夏の終わり(あるいは宿題が終わらぬ健吉への救済)
夏休みの終わりまで一週間を切った日の午後、林太郎は健吉の家にいた。
無論、健吉の宿題を手伝う為である。
お盆明けから二週間、学校で英語と数学の夏期補習がある。大会に参加している運動部員を除いては、ほぼ全てのクラスメイトが教室に揃った。真紀とエリスの席が空いているのは、岨野山田高校の女子サッカー部が全国大会を順調に勝ち進んでいるからだ。
真紀はともかく、エリスの姿がない教室など、林太郎には無味乾燥の極みである。隣の健吉と同じように、ただぼんやりと机に肘をついて教鞭をとる教師の声を馬耳東風状態で聞いていた。
「林太郎君、宿題終わった?」
九時から始まって十一時半で終わる補習の後に、健吉が暗い顔を向けて林太郎に聞いてくる。これは
「お願い林太郎君、宿題手伝って」の前置きであり、健吉が想定する通り、林太郎が宿題をとっくに終えているから使える言葉である。
このやり取りは、小学校入学以来、夏休み終了間際に健吉と林太郎の間で毎年交される風物詩な会話となっていた。
「うん、終わってるよ」
「ホント!じゃあさ、お願い林太郎君、僕の宿題手伝ってくれる?」
「いいよ」
健吉の切羽詰まった声に「ああ、今年の夏休みも、もうすぐ終わるのだなあ」と林太郎は心の中でしみじみと思うのである。
健吉の家へと直行すべく、林太郎は自分のマンションの前を素通りして近くのコンビニに入って弁当を買った。健吉の部屋で昼飯を取った後、すぐに宿題を始める為である。
「宿題、何が終わっていないんだ」
林太郎が聞くと、「英語のプリント三枚と数学のチャートの復習」との答えが返って来た。
「あと、作曲も終わってない。っていうか、僕、作曲なんか出来ないよ~」
涙目になりながら林太郎に訴える健吉なのだが、これは音楽を選択科目に選んだ生徒全員の叫びであろう。
今までクラシックのCDを掛けるだけで授業を済ませていた音楽教師の辰巳慎吾が(どうやら校長に怒られたらしく)急にやる気を出して、「夏休みは長いですからね、皆さん、小品でいいからオリジナルの作曲をしてみましょう」との、とんでもない課題を出したからだ。
「取り敢えず、今日は先に英語のプリントやっちゃえよ。分からないところがあったら教えてやるから」
眉をハの字にしながらプリントと格闘し始めた健吉の脇で、林太郎は持参したウォークマンで音楽を聞き始めた。
「林太郎君、何、聞いてるの?」
十秒もしないうちに気を散らせた健吉が、プリントから目を上げる。
「メタリカとメガデスとスレイヤーだっけ。あと、アンスラックス。野木に借りたCDから録音したやつ。メタルの基本だから聞いておけって言われてさ」
「ああ、メタル界のBIG4か。林太郎君、バンドボーカルの練習は順調なの?」
「まあな。お前んちに遊びに来るとさ、近くの幼稚園のガキが泣き喚いている声がしょっちゅう聞こえるだろ?あの、ギャーという小節のかかった泣き声にヒントを得て発声するようになったら、デスボイスが楽に出るようになったぞ」
「…そうなんだ。良かったね」
健吉の家の近所の幼稚園というのは、林太郎も通ったふたば幼稚園である。
本人はとっくに忘却の彼方なのであろうが、よだれと鼻水を大量に垂れ流しながら、目から滝のような涙を噴き出して「ゔあぁぁぁぁんっっ」と激しい泣き声を毎日のように喉から絞り出していたのを、健吉はしっかりと覚えている。
思えば、当時の林太郎は、確かに見事な小節をきかせていた。
幼稚園時代に鍛えた声帯が高校生になってデスボイスとして開花したのは、世界に類を見ない稀有な例であろう。
「そんな事より、健吉、ちゃんとプリントに集中しろよ」
「あ、うん」
健吉が英文のカッコ内に入る形容詞に頭を悩ませていると、インターホンを押す音が聞こえた。一階にいる筈の健吉の母親は出掛けているらしく、インターホンはしつこく鳴り響いている。
「うるさいな。あの押し方は、どうせ近所の悪ガキのピンポンダッシュだろう」
林太郎が忌々し気に舌打ちするのを見て、健吉が困った顔をした。
「…いや、あれは多分、亀ちゃんだと思うよ。今日、家に来るってメールあったの、今思い出した」
「はあ?何で上田がお前んちに遊びに来るんだよ!っていうか、お前、宿題終わらせなきゃならないんだから、誰とも遊んでいる暇ないだろう?」
そうなんだけどと、健吉がもっと困った顔をする。
「あのね、昨夜に亀ちゃんの家でお祖母さんの誕生日会があったとかで、知り合いからパティスリー・ニシモトのフルーツゼリーを大量に頂いたんだって。とても食べ切れないから今日、うちにお裾分けに来るって、そういう連絡で」
「それを聞いたら話は別だ」
林太郎は二階にある健吉の部屋から飛び出すと、階段を降りて玄関の扉を開けた。
