林太郎のトラウマ
登校時、林太郎の周りで女子生徒の「おはよう」の輪唱が始まるのは、岨野山田高校の風物詩と化している。
校舎の昇降口で毎朝繰り返される、ちょっとした騒動を呆れ顔で、それから唇をきゅっと噛みしめて、恨めしそうに睨めつけながら靴を上履きに履き替えている男子生徒らを尻目に、林太郎は爽やかな笑顔を振りまいた。
はっきり言えば、面倒この上ない。苦行と言ってもいい。実は、林太郎は女子の集団が大の苦手なのである。
だが、煩わしいからと冷淡な態度を取るのは、少し離れた場所から目の奥に熾火の如くふつふつと嫉妬を滾らせている男子生徒全員から怒りを買うことになる。
円滑な高校生活を送るにあたって、それは林太郎が絶対にやってはいけない行為だ。
そうは言っても、オットセイのハーレムの如くこうも沢山の女生徒に群れられると、林太郎の存在に羨望と絶望を感じている男子生徒は、林太郎を遠巻きにして誰も近づいてこなくなる。
まあ、テストの前になると、彼らは出題箇所をズバリと当てる林太郎に、教科書片手に大挙して押し寄せて来るのだが。
いつからかは覚えていないが、林太郎は頭の中で、自分に寄ってくる女生徒の分類を始めるようになっていた。一種のストレス解消である。校内カーストとは別の、林太郎独自の基準で分類し体系を作るのだ。
もし、林太郎を取り巻いている女子生徒達が林太郎の頭の中で行われている、下劣極まりない女性評価を知ったとしら、一体どうするのだろう。
彼女たちは怒りのあまり、林太郎の体を八つに裂り割いてドラム缶に投げ入れ、コンクリート詰めにした上で、海にどぶんと沈めてしまうだろうか。
林太郎が不細工な男だったら、百パーセント、そのような悲惨な末路を辿るに違いない。
だが、林太郎は道を歩けば誰もが(圧倒的に女性)頬を赤らめて振り返る程の超美男子だ。
女はイケメンに弱い。超が付けば、なおさら弱い。乱暴な言葉を吐いても、ぞんざいに扱っても、「いやん、もう!森君ったらぁ~♡」で、大抵終わってしまうのだ。
それからもう一つ。
林太郎は、岨野山田高校が開校して以来、空前絶後ともいえる優秀な生徒だ。
某有名予備校の全国模試の偏差値は八十を超える。勿論、進学先は日本の未来を担う秀才が集まるT大だ。学部は理科三類、医学部を目指している。
何故T大医学部かというと、そこが日本の大学で一番偏差値が高いと日本国民に認知されているからである。
そんなわけで、林太郎は、校長以下、学校の先生全員から母校の歴史に残るべき人物として将来を嘱望されている。それは岨野山田高校の生徒なら誰もが知っている話だ。
だから、林太郎に面と向かって嫌味や雑言の一つでも放とうとする強者(愚か者とも言う)は、この学校には存在しない。
「ちょっと、ごめんね」
林太郎は強引に女子の輪から抜け出ると、離れた場所にちょこんと立って自分を待っている健吉と一緒にクラスに向かった。
「いつも悪いな。先に教室に行ってて、いいのに」
「気にしないでよ。もう慣れちゃっているからさ」
屈託なく笑う健吉の言葉に嘘はない。何故なら、このような状態は幼稚園の頃から続いているからだ。
幼い頃の林太郎の身体と精神は脆弱だった。そして、生後一か月のトイプードルのように、無茶苦茶可愛かった。
幼い園児だって女の端くれである。女子の本能として可愛い男子に寄っていくものである。
幼いが故、自制も効かない。林太郎が通うふたば幼稚園ひよこ組の女児全員が、りんたろうくん、かわいー、きゃーきゃーと、林太郎の周りに雲霞の如く集まった。
そして最後には、組で一番小さい林太郎を中心にした押しくらまんじゅうと化すのである。
