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おうがい、思い出を語る(平常心編)


「今日の一時間目は数学ですが、滝田先生に急用が出来たので、五時間目の現国と交換することになりました。今から現国の授業を始めます」


(一時間目は現国か)


 林太郎はほんわかと鈴木の言葉を聞きながら、バックパックから教科書とノートを取り出して机に広げた。


「それでは、舞姫の十一ページを開いて下さい」


 舞姫と聞いて、林太郎ははっとした。

 すっかり忘れていたが、この短編小説は転生前の森鷗外、林太郎自身が書いたものだ。


 それなのに、ストーリーの一小節すら思い出せずにいる。エリスと太田豊太郎の恋路の顛末が気にならない訳がない。

 だったら、教科書に載っているこの短い小説をさっさと読んでしまえばいいのだが、何故だか目を通す気が全く起きず、そのまま放置してある。今までの林太郎ではありえない行動である。


(おうがいの奴め。俺が舞姫を読もうとするのを、完全にブロックしているな)


 林太郎は誰にも気付かれないようにこっそりと舌打ちした。

 舌打ちした音が意外と口腔内で響いたらしい。おうがいが林太郎の頭の中でむくりと起き上がった。


(おい、おうがい君。今は学校で、授業が始まったばかりなんだ。大人しくしろよ)


((ふん、言われなくても分かっておるわ))


 ぞんざいな口を聞いてから大あくびするおうがいにムカッとしたが、ここで怒っても仕方がない。林太郎は鈴木の言った通り教科書のページを開いた。 



「今日も誰かに音読してもらいましょう」


 鈴木はクラスの生徒達を見渡していたが、やはりというか、鴻池くららに目を止めた。


「この部分も鴻池さんに読んで貰いましょう。あなたの抒情ある朗読はそれは見事だからね」


 クラスの皆も異存はないようで、うんうんと頷いている。


 鈴木の指名で鴻池が椅子から立ち上がった。教科書を両手に持って、小さく息を吸う。

 林太郎は何故か胸騒ぎを覚え、教科書を立てて顔を隠すようにした。


「余とエリスとの交際は、この時まで余所目(よそめ)に見るなり清白なりき」


 鴻池はしんと静まり返った教室に声を響かせ朗読を始めた。


()は父の貧しきがために、充分なる教育を受けず、十五の時舞の師のつのりに応じて、この恥づかしき(わざ)を教へられ、“クルズス”果てて後、“ヰクトリア”(ヴィクトリア)座に出でて、今は場中第二の地位を占めたり」


 淀みなく難しい文章を読み進める声はそれは美しく、鈴木以下、クラス全員が鴻池の朗読に熱心に耳を傾けた。おうがいも鴻池の朗読に聞き入っている。


((鴻池という女子の声は極めて美声の類であるな。()の朗読を聞いていると、この素晴らしい小説の美しい情景が目に浮かぶようであるぞ))


(はっ。自画自賛しやがって)


 林太郎は嫌そうに片方の上唇を持ち上げてから、あることに気が付いた。


(そういえば、おうがいが俺の頭の中に出現した時も、鴻池がこの小説を音読していたんだっけ)


 嫌な予感が、ものすごーく嫌な予感が、林太郎を襲った。


 案の定、おうがいのベルリン時代の壮大なる回想が、林太郎の頭の中で始まった。


((余達の交際は、余がエリスに読み書きを教える事から始まった。いわば師弟関係だ。

 エリスはそれは一生懸命に勉強した。余がその熱意に感動したのは言うまでもない。

 幼き頃から本が大好きなエリスだ。余が愛読しているハイネやシラーの詩を理解したい一心で、勉強に勤しんでいるのは分かっていた。

 熱心に教えた甲斐あって、エリスはすぐに読み書きが出来るようになった。言葉の訛りもなくなった。会えない時は互いに文のやり取りをした。エリスは余に幾度となく手紙をよこすうちに、難しいスペルも難なく書けるようになっていた))


(おうがい君)


