レイニーブルー2
ブックマーク、ストーリー評価頂きまして誠にありがとうございます。
主人公ずっとヘタレ状態でありますが、この辺から話の展開が始まってきます。
これからも宜しくお願いいたします<(_ _)>
この瞳子。ああ、夢にのみ見しは君が黒き瞳子なり。
「生まれてくる子は、あなたと同じ黒い瞳なの」
エリスは自分の腹を愛おしそうに撫でた。
「あなたの瞳。私にはその黒い瞳だけ」
この子が生まれるのを、私がどれだけ楽しみにしているか。
だから、どうか捨てないで。この子を私生児になんかしないで。
ロシアから帰って来た林太郎に、エリスは抱き付いて涙を流した。
「帰って来てくれたのね!林太郎、もう二度と会えないのかと思った」
ロシア外遊からベルリンへと帰った三日後、林太郎は天方伯爵が宿泊するホテルに招かれた。大臣である天方伯の前で、林太郎は相沢によって帰国の念を確かめられた。
「森には、ベルリンに留まる理由も未練もないそうですよ」
相沢が天方伯に言うのを、林太郎は黙って聞いていた。
エリスの顔が頭を過ぎったが、今ここで選択を間違えば、名誉挽回の機会を永遠に失うだろう。林太郎は大都会ベルリンの貧しき街の片隅で、己が身を朽ちさせていくしかないのだ。
「天方伯御一行と共に、私も本国に戻ります」
そう答えた事実をエリスに伝えられる筈もない。
ホテルを出てからふらふらと街を漂い歩いているうちに、動物園の近くにまで来た。
歩道に設置されている金属製の長椅子に倒れ込む。焼けるような熱と激しく痛む頭を椅子の背もたれに預けて、林太郎は死んだようにぐったりとしていた。
激しい寒さに飛び起きると、いつから降り出したか知らぬ雪が、外套と帽子の上に三センチも積もっている。
凍え切った足を引き摺るようにしてエリスの家に戻ったのは、深夜過ぎであった。
林太郎の帰りを寝ずに待っていたエリスは、雪を被って乱れた髪と泥だらけの林太郎の姿に悲鳴を上げた。ベルリンの厳しい寒さの中で病を発症した林太郎は重篤に陥り、高熱が続く間意識を混濁させていた。
病床にあった林太郎がやっと意識を取り戻した時。
最初に目にしたのは、相沢謙吉の顔だった。
重病に罹患してから数週間後、やっと意識を取り戻した豊太郎は、エリスが発狂しているのに愕然とする。
豊太郎を心配して訪ねて来た相沢が、必死で豊太郎を看病するエリスに、彼が帰国の途に就くことを打ち明けたからだ。豊太郎が今まで黙っていた真相を相沢から具に聞いたエリスは「豊太郎!どこまで私を欺くつもりなの!!」と、叫ぶと気を失って倒れた。
相沢と母親がベッドに運んで様子を見ていたが、目を覚ましたエリスに正気は戻らなかった。豊太郎の名を叫んで罵倒し、自分の髪を毟り、布団を噛んだ。何かを探し求めるように手を伸ばすので、母親が物を掴ませると全て投げ捨てた。机の上にエリスが縫った布おむつを与えると、探るように手を動かして、おむつを握り、顔に押し当てて泣き崩れた。
豊太郎に捨てられる己の身の上を知って心の壊れたエリスにはもう豊太郎の顔も分からない。ただ、豊太郎を看病していた時を思い出すのであろう、うわ言のように「薬を、薬を」と呟くばかりだ。
狂女となったエリスを抱きしめて涙を流す豊太郎だったが、帰国の時が迫っていた。
何とか生活の支えになるくらいの金を母親に預け、生まれてくる子とエリスをどうかよろしくと頼んで、最悪の事態を招いた相沢に恨みを募らせながら、豊太郎はドイツを後にするのである。
「ひっど―――い!何この小説!」
「主人公、最低!」
淡々とした表情で最終場面の現代語訳を行っていた鈴木が、その声に教科書から顔を持ち上げた。
無論、声の主は女子生徒である。小説のエリスは自分達と同じ年齢なのだ。尽くした挙句に捨てられる薄幸な美少女のヒロインに感情移入するなという方が無理である。
これが女子高であり、教えるのが女性(独身)教諭であるならば、「ね、みんな。悲恋なんて美しい言葉で飾っても、豊太郎とエリスの問題は現実に起こり得る生々い話なのよ。どうやったって傷付くのは女なんだから、オトコに頼らなくてもいい経済力を身に付けておきましょうね」という教訓で授業は終わる。
男子校ならば、「だってこれ、小説の中の話でしょ」と、開口一番、防衛線を張り、次に「ヒロインが正気を失うって、どういう事?まあ、百年も前の小説だから仕方ないか」で片付けてしまい、両性の間に横たわる深い溝には見て見ぬふりをする。
それでは、共学の場合はどうだろうか。
女が強くなったと言われるようになってから、どれだけ長い時間が経っただろうか。
それでも最近、横断歩道を渡る小学一年生女児が、ぴんと手を上げて男児数人を守るように引き連れて歩く姿などを目撃した作者などは、その言葉をしみじみ実感するのである。
しかし、このような子は頼りになるが、怒らせると怖い。
林太郎のクラスの女子は上記の女児が成長して高校生になったような娘が多かった。
「可愛い子が多いけど気が強い」と男子生徒の間で評判になっているクラスである。
傍から見ればそれで済むが、隣り合って座っていると大変である。
「この小説の授業も今日で終わりますが、読後の感想を述べたい人は手を上げて下さい」
鈴木の言葉に、早速、複数の女子がさっと手を上げた。
「酷い結末です。ヒロインが可哀そう」
「正気を失ったヒロインを捨てて日本に帰国するなんて下衆の極みよ」
「それも手切れ金は雀の涙しか出さないのよ。生まれてくる子供の世話まで年老いた母親に押し付けて、人でなしもいいところだわ」
「自己保身しか考えない男ってホント最悪」
鬼のような表情で口々に捲し立てる女子達に恐怖して、お怒りはごもっともと、男子全員口を真一文字に結び、竦めた首で殊勝に頷くのみであった。
林太郎は俯いたまま、授業内容も女子の怒りの言葉も耳に入らず、ある疑念に頭を悩ませていた。
おうがいに問い質したいことがある。
聞くのは怖いが、知らなければ、もっと恐ろしい。
(なあ、おうがい。この小説の最後の場面って、まさか、実体験じゃないんだろうな?)
