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希望の光


「健吉、何でまだこんな所歩いているんだよ。先に帰ったんじゃなかったのか?」


 林太郎が上擦った声で尋ねると、健吉は照れたように頭を掻いた。


「いやあ、そうなんだけどね。エリスちゃんがパティスリー・ニシモトのケーキを食べたいって言うから、帰り道の途中でお店の喫茶コーナーに寄って来たんだ」

 健吉から衝撃の言葉を聞いた林太郎は真っ青になって叫んだ。


「それって、デート?!」


「違うよ」健吉が林太郎の言葉に慌てて訂正を入れる。「ただ、お茶しただけだよ」


(それをデートって言うんだろうがああぁぁっっ!)


 林太郎が心の中で号泣の咆哮を上げているとも知らずに、健吉は心配そうな顔で林太郎の右手を見つめた。


「林太郎君、まだ病院行ってないの?駄目だよ、早く行かなくちゃ」


「分かってるって。上田がちょっかい掛けて来なきゃ、とっくに病院に行って帰って来ているんだけどな」


 林太郎の嫌味に万年が馬鹿正直に反応した。


「おい、森。きさま、何言っているんだ。俺とは二分ほど前に会ったばかりじゃないか」


「あーっ、うるせー!お前もう帰れよ」


「人が心配してわざわざ見舞いに来てやっているのに、何だ、その傲慢な態度は!」


「傲慢はお前だろうが!蹴飛ばされたくなかったら、すぐにこの場から失せやがれ!」


「また喧嘩しているの?」


 おろおろする健吉の後ろにちょこんと立っているエリスが呆れたように言って、くすくすと笑い出した。


「子供みたい」


「ううう…」

 恥ずかしさのあまり口を引き結んで真っ赤になった頬を隠すように下を向いた林太郎とは対照的に、エリスの言葉にプライドを傷つけられた万年(かずとし)は烈火の如く怒り出した。


「きさまぁ、誰に向かってそのような口を聞いている!…あっ、お前は昨日のアメリカの女!」


「亀ちゃん、気が付くのがものすごく遅いよ。それから彼女、エリス・ワイゲルトさんだよ。失礼な呼び方はやめようね」


 健吉が至極丁寧に万年に注意を促すそばから、万年は語気を荒げて捲し立てた。


「失礼なのはこのエリス・ワーゲルトだろうが!この俺を見て笑った挙句に子供扱いしたのだぞ!!」


「まあ、まあ。亀ちゃんそんなに怒らないで機嫌直してよ。途中まで一緒に帰ろう。それから、ワーゲルトじゃなくてワイゲルトさん。苗字を間違えて呼ぶのも、かなり失礼だからね」


 (へりくだ)るような言葉使いで場を収めようとする健吉に、エリスが口を尖らせた。


「健吉君にこんなに気を遣わせるこの人って、一体何様なの?」


(大馬鹿様だ)


 林太郎はそう叫びたいのを必死に飲み込んだ。口に出したらまた幼稚な喧嘩に逆戻りだ。エリスの問いに万年は何を勘違いしたのか、偉そうに胸を張って答えた。


「ワーゲルトよ、よくぞ聞いてくれた。俺は上田万年(うえだかずとし)。上田家出身のキャリア官僚の四代目を目指す者だ。昨日(さくじつ)、相沢の紹介にも預かったが、もう少し詳しく説明してやろう。俺は将来この国のトップ官僚となる為にT大(とうきょうだいがく)文科ぶんか一類(いちるい)に首席で合格する目標に向かって日々勉学に励む毎日を送っている秀才である。そこに突っ立って俯いている輩のライバルであり…」


「何それ、バカみたい」


 エリスは呆れたように大声を出した。面と向かってエリスにバカと言われた万年は、あんぐりと口を開けたまま固まって両目を大きく見開いた。


「トップ官僚になるのに大学を首席合格するのが将来の目標なんだ。それで、あなたは官僚になって何がしたいの?」


 健吉の後ろに立っていたエリスは荒々しい足取りで万年に近付くと、その正面に立って万年の顔を睨み付けた。正面からエリスに睨まれた万年は戸惑った表情で、視線をあっちこっちへうろうろさせた。


「ま、まずは国家公務員一種の試験に受かることが先決だ。どの省に配属されるかは試験結果で決まるからな」


「ふうん」


 エリスは思い切り顰め面をしてから鼻で万年を嗤った。

 それは、林太郎が、初めて見る表情だった。


「ふ、ふうんとは、何事だ!きさま、俺の崇高な人生の目標を馬鹿にしてるなっ!」


「馬鹿にしているわけじゃいけど」


 エリスは大きな目を眇めて口をへの字に曲げた。これも林太郎が初めて見るものである。


「してるっ!ものすごーく、してるだろっ!じゃあ、聞くが、エリス・ワーゲルト、お前の将来の夢を聞かせてもらおうか?“将来はお金持ちのお嫁さん”とか言ってみろ、女だからって、容赦しないからな!」


 万年は額に青筋を立てながら怒鳴り散らした。

 激高し過ぎていて、今にもエリスに掴み掛りそうな勢いだ。

 エリスは万年に近づけていた顔をさっと離した。少し距離を取ると、表情を引き締めた。


 こんな表情も知らない。

 林太郎が恋していたベルリン時代の弱々しいエリスはどこにもいない。

 

 おうがいが言った通りだ。今、林太郎の目の前にいるのは、百三十二年前のエリスではない。

 

 それでも。


「私は、ユニセフで働きたい。とても貧しくて読み書きや計算を教えて貰えない子供達を救いたいの。それには、まず、ハーバードかイェール大学の法学部に進学して専門知識を学ぶ必要がある」


 林太郎はエリスの横顔から目を離せなかった。


 明確な意思を持ち、力強い眼光を放って将来を語るエリスは、あの頃よりも美しくて。


 そして、林太郎の胸の高鳴りは、あの時よりも大きくて。


「…ハーバードかイェール大の法学部」


 万年の体がくたりと路上に崩れ落ちた。


「負けた。それも、女に」


「亀ちゃん、歩行者の邪魔になるから歩道の真ん中にへたり込まないで。下校途中の小学生達が亀ちゃんを指差して笑っているよ。格好悪いから早く立ってよ」


 健吉が歩道に(うずくま)った万年を起こそうと、その背中を揺さぶった。だが万年は歩道に張り付いたまま動こうとしない。


「負けたのはそこじゃないだろう?ホント、お前は偏差値しか頭にないよな。それに女にって、何だよ。今の時代にそんな男性上位的な言葉使っている高校生って、お前くらいだぞ」 


「林太郎君ったら、追い打ちをかけるような事言わないでよ~。亀ちゃん、ますます蹲っちゃったじゃないかぁ」


 林太郎は万年を見た。

 本当に手足を甲羅に引っ込めた亀みたいになっている。その身が朽ち果てるまで歩道に丸くなっていろと言いたいところだが、健吉の手前そうもいかない。


「ほら、上田。早く立てよ。…お前、まさか、泣いているんじゃないだろうな?」


「ちがわいっ!」


 万年は首だけ持ち上げて、林太郎の言葉を否定した。   


「泣いてなんか、いないもんっ」



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