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現世のふたり1


 林太郎とエリスは、体育館の暗闇を暫く二人で眺めていた。


 完全に陽が落ちて真っ暗になってしまったアリーナに立っているわけにもいかず、二人は鍵の掛けていない扉から出て、家路についた。

 

 肩を並べて歩いているにもかかわらず、ただぼんやりとした表情で足だけを前に動かした。駄菓子屋の前を通り、小さな児童公園の脇を通ると林太郎のマンションに着いた。


「じゃあ、またね」と、前を向いたまま放心したように言って、エリスがふらふらと歩き出した。

 事故にでもあったら大変と、林太郎はそのままエリスに付き添うようにして駅前まで来た。


「もう、ここで、いい」


 林太郎の顔を見ないでエリスが言った。


「これだけ暗いんだ。女の子一人じゃ危ないから、マンションの入り口まで送るよ」


 林太郎はエリスの後から付いて歩いた。マンションの入り口の自動ドアが開いてエリスがロビーに入って行くのを見届けてから、林太郎は自分の家へと足を向けた。腕時計を見ると夕方の六時をとっくに過ぎている。

 LEⅮの照明の光で溢れる駅西口から東口へと抜けると、水銀灯の侘しい光が林太郎を迎えた。住宅街にぽつりぽつりと立っている街灯の灯りを伝うようにして家に急いだ。


 自分の住んでいるマンションを見上げた。

 恵子はまだ帰って来ていないらしく、窓は真っ暗だった。階段を使って三階まで上がると、林太郎はマンションのドアの鍵を開けて中に入った。


 真っ暗なリビングに入って、バックパックを背中から床に落とした。

 照明も付けないで、林太郎はリビングに立っていた。辺りはとても静かだった。


「おうがい君」


 林太郎はおうがいを呼んだ。おうがいは返事をしなかった。


「なあ、おうがい君。いるんだろ?返事しろよ」


 自分の頭をノックしておうがいを呼び出そうとした林太郎は、途中で止めた。


「何だよ。本当に、いなくなっちまったのかよ」


 林太郎は苦笑して、思いっきりおどけた表情をしてみせた。頭の中からは、おうがいの呆れた溜息一つ返って来ない。


「返事しないんなら、お前の大好きな万年兄の秘蔵ファイル、パソコンから消去しちゃうぞ!」


 大声で怒鳴っても、おうがいの返事はなかった。


「ホントに、本当に、全部消しちゃうんだからな!」


 肩が震え出し、目から大量の涙が溢れてきた。


「何だよ!お前、現れた時もだけど、いなくなる時も突然で!ちゃんとした別れの挨拶もなしかよっ!何が((いい男になれよ))だ。俺がべそっかきだからって、最後にそんな嫌味言って消えちまうなんて!勝手な奴だ。本当に勝手な…」


 涙が止まらなかった。


「くそっ!ちくしょうっ!」


 声を上げてわんわん泣いたら、閉口したおうがいが頭の中から((こりゃ林太郎!また子供のように泣きおって))と困った声を出すかと期待したが、狭いリビングに響くのは、自分の情けない泣き声だけだった。

 



 文化祭の次の日の月曜日、学校は代休になる。


 母、恵子はとっくに出社して家の中にはいなかった。

 林太郎は一人で起きて一人で風呂に入り、一人で昼飯に近い朝食を取った。この五か月間、頭の中におうがいがいて、朝から晩までなんだかんだとうるさく喋り立てていたのが、昨日からぱたりとなくなった。


「一人でいるって、こんなに静かだったっけ」


 食パンを齧っている最中に、林太郎は立ち上げってリビングのテレビをつけた。賑やかな音がすれば、少しは気が紛れると思ったからだ。


「最初におうがいが現れた時には、俺の頭から出て行けって、そりゃあもう怒鳴り散らしたのにな」


 食器を洗ってから、ソファに座ってテレビの映像を眺めていた。お笑いコンビが騒々しく喋る姿を、ただぼんやりと目に入れていると、スマホから着信音がした。

 

 エリスからだった。


 メールには、午後二時過ぎに駅東口の児童公園で待っていると書いてある。反射的に壁の時計を見ると、二時まであと三十分しかない。

 林太郎は急いで着替えをしてから、マンションの駐輪場に向かった。自分の自転車に飛び乗ると、児童公園と反対方向に向かった。用を澄ますと、そのままエリスの指定した公園へとペダルを漕いだ。


