学問の(すさ)み衰ふることなく、旧藩の学館にありし日も、東京に出でて予備校に通ひしときも、大学法学部に入りし(のち)も、太田(おおた)(とよ)太郎(たろう)といふ名はいつも一級の(はじめ)にしるされたりしに、」


((まったく、どうにもつまらぬ文章だ))


 林太郎の中で、明治生まれの林太郎が怒っている。皺枯れ声を止めるのは無理と判断した林太郎は、そのまま喋らせることにした。気味は悪いが、仕方がない。


((幼き頃からいつも主席で神童と持て(はや)されたのを、主人公の豊太郎に己を重ね合わせて小説に織り込んだ。鴎外もそうだったのだと、後世の人間に回顧させる為に))


(いいじゃないか)


 林太郎は頭の中で皺枯れ声に反論した。


(本当に神童だったんだろうからさ。明治の文豪と(うた)われているのに、何がそんなに面白くないんだ?明治からこっち、星の数程ある小説の中から教科書に採用されるなんて、国宝ものじゃないか)


((お前はまだ若く、いや、精神が幼くて理解出来んだろうがな)) 


  皺枯れ声が力なく呟いた。 


((己の命があと僅かとなった時に、ようやく悟ったのだ))


(あれ?それって俺への応答?じゃあ、あんたと会話出来るんだ?)


  林太郎は驚いて突然現れた声に聞き返した。

 

((まあな。ただ、いつまで話せるのか、余にも分からぬのだが)) 


 皺枯れ声が力のない吐息を長々と漏らした。あまりの辛気臭さに林太郎はげんなりする。 


((己の出世欲と引き換えに、若き頃に失った愛の尊さと比べれば、与えられた地位と名誉の何と虚しいことかと))


 そう言って、皺枯れ声は、林太郎の中で深く苦し気な溜息をついた。


((エリスへの愛を…))


(エリス?)


 林太郎は、はっと息を飲んだ。

 自分が森鷗外の生まれ変わりだとの記憶が甦った直後にパニックに陥って、すっかり失念していたが…。


「この青く清らかにて物問ひたげに(うれい)を含める目の、半ば露を宿(やど)せる長き睫毛に覆はれたるは、何故(なにゆえ)一顧(いっこ)したるのみにて、用心深き我心の底までは(てっ)したるか」


 鴻池の朗読はまだ続いている。かなり難しい文体なのに(つか)える箇所が一度もない。抑揚を押さえた流れるような音読に、鈴木もクラスの生徒も聞き入っている。


((露のような涙で飾られた長い睫毛に縁取られた目。それも日本人はいない青い目だよん。そんなキラキラの瞳に一瞬だけでも見つめられちゃったらもう、そこのあなた!異国の女性(にょしょう)の誘惑には絶対に負けないぞ―って決意してたって、胸の奥の奥まで、ズキューン♡ってなっちゃうのは必然でしょうが))


 さっきまでしんみりと話していた皺枯れ声とは思えない程、弾けた喋り方に、林太郎は驚いた。


(おいっジジイ!なんだって急に現代口調で喋りやがる?!しかも明治生まれの文豪が自分の小説を超訳するとは!)


 まるで若返っているように、声音も明るくなっている


((だって、愛しいエリスちゃんがすぐ後ろにいるんだもん))


(はあっっ???) 


 林太郎は、教室の一番左端の角にある、自分の後ろの席をゆっくりと振り返った。

 エリスの視線と林太郎の視線が真正面から重なり合った。その距離は、三十センチもない。


 エリス。


 ああ、そうだ。

 この少女は閉じた寺院の門にぐったりと寄り掛かり、声を忍んで泣いていた。

 被った頭巾から零れる美しい金髪に誘われるように林太郎が近づくと、林太郎の足音に驚いて顔を上げたのだ。

 

 絶世の美を目の当たりにした瞬間が、林太郎の頭の中に極彩色で甦った。


(ああ!俺の後ろの席に座っている、ハーフの美少女転校生は、やっぱりあの…!)


「エリス!お前も俺と一緒に生まれ変わって…」


 林太郎は衝動的に机の両方の角を掴んで、エリスに顔を近づけた。


「森さん、今は授業中ですよ。私語は謹んで下さい」


 大きく見開いた美しい青の瞳が林太郎に向けられている。懐かしい瞳。しかしその青い色は、北極海の底よりも冷たく、瞳に宿る光はオリオン座のように遠かった。


「エ、エリス?」


「ちゃんと前を見て授業を受けて下さい。迷惑だわ」


 顔を歪め冷たく言い放つエリスを、林太郎は放心したように凝視した。

 目の前の美少女が目を眇めて林太郎を睨みつける。

 宝石のように(きら)めく二つの青に憎しみが浮かんでいるのは何故だろう。


「あ…」


 突然、エリスの顔が縦へ横へと振り子のように大きく揺れ始めた。


 前を向こうにも、どっちが前か後ろか分からない。大波に揺蕩(たゆた)う小船のような感覚が頭を襲ってきたと思うと、今度は頭の天辺がぐるぐると回転し出した。

 吐き気に襲われた林太郎は、思わず手で口を押えた。


「林太郎君、林太郎君!!」


 健吉の林太郎を呼ぶ声が、恐ろしい速さで遠のいていく。

 ふんと、鼻先であしらう声が林太郎の耳に届いた。エリスの声だとすぐに分かった。


((仕方ないよな。だって、俺は))


 皺枯れ声のものか自分のものか分からない呟きが終わらないうちに、林太郎の視界が黒い膜で覆われ

た。


 音と視界、それから己の意識も、全てが闇に包まれた。



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