秘密Ⅱ
目を閉じると古い漆喰の壁が現れた。
たった今、ベッドに横たわったばかりだというのに、エリスは目を覚ましていた。
上半身を起こすと、エリスの動きに合わせて簡素なベッドがぎしぎしと音を立てた。ベッドの下のささくれ立った床に揃えてある小さな靴に足を入れる。
小さなタンスから木綿のドレスを出して着替えた。髪をブラシですき、後ろで一纏めに結ってから、エリスは自分の部屋のドアを開けた。
次の間がすぐに台所になっている狭い間取りの家である。レンガを積んだだけのかまどに火をくべた上に鍋を置いて、母親が豆のスープを煮込んでいた。隣の部屋から父親が少し右足を引き摺りながら出て来て、台所にある小さなテーブルの下にある小さなスツールを引き出して腰かけた。エリスは母親が作った薄い豆のスープを器によそって、父親の前にライ麦のパンと共に置いた。
親子三人が椅子に腰かけて、神に朝食の前の祈りを捧げてから食事を取り始めた。右手も不自由な父親は、左手でスプーンを握ってスープを口に運んだ。
二年前、軽い脳梗塞を起こした父親は仕立物師として活計を立てられなくなった。途端に生活は困窮し、エリスが劇場の踊り子になって一家の生活の支えた。厳しい稽古を乗り越えて、二番人気の座を獲得したが、驚くほど給金は安く、家族三人が暮らすにはやっとの額だった。
あまりの薄給に、他の踊り子達は客に春をひさぐものが多かった。いわゆる売春である。
エリスを含めて踊り子達の家は貧しい。親や弟妹を養っている者が多く、金持ちがパトロンとなればかなりの額が貰えるとあって、舞台から男を物色する者が殆んどだった。
お前も誰かいないのか、俺が見繕ってやってもいいぞと、劇場の幕が下りるとシャウムベルヒ座長が野卑な笑いを浮かべて寄ってくるので、エリスは幕が下りると逃げるように劇場を後にした。
劇場の外には娘の身を案じて毎日迎えに来きている父親がいた。エリスは外で待っている父親の姿を見つけると、駆け寄ってその大きな体を抱きしめてから、杖を付きながらゆっくり歩く父親に寄り添って家路についた。
貧しいながらも、親子三人、肩を寄せ合って暮らしていた。
父が二度目の脳梗塞を起こして、突然、天に召されてしまうまで、エリスは今の生活が続くと信じて疑わなかった。
目を覚ますと、エリスは自分が日本の家にいることを思い出した。
アメリカから帰ってくると日本は深夜だった。空港にタクシーで迎えに来てくれた母親の紗世の顔を直視できずに、家までずっと無言だったのも思い出した。ベッドからゆっくりと起き上がって窓に行く。ガラスに額を押し付けて、夕暮れに染まった街を見下ろした。
夢の中で“エリス”は幸せそうだった。
父のエルンストは金も地位もなく、体さえ不自由なのに、娘を守り慈しみ、妻だけを一心に愛する男だった。
夢の中で父を見る“エリス”の表情に、エリスは羨望を覚えた。あの表情をしているのが、どうして自分ではないのかと。
「今のパパとは、大違いね。“エリス、”あなた、私を無様だと思っているでしょ?」
この頃、眠るとすぐに“エリス”が現れる。母と父の離婚が避けられないのだと知った時から、自分でも驚くほど精神が不安定になった。
原因は分かっていた。幼い頃に見た、エリスの記憶のせいだ。
愛する父を突然失い、恋人も自分から去っていこうとするのを知ったエリスの悲しみが、成長したエリスに理解出来るようになったからだ。
痛みと苦しみで破裂しそうなエリスの心が。
亀裂の入ったエリスの心に居場所を見つけた“エリス”が頻繁に現れ出してから、一年近くなる。
自分の中で増大していく“エリス”に飲み込まれそうで恐ろしい。
もし、“エリス”にエリスが支配されてしまったら、自分は一体、どうなるのだろう?
(前世のような大人しくてたおやかなエリスになるの?身も心も捧げれば、必ず相手もそうしてくれると信じて疑わない無垢な少女に?嫌よ。そんなの耐えられない!)