((ドイツ留学とエリスに出会ったのは本当だが、最後の場面は完全な創作だ))
(その言葉、本当なんだろうな。信じていいのか?)
((本当だ。色々あって別れたのは事実だが、エリスは気など触れたりなんかていない。それだけは信じ
てくれ))
(…分かった)
おうがいの告知に林太郎は胸を撫で下ろした。
それにしても酷い結末だ。恋人をモデルによくこんな小説を書けたもんだ。読後感の悪い“嫌なミステリー(イヤミス)”ならぬ、イヤ古典だ。林太郎の心を読んだおうがいが心外だという声を出した。
((林太郎、これは小説ぞ。センセーショナルな結末でなくてどうする。ヒロインに深く感情移入しているクラスの女子を見よ。小説として大成功ではないか))
(何、呑気なこと言ってんだよ。お陰で俺は悪者扱いだ)
文句を頭に浮かべても、はなから聞く耳を持たぬおうがいには意味はない。
((実はさ、この小説を発表した当時はあんまり評判良くなかったんだよねぇ。文学界の大御所からは、何だ、“この軟弱な主人公は!明治の男子としてあるまじき性格だ“とかって、けちょんけちょんに批判されるしさぁ。令和の世になって、クラスの女子がこんなに熱中して感想を述べてくれる姿に、余はとても感動している))
(お前、女子の話をちゃんと聞けよ。怒り心頭の文句ばかりだぞ)
健吉も非難の矢面に立っていた。
豊太郎とエリスを別れさせようとするこの男の行動は、親友を忌まわしい境遇から救おうとするまっすぐな善意からである。だから、エリスを不幸のどん底に叩き込もうとも、痛みなどちっとも感じない。
この物語は主人公豊太郎の優柔不断な性格が禍して起こった悲恋なのである。
だが、女子には豊太郎とエリスを引き裂いた張本人が相沢謙吉であることから、彼が一番の悪人と映ったようだ。
女子が口々に相沢謙吉の悪口を言い立てるのに堪り兼ねて、遂に健吉が手を上げた。
「先生!僕、こんな酷いことした覚えは、ありません!」
その直後に爆笑が起こったのは言うまでもなく、クラスの笑いが収まる前に授業終了のチャイムが鳴った。作者の森鷗外に本格的に非難が向く前に授業が終わって、林太郎は極度の緊張感から解放された。
(エリスはどうだったのかな)
森鷗外の実在した恋人をモデルにして描かれた小説「舞姫」の小説のヒロインと同姓同名だ。顔に出さずとも、内心嫌な思いをしていたのではないか。
「エリス」の生まれ変わりであるエリスは何も知らない。
明治の時代に恋人同士だったことをきれいさっぱりと忘れ去られていて、寂しさを感じたこともあるけれど、今の林太郎にとって、エリスに前世の記憶がないのは、どれだけ救いになっているだろう。
休み時間に入ると同時に、エリスは静かに席から立って教室から出て行った。
その後ろ姿を見送った林太郎の胸が痛んだ。何となくだが、エリスが寂し気に見えたからである。
(ヒロインと自分の名前が一緒なんだもの、こんな結末じゃあ、気分が良い筈ないよなあ)
チャイムと同時に後ろを振り向いて、エリスに「いやあ、現国の授業、ホント、参ったね。でも、この小説、百年以上も前に書かれたものだから気にしないでね」などと、明るく笑い飛ばせばよかったのか。
それが出来たら、自分達の名前が小説の作者と登場人物と同じという“偶然”を受け入れられるだろうか。
そうしたい。エリスにもっと近づけるのなら。
だけど。
おうがいの言葉が林太郎の胸の奥に刺さっている。
終わった恋だ。
おうがいははっきりとそう言った。
エリスとの恋が成就していなくても、過去が過去として清算されているのなら、林太郎の中におうがいが出現する理由などない筈だ。
だから、どうしても、怖くなる。
終わった恋というならば。
おうがいが林太郎の中に甦った理由は何なのだろう。