 公園のブランコにエリスがいた。

 どこを見るでもなく、ぼんやりとした表情でブランコを揺らしている。

 公園にはエリス一人しかいなかった。午後二時というのは丁度昼寝の時間にでもなるのか、公園には幼児が遊ぶ姿も、その母親の姿も見当たらなかった。


「エリス」


 林太郎は小さな声でエリスの名を呼んだ。地面を見つめていたエリスの顔がさっと上がる。林太郎の姿を見つけると、その口元に微かに笑みを浮かべてブランコから立ち上がった。


 木の下にあるベンチに二人で腰かけた。何を話したらいいか分からずに、林太郎とエリスは、ただ、公園の遊具を見つめていた。



「“エリス”がいなくなったの」


 ぽつりとエリスが言った。


「そうか」


 林太郎は返事した。少し間を開けてから、「俺も」と言った。


「おうがい君が、いなくなった」


「やっぱり、そうなんだ」


 エリスは顔を空に向けて大きく伸びをした。


「二人で行っちゃったんだね。どこに行ったのかなぁ?天国?」


 空を指差すエリスに、林太郎も空を見上げた。筋状に広がっている雲が、おうがいの背中に生えていた翼のように見える。


「天国かなあ。あいつの事だから、まだそこら辺でうろうろしているんじゃないの?」


「天国に行く前に、新婚旅行してたりして」


「ははは、あり得る」


 エリスの明るい言葉に、林太郎は救われた気分になった。


「あいつが俺の頭の中に現れてから、ホントにもう、すんごくうるさくってさ。どうでもいいことをずっとべちゃくちゃ喋っているし、風呂入ると必ず長唄歌い出すし。眠っている時なんか大鼾をかくんだぜ。こっちも睡眠中だとびっくりして飛び起きることもあった。一番困ったのは、食事している時に耳元で屁をこくんだ。俺が怒ると((余は年寄りだからのう、大目に見ろ))って、すっとぼけた声を出して謝りもしない。だけどあいつ、精神だけで体がないんだよな。どうやって屁をしていたんだろう?あ、ヘンなこと言っちゃって、ごめん」


 決まり悪そうに頭を掻く林太郎を見て、エリスはくすくすと笑った。


「でも、何か、楽しそう」


「うん。父さんが死んじゃってから、母さんはフルで仕事始めたからね。祖父母も早くに亡くなっているから、俺はいつも家で一人だった。あいつがいて、楽しい時もあったよ」


 少し寂しげな表情になった林太郎の顔を下から覗き込んで、エリスは微笑んだ。


「おうがいさんって、林太郎のお父さんみたいだったの?」


 エリスに下から顔を突き出されてドキッとした林太郎は、少し赤らんだ顔を横に向けた。


「パソコンに入っているエロ画像を見せろって大騒ぎする奴だぜ?あれが親父ってのは、勘弁して欲しいな」


 思わず口を滑らせた林太郎に、エリスが意味ありげな笑みを浮かべた。


「ああ、万年(かずとし)君と大声で話していた、アレのことね」


「いや…えっと…その」


 顔を真っ赤にして焦り(まく)っている林太郎に、エリスが噴き出した。



 体と意識を“エリス”に渡す直前、おうがいはエリスに(ささや)いたのだ。((エリス、林太郎は隠し事のできない男だ))と。


((私の生まれ変わりであっても、林太郎は、明治の“森林太郎”とは似ても似つかぬ誠実な男だよ。君が前世の“エリス”とは全く違う女性へと成長したようにね))



「親父っていうよりは、歳の離れた兄貴みたいな感じだったな。おうがい君、歳は六十って言ってたから、俺と四十三歳も離れているのか。…兄貴ってのもかなり無理があるな」


(っていうか、俺は、一体、何を話しているんだ?おうがい君の思い出話をエリスに聞かせたい訳じゃないだろう?)