だけど、林太郎はどうだろう。
ベルリン時代の彼が愛したのはエリスではなく“エリス”だ。前世の記憶がないにせよ、体のどこかで彼女を覚えている筈だ。だとしたら、林太郎は“エリス”を喜んで受け入れるのだろうか。恋人の好みの色に自ら進んで染まる少女を、愛おしく思うのだろうか。
「そんなの嫌。“エリス”、私は負けない。あなたには、絶対負けないから」
「あの子が三歳の頃だったかしら。エリスが突然、アメリカで暮らす前は、自分はベルリンに住んでいたと言い始めたの。私は最初、夫が読み聞かせた絵本の話をしているのかと思ったわ。夫は夫で、同じことを考えていた。ベルリンに住んでいる女の子の話の絵本が、娘のお気に入りだとね。そうじゃないって分かったのは、エリスが私達二人が揃っている時に、まるで見てきたように十九世紀のベルリンの街の姿を滔々と話始めたからよ」
そこで話を区切って、紗世はコーヒーに口を付けた。
「自分の中に小さな女の子がいるって言い出した時、夫と私はすぐに脳の専門医にエリスを連れて行ったわ。片っ端から精密検査を受けさせて脳自体には異常はないと分かって、胸を撫で下ろしたの。でも、それも束の間だったわ。エリスの、幼い少女とベルリンでの生活の話は止まらなかったから」
そこまで話してから、紗世は口を噤んだ。林太郎の顔が真っ青になっていたからだ。
「ごめんね、森君。唐突にこんな話されて、びっくりしたでしょう?」
「いえ、その、びっくりというか、そんなんじゃなくて。その話、もう少し詳しく聞かせてもらえませんか?」
恐ろしく真剣な表情で身を乗り出してくる林太郎に、紗世は安心したようだ。再びコーヒーを一口喉に流し込んでから話を再開した。
「日が経つに連れ、エリスは少女がベルリンに帰りたいと自分の中で泣くから、私も悲しくなると言って、泣き出すことが多くなった。困り果てた私達は霊媒師に頼ることにしたわ」
「霊媒師?」
「そう。霊媒師に縋ったのよ。エリスが悪霊に取り付かれたんじゃないかってね。それまでは、神も悪魔も信じたことなかったけど」
「はあ」
林太郎は曖昧に頷いた。どう答えていいか分からなかったからだ。
「霊媒師なんて、日本では馴染みがないものね」
「ホラー映画に出てくるのは知ってますけど」
「そうね。日本では映画の話になってしまうわね。アメリカは違うのよ。スピリチュアリズムって言って、未だに霊と交信出来ると信じている人も多いのよ。こんな話、森君、理解出来ないわよね?」
はいとも、いいえとも返事出来なくて、困惑した表情になっている林太郎に、紗世は眉を下げてくすりと笑った。笑い方がエリスそっくりだ。
「それで、有名な霊媒師のお婆さんに見て貰ったら、エリスは十九世紀にベルリンで暮らしていた少女が現代に生まれ変わった人間だっていうじゃない。前世の記憶が心の中で少女の形となって表れてるって。言葉を失っている私と夫に、エリスがにっこり笑って、このお婆さんの言う通りだって…」
当時の情景をありありと思い出したようだ。紗世が深い溜息をついた。
「エリスみたいな症例はいくつかあって、幼子の場合、生まれ変わる前の場所に連れて行けば、納得して成長と共に忘れてしまうそうなの。本当にそうなるならばいいと思って、エリスをベルリンに連れて行った。あの子の行きたい場所にね」
「それで、その場所はあったんですか?」
恐る恐る林太郎は聞いた。自分も知っている場所だ。
大都会ベルリンの、クロステル通りと名の付いた狭い道。そこから路地裏に入ると見える、古寺の筋向いだ。古びた石門の大きな扉を潜ると見えてくる古色蒼然とした建物の欠けた石の階段を上った四階に、ワイゲルト一家が住む小さな借家があった。
「街はエリスの記憶とすっかり変わっていたわ。百年以上も前の話だし、第二次世界大戦末期、ナチス撲滅のためにアメリカとヨーロッパの連合軍によって、ベルリンは破壊尽くされたから」
「そうですか」
「それでも何とか戦争前の地図を探し出して、大体の場所は把握できたの。エリスはとても満足したように見えた。だから夫と私は…まだその時は、ちゃんとした夫婦だったからね、エリスの中の小さな女の子は消えてなくなったのだと思っていたわ」
「…違ったんです、か?」
林太郎の問いに、紗世が頷いた。
「一年前、夫に愛人がいたのが発覚した時にね。“ベルリンのパパは死ぬまでママを愛していた”とエリスが叫んだのを聞いて、あの子の中にまだ少女が存在しているを知ったの」
父親の死。林太郎と出会う直前のエリスだ。林太郎はテーブルの下、自分の膝の上に置いてある両手を強く握りしめた。
「それから、あの子の様子が変わっていった。ぼんやりしていると思ったら、急に怒ったり、泣き出すことも多かった。疲れたといってベッドに入ったと思うと、そのまま眠ってしまって、十時間以上起きないこともあったわ。学校でも、行動がおかしいとからかった同級生とトラブルを起こして、エリスは居場所をなくしてしまったの。心配した私はあの子にきつく問い質した。“教えて頂戴、あなたの中で一体何が起きているの!”って」
コーヒーカップの取っ手を掴んだ紗世の指先が白くなる。林太郎と同じく、手にかなりの力を込めているのが分かった。
「エリスは言ったわ。“長い間、眠っていた前世の私が目を覚ました”って。“彼女には恋しい人がいて、彼を想って微笑んだり、彼に会いたくて泣いたりしている。私は子供の時のように彼女を自分の心の奥に押し込めて封印したいのだけど、ママを裏切ったパパにショックを受けていて、今はそれが出来ない。それで、あの子が、前世のエリスが出てきてしまって、私の心に勝手に入り込んでくる”って」
紗世はカップから顔を上げて、林太郎に涙の中で揺らいでいる瞳を向けた。
「だから私は、夫と別れる決心をしたの。エリスを連れて日本に戻って来たのは、あの子を守る為。私の行動は正しかったと思っている。エリスはあなたと出会って、私が知っている彼女本来の姿に戻ったから」
紗世の涙が頬を伝った。
「今、あの子は落ち着きを取り戻している。このまま“前世のエリス”がエリスの心の奥底で再び眠りについて目を覚まさないのを、私は切に願っているわ。それは、あなたがいれば可能になる。だからお願い。森君、あなたさえよければ、ずうっとあの子の側にいてあげて」




