謎の声
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教室に入ると、林太郎は自分の机にバックパックを置いた。
席は教室の後ろから二列目の窓側。右の席では健吉が、林太郎と同じように自分のバックパックを乗せて一時限目の教科書を取り出している。
林太郎の前の席では、生田真紀が早弁をむさぼっている。健吉の前後の席には運動部に所属する男子生徒が座っていた。前がサッカー部の原田で、後ろが野球部の坂本だ。坂本の右隣は柔道部の岩崎の席。林太郎の後ろは空いていて、坂本の教科書置き場として使われていた。
この席順は、クラスの担任で現代国語の男性教諭、鈴木修一の苦心の作である。
林太郎と目が合うと黄色い声を立てる女子生徒から緩く隔離することで、教室全体が落ち着くように絶妙に配置されているのだ。
林太郎はこの席順をいたく気に入っていた。
「一時限目は現国か。そういえば、今日から新しいパートに入るんだよね。林太郎君は予習してきたの?」
教科書をぱらぱらと開きながら、健吉が聞いてくる。
「いや、現代国語は基本、予習はしないかな」
林太郎も健吉を真似て教科書をぱらぱらとめくった。明治・大正・昭和初期の作家の小説は、高校一年のうちに全て読破しておいた。明治期の文豪が書いた小説は勿論、原文で、である。
現在の大学入試で出題される可能性はそれほど高くはないだろう。だが、万が一ということもある。
坪内逍遥、二葉亭四迷、幸田露伴、島崎藤村、夏目漱石、樋口一葉、永井荷風、国木田独歩、田山花袋、武者小路実篤、中島敦、坂口安吾、阿部公房、志賀直哉…。
これ以上羅列しても、行を埋めるだけの作業になるので、ここらへんで止めておく。
「そういえば、林太郎君は昔の人が書いた本は全部読んじゃってるんだよね?」
「ああ、まあ」
大正時代半ばに生まれたひい爺さんの名前を受け継いでいる健吉だが、自分の生まれた平成より前の年代は全て昔である。
「凄いなあ…」
健吉がため息交じりに感嘆の声を上げて、開いた現国の教科書を睨みつけた。
「何書いてあるか、さっぱり分かんないや。これもう古文と一緒でいいんじゃないの?」
「日本の近代文学は明治から始まったんだよ。開国で西洋文学に影響を受けて、初めて言文一致で小説が書かれたのさ」
「ふうん。何にしたって、かなり難しい文章だよ。森鷗外が書いた、舞姫っていう小説。教科書に載っていなかったら、絶対に読まないよ」
もりおうがい?林太郎はきょとんとして健吉の顔を眺めた。まいひめ、だって?
「どうしたの、林太郎君。そんなびっくりした顔をして。もしかして、今日からこの小説を勉強するって鈴木先生が言ってたの、忘れてた?」
「あ…うん。忘れてたかも」
林太郎はぱちぱちと瞬きしながら健吉に頷いた。というか、教科書はおろか、森鴎外の小説は何一つ読んでいない。
(何故だ?明治の文豪と称されている人物だったよな?何故、読んでいない?)
林太郎は慌てた。教科書をきちんと開いて、「舞姫」の始まりの文章に目を通した。
石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静かにて、熾熱搭の光の晴れがましきも徒なり。(石炭は早くに積み終えた。中等室の机の辺りはとても静かで、電燈の光が無駄なほど明るい)
簡潔で、無駄のない文章だった。
健吉の言うように、難しい文体だ。現代文学の主流となった同時期の作家である漱石の滑らかな口語体とはかけ離れている。
(だからって、この俺が読まない理由にはならないだろう?)
好きも嫌いもない。入試に出題される可能性があるから読むだけ。そう、ただ読めばいいだけだ。なの
に、たった一行、目を通した途端、読む気が失せてしまった。それだけではない。鴎外の小説を読むのをわざと避けてきたような気がする。
何故だろう。林太郎は首を捻った。
(無駄だからだ)
突然、低音の皺枯れ声が、林太郎の耳元に響いた。
「え?」
林太郎は辺りを見渡した。前の席の生田真紀は、早弁を終えた途端に机に突っ伏し、盛大にいびきをかいて眠りこけている。
(生田のいびき?いや…あれは、声だった)
それも、男の。
(健吉のか?)