 林太郎は口を閉じて力なく俯いた。


「林太郎」


 エリスが小さな声で林太郎の名を呼んだ。


「うん?」


 地面から視線を離さずに林太郎が返事する。


「私の中には、物心ついた時から“エリス”がいたの。幼い頃は、あの子がお友達だと信じて疑わなかった。だって、“エリス”が見せてくれるベルリンの記憶は、とても楽しいものだったから。それが異常だと気が付いたのは、“エリス”の存在を口にした途端に、両親が怯えた目を私に向けたからよ。前世なんて、どうでもよかった。とにかく彼女の存在を、両親を含めた私の周りにいる全ての人から隠さなくちゃと、必死だった」

 

エリスは靴の先で地面にぐるぐると円を描きながら、話を続けた。


「私は無理やり心の底に“エリス”を押し込めたの。“エリス”はとても優しい子だから、ずっと私に服従していたのね。父と母の離婚で私の心のバランスが崩れて、彼女が一気に前世の記憶を放出させてしまったのは、私が彼女を抑圧していたせい。自業自得なんだけれど、私はそれに耐えられなくて…」


 エリスの話を聞いて、おうがいが林太郎から前世の記憶をシャットアウトしていた理由がようやく理解出来た。


「おうがい君が言っていたよ。思い出の記憶が多過ぎると、脳が処理しきれなくなるって。あいつは俺に前世の記憶を殆んど見せないから、本当は不都合なことを隠したいだけなんじゃないかって、思ってた」


「おうがいさんは、あなたを記憶の洪水から守っていたのね」


 エリスは寂しそうに笑ってから、悲しみに沈んだ顔を林太郎に向けた。


「ねえ、聞いて、林太郎。日常の記憶していた事柄が思い出せないとか、覚えられなくなったりして生活に支障が出る病気を記憶障害って言うのだけれど、かなり特殊な症例で、それと正反対の事が脳に起こることがあるらしいの。楽しい記憶も辛い記憶も、全てを詳細に覚えているんだって。それが年齢と共に積み重なっていくから、頭の中が思い出で溢れ返ってしまって、とても苦痛を感じるって」


 エリスの話に林太郎が驚いて目を見開く。


「そんな病気があるの?初めて聞いたよ」

 うん、と頷いてから、エリスは少し口元を緩ませて話を続けた。


「専門書で調べたの。“エリス”の前世の記憶が頭の中で映像となって繰り返し甦るのは、それに近いことが自分に起こったのかなって思った。今になって分かったことは、“エリス”には、前世の記憶しか世界がなかったってこと。私があの子を暗闇の中に、長い間、閉じ込めてしまったから」


 エリスの目から涙が溢れた。


「ごめんね、エリス。あなたに辛い思いをさせた」


 肩を震わせているエリスを林太郎は抱きしめたかった。それが出来ずに、膝の上で震えるエリスの手に自分の手を重ねようとした。


 エリスの手の甲に林太郎の指先が触れた。


 途端にエリスがピクリと手を震わせる。林太郎は慌てて手を引っ込めた。


「でも、それも過去の話だ。おうがいと再び巡り合えて、もう二度と離れない。彼女は今、とってもハッピーなんだよ」


 林太郎は頭の後ろで両手を組んで空を見上げた。


「新婚旅行も終えて、今頃は天国で新居(スイートホーム)を構えているさ。だからさ、エリス、君は何も気に病むことはないんだ」


 林太郎の能天気な話に、エリスは涙を拭いてふふっと笑った。


 二人はそのまま黙り込んで公園を眺めていた。


 さわさわと吹いてくる風が肌に心地よい。十月に入った季節はこれから本格的に秋へと向かう。温暖化でいくら時期が遅くなったといっても、児童公園の落葉樹もそのうち紅葉していくだろう。林太郎はまだ青々としている頭上の木の葉を眺めた。


「エリス、これからは、記憶していたい思い出だけを、覚えていればいいんだ」

 

 おうがいの見せたベルリン時代の最後の記憶を、林太郎は思い出していた。

 おうがいと“エリス”、彼らの一番美しい思い出。

 狭い屋根裏部屋で二人でささやかに踊った愛の円舞を。


((林太郎。この記憶をしっかりと覚えていてくれ。これがエリスを救うカギとなる))


 林太郎の頭に刻み付けられたおうがいの記憶に従って、林太郎はエリスと踊った。暗い体育館で、それは素晴らしい映像となって“エリス”の心に届いた。


「うん。そうする」


 エリスは力強く頷いた。その目には、さっきの弱々しさはどこにもない。


「林太郎、“エリス”に読み書きを教えてくれたあなたとの思い出は、絶対に忘れない。だって、あの前世の記憶があったから、私はユニセフに入って貧しい子供達に読み書きを教えるという夢を持てたんだもの。詩集を読むエリスの嬉しそうな顔を、私は絶対、記憶から消さない」


「エリス」


 やっぱり、君は行くんだね。

 

 林太郎はベンチからゆっくりと立ち上がった。



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