 林太郎は頭の中でおうがいに、嫌々猫撫で声で呼び掛けた。


(そろそろ終わりにしたらどうかな。昨日の興奮で疲れているんだろ?あんまり喋ると疲労が増すぜ)


 おうがいは林太郎の忠告など、これっぽっちも聞いていなかった。困り顔の林太郎など眼中にないらしく、彼の頭の中で朗々と声を響かせる。


((これほど清い交際があるだろうか。なのに、真相を知らぬ下卑た同輩がいて、あろうことか、余が芝居小屋に入り浸ってそこの女優とねんごろになっているなどと、長官に告げ口したのだ。

 その頃の余は衛生医学を学ぶ興味が少しばかり薄れていて、(小説では法律ですが、ここでは鷗外本来が学んでいた衛生学とします)ドイツの歴史や文学に倒錯していた。

 国家の命を受けて留学しているのに何だその体たらくはと、長官に大目玉を食らったうえ、国費で賄われている留学費用も止められた。挙句に、もう面倒見られないから早く日本に帰れと公使に言い渡されてしまった))


(お前、その性格だから、若い頃から敵が多かったんだな)


 林太郎は万年を思い出して顔を顰めた。


((遥々(はるばる)ドイツまでやって来て、馬鹿どもと付き合いたくなかっただけだ))


 おうがいは尊大に言い捨てた。


((その頃エリスは余の官舎に足繁く通って来て、掃除や洗濯、食事も作ってくれていた))


(うわ。それってもう恋人の何ものでもないじゃん)


 林太郎は教科書で覆った顔を赤らめた。

 後ろにエリスが座っていることを今更のように思い出す。背中がこそばゆくて仕方がない。落ち着きを失ってもじもじと体を動かす林太郎などお構いなく、おうがいの回想は続いている。 


((その時には、まだ日本に戻る機会もあった。だが、エリスの元を去らねばならぬと考えると、余の胸は張り裂けそうに痛んだ。どうしようかと悩んでいるうちに状況が変わった))


 おうがいは林太郎が聞いたこともない暗く沈んだ声を出した。


((祖国から余に宛てた二通の手紙が届いた。一通は母の直筆の手紙であった。もう一通は、親族の何某(なにがし)だったかが、余の母の死を知らせるものだった))


(それは、気の毒だったな…)


((母一人子一人で育ったからな。母は余をそれは大切に育ててくれた。そんなこともあって、余は自分を(たぐい)(まれ)なるお母さんっ子であったと自負している))


(あんた、超マザコンだったんだ)


((ドイツでの仕事がなくなり大学の学費も払えなくなった。それどころか祖国で余の帰りを待ってくれていた母も亡くなってしまった。日々の生活すらおぼつかなくなった余の窮状を救ってくれたのが、相沢謙吉だ))


 林太郎は隣の健吉をそっと見た。

 明治の恩人の生まれ変わりは、鴻池の滑らかな朗読を聞きながら早くも舟を漕ぎ出している。


((ベルリンに同期留学していた相沢だが、先に日本に戻って大臣職にある天方(あまかた)伯爵の秘書官になっていた。彼が新聞社に掛け合って、ドイツの情勢を書き送る仕事を見つけてくれた。おかげで何とか食い繋ぐことが出来た))


(生まれ変わる前も後もお世話されっぱなしって、なんだかなあ)

 林太郎は決まり悪げに指先でぽりぽりと頬を掻いた。


((あの時、余が自暴自棄にならずに済んだのは相沢のお陰である。それと、余を絶望から救おうとするエリスの献身的な愛が))


 おうがいの声が林太郎の頭の中で若々しく弾んだ。

 献身的愛の部分に嫉妬を覚えた林太郎は、思い切り口を尖らせた。


(おい、じいさん。その辺で止めとけよ。血圧上がるぞ)


((何を言っている、林太郎。ここからが本番なのだ))


 今までになく饒舌なおうがいに、林太郎は不安のあまり両腕に鳥肌が立つのを感じた。



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