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レイニーブルー1


 雨である。

 日本列島が梅雨の季節に入ったのだから、この時期、雨は四六時中降っている。

 それでも、朝、どんよりと曇った空から細かい雨粒が落ちてくるのを見ると、どうしても心が沈んでいく。傘で頭をすっぽりと覆い隠した林太郎は、濡れたアスファルトに目を落としながら通学路をとぼとぼと歩いていた。


「おっはよー!林太郎君。あれぇ、どうしたの。元気ないね。おなか痛いの?」


 健吉は今日も元気である。そして、不元気な様子の林太郎を見ると、必ず腹痛の有無を聞いてくる。

 幼い時、ストレス過多になると(大抵は女子に囲まれて身動きが取れなくなった場合)林太郎はよく腹痛を起こした。その都度おなかが痛いと健吉に救助を求めていたので、健吉も条件反射のように口にしてしまうのだ。


「大丈夫。別に痛くない」


 腹は痛くなくても明らかに不機嫌な林太郎に、健吉は「そう?」と少し困った顔をした。林太郎の不機嫌値は最大(マックス)ではないが、かなり高いようだ。原因が分かっている健吉は、黙って林太郎と肩を並べて登校することにした。


(学校に行くの億劫だな。気が滅入る。やだなあ)


 学校に行きたくないのではない。行けば林太郎の後ろの席にはエリスが座っているのだから、学校には行きたい。

 エリスの大根田退治の騒ぎも大分収まった。クラスも落ち着きを取り戻し、林太郎は健吉や真紀と一緒にエリスと会話出来るようになっていた。


 それなのに。


 苦難(?)の末にやっと手に入れた小さな幸せに、早くも暗雲が立ち始めたのである。


(今日は、一時間目から、現国だもんなあ)


 鼻血で汚れたヨレヨレの教科書を見るのも開くのも嫌なのもあるが、直接の原因は「舞姫」の授業にあった。


 小説「舞姫」は二十数ページの短編である。


 今更感はあるが、ここで大まかに小説のあらすじを記しておこう。




 主人公、太田豊太郎が日本へ帰国する船の中で始まった傷心の独白は、今までの人生を回顧しながらベルリンでの体験談へと遡る。


 太田豊太郎は幼い頃に父を亡くし、母一人子一人で幼少を過ごした。幼い頃から神童との誉れ高い豊太郎は、飛び級で大学に進み、十九歳にして法科を収め、現代で言うところの国家公務員(外交官か)となった。上役に目を掛けられてドイツへの赴任を命じられた豊太郎は、同じくドイツに赴任した同輩の遊興にも一切加わろうとせずに、仕事に打ち込み大学にも通う多忙な日々を送っていた。


 それが、街の散策でエリスと出会った時から運命が大きく変わっていく。


 死んだ父親の葬式が出せずに、寺の門の前で泣いていたエリスに金銭的援助をした豊太郎は、最初、エリスに読み書きを教える清い間柄であった。優秀な豊太郎を(うと)む同輩が彼を(おとし)めようと、二人が深い仲になっているとの噂を官長の耳に入れる。その(よこしま)な進言を信じた上官達によって、豊太郎はドイツでの役職を解かれてしまう。


 一週間のうちに帰国しなければベルリンで路頭に迷う。悩む豊太郎に、本国から母の死を知らせる文が届いた。


 母の死を知り絶望する豊太郎を慰めるべく、エリスは己の純潔を彼に捧げるのである。エリスへの愛から帰国を見送った豊太郎は、友人相沢謙吉が見つけてくれた翻訳の仕事を糧に、エリスと共に暮らすようになった。




 と、ここまでが小説の前半である。


 さて、問題は後半にあるのだが、その前にクラスの反応を見てみよう。


 最初、森鷗外の本名が森林太郎だと知ったクラスの生徒達は、へえ、くらいの関心で済んでいた。

 だが、小説と並行して作者の人となりを知ると、主人公がどれだけ優秀か書き連ねてある文章に、読者の誰もが(この作者、自分と主人公を重ねているぞ)とすぐに気が付く。


 偶然にも作者と同姓同名で、同じく跳び抜けて優秀な成績の人間がクラスにいるのである。

 鈴木教諭が森鷗外の説明をするたびに、生徒の目はどうしても林太郎に向いてしまう。

 

 そこにエリスが登場するのである。

 始めは遠慮がちだったクラスメイトの視線は、主人公とエリスが恋仲になると、一気に好奇心を剥き出しにした。

 

 何しろ作者とその小説の主人公の恋人の名前が同一なのである。そして、作者のドイツ留学時に小説のモデルとなった人物が実在したと聞けば、多感な年頃の生徒達だ。心境穏やかでいられる筈がない。

 

 それに加えて相沢謙吉の名まで出てきた。好奇心の目が、瞬く間に奇異の色へと塗り変わっていく。小説の登場人物三人と同じ名前の人間が教室の左の後ろに一塊になって座っているのだから当然である。


