鷗外現る
「森君、大丈夫?気分でも悪いのかな?」
教科書を握りしめたまま震え出した林太郎に、鈴木が心配そうに声を掛けた。
「先生、林太郎君は最近貧血気味のようなんです」
おもむろに、健吉が手を上げて鈴木に訴えた。貧血と聞いて教室の女子が小さな悲鳴を上げる。林太郎は驚いて健吉を見た。健吉が「うん」と林太郎に力強く頷く。
「それで、立っているのが辛いんだと思います。僕が代わりに朗読します」
(ナイスフォロー、健吉!)
「分かりました。森君、貧血とは知らずに朗読させて悪かったね。では、相沢君に続きを読んで貰いましょう」
元気よく席を立った健吉と入れ替わるように、林太郎がぐったりとした表情で椅子に腰を下ろす。健吉が朗読を始めた。だが、一語ずつ区切って読むので、何を言っているのかさっぱり分からない。
「相沢くんありがとう。では、鴻池さんに、最初から読んで貰いましょう」
生徒全員が肩を震わせているのに気が付いた鈴木が、すぐに健吉を着席させて、教卓の前に座っている女生徒を指名した。
はい、と返事して立ち上がった鴻池きららが教科書の文章を流れるように読み始めた。
健吉がへへへと照れ笑いして林太郎に顔を向けた。林太郎も健吉に笑みを返そうとしたものの、口元は引き攣ったっきり動かない。
何故なら、自分が森鴎外の生まれ変わりだと、たった今、思い出したからだ。
(な、な、な、何でっ!?)
林太郎は机の中からおもむろに電子辞書を取り出して、ぽちぽちと検索し始めた。
転生。【生まれ変わること。輪廻。てんしょう。※三省堂大辞泉より一部抜粋】
(ライトノベルでよく使われるシチュエーションだよな。だけど、まさか俺自身が、こんな境遇に陥るとは!こは、如何にせしや!!)
パニックを起こしているせいだろう。思考言語までが大時代的な言い回しになっている。
「林太郎君?」
真っ青な顔をして電子辞書を睨みつけている林太郎を健吉は心配そうに見た。
「どうしたの?本当に具合悪いの?」
林太郎は小声で話し掛けてくる健吉に見開き切った目を向けると、おずおずと口を開いた。
「…健、吉…」
「うん?」
「あいざわけんきち…だよな」
「そうだけど?」
(ああ、そうだ。明治の頃はぽちゃぽちゃと太っていて顔も丸かったが、面影が残っているぞ。俺と健吉は、大学の同期でドイツ留学も一緒だったんだ。他の学生とうまく馴染めない俺を心配して、何かと気を使ってくれてたっけ)
こいつも俺と同じ時代に生まれ変わっていたんだな。そして、相変わらず、俺の世話を焼いてくれているとは。林太郎は感動で思わず咽びそうになった。
「その節は、大変お世話になりまして…」
急に改まってぺこりとお辞儀をする林太郎に、健吉も思わず頭を下げる。
「あ、はい、どういたしまして」
(…って。何、言ってんだ、俺。一体、いつの話だよ!)
林太郎は自分の頭髪を両手で掻き毟った。いつもとは違う林太郎の様子に健吉が困惑の表情をする。
「―――五年前の事なりしが、平生の望足りて、洋行の官命を蒙り、このセイゴンの港まで来し頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新ならぬはなく…」
『五年前だが、長年希望していた要望が叶って、ドイツ留学の命を上官から与えられて、このセイゴンの港まで船で来る頃には、見るものも聞くものも全てが初めての事ばかりで…』
鴻池の朗読する声が、嫌でも林太郎の耳に入ってくる。滑舌が良く聞き取りやすいが、少しばかり鼻にかかって掠れるのが甘ったるい。
「ああ、ブリンヂイシイの港を出でてより、早や二十日あまりを経ぬ」
『ああ、ブリンジイシイの港を出港してから、早や、二十日が経った』
((陸軍省の命を受けてドイツに留学したのは明治十七年、二十二歳の時だった))
突然、林太郎の耳元で誰かが滔々(とうとう)と喋り出した。
(うわあっ!な、なんだ!)