恐怖のあまりべそをかき始める林太郎を女児の群れから引っ張り出すのは、いつも健吉の役目だった。
そんな様子を斜に構えた表情で見ているのが同じ組の男児達である。
ひよこ組で一、二を争う可愛いあーちゃんとゆみかちゃんが、べそっかきの林太郎に始終ぺったりとくっついて、おままごとの様子を毎日見せつけられているのだから、面白い筈がない。
彼らだって、幼くても男の端くれである。気になる女の子前で怪獣のような声を出したり、お道化て見せたりして一生懸命気を引こうとするのだが、悲しいかな、全て徒労に終わるのだ。
男児達は幼いが故に女児の心理を全く理解していない。
彼女達の気を引こうとして大声で騒ぐサルのような立ち振る舞いが、女児の軽蔑の対象になってしまうことに気が付かないのである。
あーちゃんとゆみかちゃんは必ずと言っていい程、嫌そうに眉を顰めて「林太郎君、あっちで遊ぼう」と、林太郎の手を引っ張って向こうへ行ってしまうのだ。
自分達が何故女の子に嫌われるのか理由が分からない男児達は、当然の如く苛立ちの矛先を林太郎に向けた。
健吉や女子の目の届かない所で、こっそりと、林太郎をいじめるのである。
林太郎にしたって災難である。女の子にままごとだ何だと人形のように引っ張り回された挙句に、男の子達のいじめの的になってしまうのだから。
そんな状況は、林太郎が小学校六年生まで続いた。
中学生になったのを機に、林太郎は己のひ弱な精神と肉体を鍛えようと、思い切ってサッカー部に入部した。
泣き虫のくせにと同学年の子に馬鹿にされるのが悔しくて、一生懸命ボールを追って校庭を駆けずり回っているうちに、何という事でしょう!周りも自分も驚くほどにめきめきと上達していったのだった。
勉強は言うに及ばず、運動もやればできる子だったのである。
毎日激しく体を動かした結果、小さかった林太郎の身長は急に伸び始めた。いつの間にか女子を、そして健吉の身長を追い越した。
気が付くと、林太郎より背の高い人間は少なくなっていた。それと同時に林太郎の脆弱さも影を潜めた。
幼い頃から続いた弱々しい林太郎のイメージが払拭される時が、とうとう訪れたのだ!
林太郎は女子の群衆に埋もれることはなくなり、女子生徒に纏わり付かれながらも、如才なく対処出来るようになった。
それを機に、健吉の役割は林太郎を温かく見守るものへと変化していった。
自信に満ちた態度で自分以外の人間と会話する林太郎を見る健吉の瞳は、慈愛に満ちている。それはまるで、立派に成長した我が子に目を細める年老いた母親のようだった。
事実、健吉の幼稚園から小学六年生までの九年間は、転んで膝をすこーし擦り剥いただけで、死にそうな顔をしてひいひいと泣き、シャツに墨汁をぽちょっと零したくらいで、この世の終わりが到来したかのようにべそべそと泣く林太郎のお世話で明け暮れていた。
人生の半分以上をそうやって過ごして来たのだから、健吉が林太郎のオカンと化するのは、想像に難くない。
それでも、幼い頃の精神的外傷が簡単に治るものではない。
行く先々で寄ってくる女子生徒達とにこやかに話している林太郎だが、それが原因で、男子生徒から刺のある視線を向けられては、心穏やかではいられない。
幼い頃に彼らから受けた理不尽な扱いが、今また再発する可能性はゼロとはいえない。
その恐怖を心の外に追いやろうと、無意識に女子達のスリーサイズや性格・成績などをデータ化して、林太郎が作成した基準値から平均を割り出して評価を付けるという作業を行うことで、精神の平静さを保っているのである。
それは、林太郎自身も気付いていないことだった。