 クラスメイトが冷やかしの視線を向ける中、林太郎は平然とした態度を崩さずにいた。

 誰とも目を合わせることなく、ただ無表情に教科書と黒板を見続けた。

 心無い視線がエリスを傷付けないか。ただそれだけが心配だった。

 

 授業が終わってから遠慮がちに話し掛けると、大して気にも留めていない様子のエリスに、林太郎はほっとした。

 

 舞姫の小説の授業もあと少しで終わる。期末試験も近いから、冷やかしなど一時(いっとき)で済む。そう林太郎は読んでいた。クラスの雰囲気に呑まれずに堂々としていればいいと。

 

 だが、期待は裏切られることの方が多いのが、この世の常である。

 

 話がエリスの妊娠へと展開したからだ。

 エリスに妊娠を告げられて不安を隠せない豊太郎の心理に鈴木の説明が及ぶと、クラスが異様な雰囲気に包まれた。



「信じられない」


 女生徒が発した一言に、クラスの空気が一瞬で凍った。

 鈴木も対応に困っているようである。何か言えば、それが火種になって騒ぎに発展しそうなので、知らんぷりを決め込んで授業に専念しているのが手に取るように分かる。


 林太郎の胸中までもが穏やかでなくなってきているところに、相沢謙吉がベルリンの豊太郎の前に現れる場面まで話が進んだ。


 豊太郎を天方大臣の通訳に抜擢した相沢は、豊太郎自身から落ちぶれた身の上の原因を聞いて驚愕する。と同時に、「学識のある優秀な人間がこんな所でくすぶっていてどうする。あんなつまらん少女の為に人生を棒に振る気か。縁を切って帰国しろ」と迫る。


 まるで今の豊太郎の不遇がエリスのせいだと言わんばかりである。

 相沢にエリスをあしざまに言われて怒るどころか、「うん、分かった。お前の言う通りだ。日本に帰る」と言ってしまう豊太郎である。

 難解な公文を一晩で訳す豊太郎に、大臣である天方伯がロシア同行を命じる。天方伯と一緒に外遊に加わっていた役人の中でフランス語を一番に操る豊太郎は仕事に熱中し、エリスの存在をすっかり忘れ去っている。あまつさえ、日々届くエリスの手紙さえ開こうともしない。


 そこまで話が進んでくると、林太郎は女子からの痛い視線を感じるようになっていた。


 あんなに「森君♡」とか言って無邪気に林太郎に寄って来ていた女子の心境に、大いなる変化が生まれたようである。


 小説のエリスに同情し始めた女子生徒の心の中に、太田豊太郎=森鷗外(本名森林太郎)=森林太郎という、男子からすれば理解不能は方程式が成立し、哀れ林太郎は主人公と同一視されてしまったのだ。


 女心とは実に奇怪なものであるのだなあ、などと思うなかれ。

 女子達は「舞姫」を読み進めていくうちに、これが単なる“お話”ではないと気付いてしまったのである。“真の女の敵”がどういう男であるか、この小説から読み取ったのだ。


 そう。それは“恋人の思わぬ妊娠に慌てふためく男”であり、“仕事を口実に妊娠した(産んでからも)妻をほったらかしにしている男”である。豊太郎のように妊娠した彼女を放り出して逃げようとする男は極悪人の何者でもない。

 

 エリートだろうがイケメンだろうが、女にとってそんな男は唾棄すべき存在なのである。


 何故、林太郎がクラスの女子から敵視されるようになったかというと、どうやら彼女達は鷗外の生まれ変わりである林太郎から本能的(直感ともいう)に“豊太郎的な男”を嗅ぎ取ったからである。


 ああ、恐るべきは女の本能。




 という訳で、女子の敵意に満ちた視線から身を庇う術もなく、林太郎はただ硬直して教科書を凝視してる始末である。


(おい、おうがい!何なんだ、このストーリー展開は!!)


 いくら叫んでも、おうがいは返事一つしない。それどころか雲隠れを決め込んで、完全に気配を消していた。


(くそっ、おうがいめ。この頃やけに静かだと思ったら、こういう事だったのか)

 

 容易ならない事態に陥った林太郎は、どうすることも出来ずに狼狽えるばかりである。


 あわあわしている林太郎を尻目に「舞姫」は次の授業で最終場面へと向かっていた。

 おうがいによって小説を読むのをブロックされていた林太郎だったが、昨日の夜、今から読むと宣言して、未読のページを開いた。


 林太郎の態度におうがいも覚悟を決めたようだ。脳内ブロックを解除された林太郎は、小説の最終章を一気に読んだ。


 そして今日、林太郎は誰とも話さずに、現国の授業開始までの時間、ひたすら英語や数学の問題集に打ち込んでいた。


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