林太郎は危うく叫びそうになって、慌てて自分の口に掌を押し付けた。
((ライプチヒ、ドレスデンへと移りミュンヘンで医学者ペッテンコオフェル先生、そして二十五の歳に、ベルリンに滞在して高名な細菌学者であるコッホ先生から指導を仰いだ))
(ううっ、思い出したぞ!この声は…)
ホームルーム前に聞こえた、あの皺枯れ声だ。そしてそれは、夢に出てきた死にそうな老人の声と同じだった。
鴻池の朗読で、ドイツ留学の思い出が林太郎の脳裏に鮮明に甦っていく。その林太郎が頭に浮かべる言葉の一言一句を違わずに、皺枯れ声が呟き続ける。
(俺が森鴎外の生まれ変わりだってのは思い出した。だけど、どうして夢に出て来た爺さんが俺の頭の中で喋っているんだ?俺の頭の中はどうなっちまったんだ?)
((ベルリンでは一年と五か月、暮らした。ヨーロッパの新しい大都市の中央に立った時の感慨は未だによく覚えている。町の華やかさに目を貫かれ、男達の立派な出で立ちに目を見張り、行きかう女性の飾り立てた装いの色鮮やかさに心が惑うようだった。顔立ち良い少女達の装いはパリ風で、とても可愛いかったなあ))
声はぶつぶつと林太郎の頭の隅で喋り続けている。
(あ、そうか。分かったぞ。あの死にそうな爺さんは俺の転生前の姿なんだな。明治生まれの森林太郎だ)
だからと言って、頭の中で勝手に喋られていては混乱するばかりだ。不気味な声を追い出そうと、林太郎はぎゅっと目を瞑り、頭をぶんぶんと横に振った。
起立して朗読する鴻池の後ろ姿を眺めながら、いつものように女子評価を唱えてみた。頭の中の声に雑念を思いっきりぶつけたら消去出来るかも、と考えたのだ。
(鴻池きらら。身長百五十二センチ。体重五十~五十二キロ。バスト八十八。ウエスト六十六。ヒップ八十九。ぽっちゃりさんの眼鏡っ子種。目尻が垂れ気味で黒目勝ちの大きな目がチャームポイント。文芸部副部長。ネットで過激なBL小説を発表して荒稼ぎをしているとの噂あり。学業A。運動神経Cマイナス。容姿はあまり自分好みのタイプじゃないのでBマイナス。総合評価はB)
((…初めて見る美しい風景に、ついきょろきょろと街を見渡してしまった))
皺枯れ声は収まらない。それどころか、鴻池の朗読で勢い付いたかの様に、次第に大きく饒舌になっていく。恐ろしいことに、この年老いて力のない掠れ声は、林太郎の思考そのものだ。それが自分の頭の中で重なり合う異様さに、林太郎はぶるぶると身を震わせた。
この状態って、二重人格のカテゴリーに入るのだろうか?何にしても…。
(うわ―っ、やだ!気色悪いっ!!)
((車道のアスファルトを音も立てずに走る色々な馬車。雲にそびえるような楼閣の少し途切れた所から、晴れた空へと、夕立のような大きな音と共に噴水の水が滝の如く落ちていく))
林太郎は額から汗を噴き出しながら、血走った目を鴻池の隣に座る女生徒に移した。
(花井梨々花。佐々木茉奈と同じ茶道部に所属。身長百五十三センチ。体重四十六キロ。バスト八十二。ウエスト五十八。ヒップ八十六。佐々木と同種のかまってちゃん。ジャニーズ好きだったが、専業主婦の姉と甥っ子の三人で仮面ライダーショーを見に行ってから、歴代ライダーの主役を務めたイケメン俳優のファンに移行しつつある。顔の造作は可もなく不可もなしで容姿はB。成績は…)
((遠くを眺めると、ブランデンブルグ門を隔てて両側から伸びた緑の木々の中から空に浮かんでいるように見える、凱旋塔の神女の像の荘厳さよ!ああ、この、初めて目にする美しい景観に、どうしても目を奪われてしまう。だが、浮つく心を押さえなければ))
(あ、足立美香利。バトミントン部。身長百五十八。バスト八十。ウエスト五十七。ヒップ八十三。容姿・性格のひょうか、は、は…)
((陸軍軍医である余は、物見遊山に独逸に来たわけではないのだ。我が国の偉大なる陸軍軍営の為、衛生学の最新研究を学び本国に持ち帰り…))
「何で、消えないんだよっ!」
林太郎は叫んで机を拳で叩いた。そのまま顔を机に突っ伏したが、すぐに授業中だと思い出して慌てて頭を持ち上げた。
案の定、クラス全員が驚いた表情で林太郎を見つめていた。