「森!何できさまが相沢の家にいる?」
「健吉に夏休みの宿題を教える為だ」
突然、玄関口に現れた林太郎に驚く万年の手から大きな紙袋をひったくって、箱の中身を開ける。確かに美味しそうなフルーツゼリーがきらきらと輝いて並んでいた。
林太郎は紙袋を受け取ると、そのまま万年を玄関の外に蹴飛ばしてドアの鍵を閉めてしまいたいのを堪えて(それをやったら、健吉に怒られるから仕方なく)彼を健吉の家に招き入れた。
「お前、まだ宿題終わってないの?」
呆れた様子の万年に、健吉が泣きそうな顔を向ける。見せてみろとプリントを覗き込んだ万年が、健吉にカッコ内に入る形容詞の説明を始めたのを見て、こいつもいいところがあるんだなと、ほんの少ーし感心しながら林太郎はフルーツゼリーを食べ始めた。
「この形容詞は人に掛かるから、動詞にingが後ろに付いて…おい、森、お前が相沢に勉強を教えるんじゃなかったのか?」
万年は健吉のベッドの上で胡坐をかきながら、勝手にゼリーを食べている林太郎を睨み付けた。林太郎は「いやあ、お前の方が俺より英語は得意だから」と澄まし顔で宣うた。
林太郎に担がれると万年が上機嫌になるのを知って言っている訳だが、果せるかな、万年は林太郎の言葉に「え、そう?」と頬を緩めて、喜々として健吉に英語を教え始めた。
「そう言えばさ、上田、お前、T大の文科一類受験するの本当にやめるのか?」
二つ目のゼリーを食べながら、林太郎はぼそりと万年に問うた。
「勿論だ。俺は官僚にならんと決めたのだ。まあ、親に打ち明けたら上を下への大騒ぎになるのは目に見えているからな。こっそりと進路変更してやるのさ」
「こっそりも何も、法学部から文学部に変えればすぐにばれちまうだろ。どうすんだよ?」
林太郎の言葉に、万年の目がきらりと光った。
「俺は日本の大学は受けない。アメリカの大学に行くことにした」
「「えっ!」」
林太郎はゼリーを食べる手を止め、健吉はプリントから顔を上げた。
「日本の大学だと速攻でばれるからな。アメリカ北東部にある名門私立大学に留学することに決めた。アメリカまで行ってしまえば、超うるさい親の目も、さすがに届くことはいだろうからな。好き勝手にやらせて貰うさ」
「ええっ!じゃ、じゃあ、エリスと同じハーバードかイェール大に行くのか?」
息せき切って尋ねる林太郎に、万年は顰め面をして答えた。
「俺の学力ではさすがにハーバードは無理だな。イェールだとぎりぎりだから、プリンストンかダートマス辺りに受かればいいと思っている。プリンストンでも結構大変だが、実はうちの祖父がプリンストンの卒業生なんだ。アメリカの大学っていうのは、両親祖父母が卒業生の受験生の場合はかなり優遇されてるんだよ。それにうちの爺さんは事務次官にまでなっているから、コネは万全だ」
そう言って万年は不敵な笑みを浮かべた。
「え~、亀ちゃんアメリカ行っちゃうの~。寂しくなるなぁ」
「だったら、相沢、お前も俺と一緒にプリンストンに来ればいいだろ」
さらりと無茶を言う万年である。万年の言葉を真に受けた顔付きで、健吉は口を尖らせた。
「僕、こんなに英語が苦手なんだから、アメリカの大学に行けるわけないでしょ。それに受験する大学も大体決めちゃってるしさ」
「え、そうなの」
健吉の発言に驚いた林太郎は、座っていたベッドから腰を浮かせた。健吉は「うん」としっかりと頷いて林太郎を見た。
「僕、保育士さんになるって決めているでしょ?それで、ふたば幼稚園の園長先生にどこの大学の保育科受けたらいいか相談したの。そしたら大学をリストアップしてくれて」
「へえ、そうなんだ」
ふたば幼稚園園長は、健吉が(保育士の先生全員が音を上げるくらいに手を焼いている林太郎のお世話を、黙々とこなすのを見て)保育士としての大いなる才覚の持ち主であるのを、早くから見抜いていたのである。
実子がいないこともあって「健吉君さえよければ、ふたば幼稚園の跡継ぎにしたい」と相沢家に申し入れているらしい。と言うのを、林太郎は、近所のスーパーで健吉の母親と立ち話した母、恵子から聞いていた。
実家から十メートルの範囲内で人生決まっちゃうのってどうなんだよ?と、林太郎は思ったのだが、満更でもなさそうな健吉を見て黙っていた。
「そうだ。俺、用事思い出したから、帰るわ」
林太郎はベッドから降りて自分のバックパックを背負った。
「え~!林太郎君帰っちゃうの~。勉強教えてくれるって言ったのにぃ」
ぶうぶう文句を言い始めた健吉に林太郎は手を振った。
「ごめん。英語は上田に教えて貰えよ。明日は必ずチャート見てやるから。作曲もまだなんだろ?俺が適当に作っておいてやるからさ」
「本当!林太郎君、ありがとう~」
健吉は嬉しそうに五線紙を林太郎に手渡した。