右を見ると、健吉はぼんやりした表情で黒板を眺めながら、ホームルームの始まるのを待っている。
「どうしたの?林太郎君」
瞳を見開いて自分を凝視している林太郎に気が付いて、健吉が首を傾げた。
「あ、いや、何でもない」
林太郎は健吉から視線を外した。
あれは音域の高い健吉が出せる声ではない。林太郎は首を捩じって斜め後ろの坂本に目を移した。大柄なにきび面は、隣の岩崎とのお喋りに夢中になっている。
(一体、どこから聞こえたんだ?)
思わず、窓の外に林太郎は目を向けた。誰もいない校庭と、敷地の端に植えてある、とうに花の散った葉桜の瑞々(みずみず)しい緑が目に映る。
(幽霊?って、そんな馬鹿な話はないよな。もしかして幻聴?)
林太郎は俯いて首を軽く振った。睡眠不足か。いいや、昨日は早めに勉強を切り上げて、十一時には就寝した。
(そういえば、今朝、随分と気味悪い夢に叩き起こされたんだった)
老いた体が、病魔に侵され死んでいく夢。
あんなに汗びっしょりになって飛び起きたのは初めてだ。奇妙な声が聞こえたのは、まだその悪夢の名残が、林太郎の中に残っているからだろう。
チャイムが鳴る。キン、コン、カンと聞き慣れた鐘の電子音が鳴り終えた後に、鈴木教諭が教室に入って来た。
「きり―つ」
当番の学生が号令を掛けた。生徒が一斉に椅子を引く音を合図に爆睡していた真紀が飛び起きた。クラス一同が、担任の鈴木教諭に礼をしてから腰を下ろす。
全員が着席したのを見届けると、鈴木は人好きのする顔でにっこりと微笑みながら、生徒全員を見渡した。
鈴木修一。歳は四十ちょっと前。穏やかな性格で、授業も分かりやすい。学級運営も手馴れていて、生徒の信頼も厚く保護者の定評もある。
「おはよう。みんな、今日の調子はどうかな?」
始業時間前に繰り返されるこの光景は儀式だ。林太郎はそう思っている。この国は儀式を重んじて発展してきた。皆、同じ方向を見て行動せよと、幼少期から脳みそに深く植え付けられるのだ。
「絶好調で―す」
真紀が右手を上げて、元気な声を張り上げた。
「そりゃそうだ。生田は早弁してんだもんな」
男子の一人がおどけた声を放つ。クラス全員が爆笑に包まれた。
今日予定されている学級及び学校活動の簡単な報告が終われば、一時間目は鈴木の受け持つ現国だ。そのまま授業に入ると思いきや、鈴木は咳払いをして教卓の上に両手を置いた。
「今日は、みんなに、お知らせがあります」
鈴木がクラスの生徒をゆっくり見渡した。
全く持って勿体ぶったやり方だ。林太郎は人知れず鼻を鳴らした。鈴木の、一瞬間を置いてから話し始めるのが、林太郎は好きではなかった。人から距離を置いたような慇懃な喋り方も。
何だか知らんが、ちゃっちゃと言ってくれ。
苛立ちはおくびにも出さずに、林太郎は優等生の顔で鈴木を興味深そうに見つめるふりをした。
「突然ですが、このクラスに転校生が来ます」
一瞬の静寂の後、ざわめきが広がった。へえ、とか、転校生だってよ、との、ひそひそ声で教室が埋まっていく。
「転校生だって!どんな子だろうね?」
健吉が上気させた頬を林太郎に向けた。その顔には、可愛い女の子だったらいいな、と書いてある。大概の男子生徒は、転校生と聞くと何故か美少女を夢想する。この世の常だ。
(あ―。くだらん)
林太郎は溜息を付いて窓の外を見た。転校生なんかどうでもいから、早く授業を始めてくれよと、心の中で不満を呟く。
「アメリカからの転校生です。急に日本に来ることが決まったので、クラスの皆に知らせるのが転校当日になってしまいました」
(アメリカ人?)
林太郎は鈴木の顔に視線を戻し、それから教室の引き戸を眺めた。
アメリカ人と聞いて、クラスに緊張が走る。この学校に外国の留学生が在籍していたのは三年前。林太郎が入学する以前の話だ。
(それは僥倖。俺がそいつを英会話の教材として使い倒してくれよう)
林太郎が、ふふふと片頬の口角を引き上げた次の瞬間。
からりと開いた引き戸から現れたのは。
髪の色は薄きこがね色、青く清らな目の長き睫毛に覆われたる、この少女は…。
「エリス・ワイゲルトさんです。みんなさん、仲良くしてあげてくださいね!」
クラス全員の大きなどよめきが教室に溢れ返る中、鈴木教諭が声を張り上げた。




