現実は厳しいのだ・後編
そういう訳で、林太郎はずっと前を向いたまま、エリスと一度も顔を合せなかった。
授業中はもちろん、休み時間から昼食から昼休み、掃除の時間にもエリスの顔を見ることも喋ることもなかった。
エリスの楽しそうな声の誘惑に負けて振り向こうものならば、そこには必ず真紀の後ろ姿があった。女子にしては筋肉質の背中と尻が、林太郎の椅子を動かないようにがっちりと固定しているのだ。
林太郎がトイレに行こうと席を立つ場合は椅子を後ろに引くのではなく、机を前に移動させないと席から離れられない事態になった。
かなり面倒だが、どうしようもない。
真紀は真紀なりの正義感で堀田達からエリスを守ろうとしての行動だ。あの性悪三人をどうにかしろとけしかけたのは林太郎自身だし、今更、真紀に何の文句が言えるだろう。
仕方がないので、林太郎は机の上に参考書や問題集を広げた。
勉強している振りをして、エリスの話に聞き耳を立てた。
放課後になると、会話はエリスのアメリカでのハイスクール生活の話題で盛り上がっていた。
セレブの子弟が通う私立高校の話は、テレビドラマで見るものと遜色ない。ドラマ大好きな健吉は元より、坂本、原田、真紀までが興奮気味にエリスを質問攻めにしている。
(お前ら早く部活行けよ)
林太郎は苛々しながら参考書を睨んでいだ。当然、一文字も目に入る筈もない。
「エリスってアメリカのどんな所に住んでたの?」
「カリフォルニア州ロサンゼルス郡にあるのマリブって市よ。海がとってもきれいなの」
「え―!そこって、映画によく出てくる街じゃん!」
(凄い!アメリカ屈指の超高級住宅地だ。本当にセレブなんだな)
「エリスは兄弟入るの?」
「一人っ子なの」
(俺と一緒だ。転生前も一人っ子同士だったよな♡ふふっ)
林太郎は一人でにやにやしながら会話を盗み聞きした。
「エリスちゃんって、アメリカに彼氏いるの?」
健吉がエリスにさらりと質問をした。
聞き捨てならぬ質問に、林太郎は右手に持っている安物のプラスチックのシャーペンを握りしめて、己の全神経をエリスの声に集中させた。
「日本に来るまでは、一応付き合っている人はいたけど」
エリスは日本でも有名な若手俳優の名前を口にした。
(か、彼氏いたの?!)
エリスの衝撃の告白に、林太郎は思わず大きく体を捩じって後ろを振り向いた。
その途端、真紀の、女のものとは思えない硬い尻に顔が埋まった。真紀は、牙を剥き出したライオンのような恐ろしい顔で林太郎を振り向いた。
「てめえ、何しやがる」
「いや、わざとじゃないんだ。事故みたいなもんで。大体、お前の男みたいな筋肉尻を誰が好き好んで触」
頭上に衝撃が走った。
三秒後、林太郎は自分が参考書と問題集の中に顔を横たえているのに気が付いた。真紀に頭を殴られて一瞬気を失ったらしい。その間もエリスの彼氏話は続いている。
「半年くらい前に友達宅のパーティで知り合ったんだけど、俺様だし気分屋だし、何より束縛が激しくて、本当に嫌になっちゃった。見た目と中身が全く違う典型のような人だったわ」
「あー分かる。そういう奴っているよなー」
真紀が意味ありげに含み笑いを漏らす。“そういう奴”が自分を指すのだと知って、腹を立てた林太郎はシャープペンシルを力一杯握りしめた。
バキッと音がして右の掌に激痛を感じた。
慌てて手を開くと、二つに折れたシャーペンの先が見事に掌の真ん中に垂直に突き立っている。
意外と深く突き刺さったようで、掌が見る間に出血で染まっていく。参考書の上にぼたぼたと派手に血が滴り落ちるのを呆然自失状態で暫し眺めてから、大きく息を吸い込んだ。
「きぃやぁぁぁぁぁ―――!」
林太郎は甲高い悲鳴を教室中に響かせた。
「森、災難続きだな」
健吉にすぐさま保健室に連れてこられた林太郎は、保健教諭の井坂茜に手当てを受けていた。
「はあ」
包帯でぐりぐり巻きになった自分の掌を眺めながら、林太郎はぼんやりと返事した。隣では健吉が涙目で「りんたろうくーん」を繰り返している。
「シャープペンシルで怪我したと思えないほど傷が深い。化膿したら大変だ。これは応急処置だから、ちゃんと病院に行って手当てしてもらいなさい」
「分かりました」
ふと、人の気配を感じて、林太郎は包帯の巻かれた手から顔を上げた。保健室の入口にエリスと真紀が立っている。
(エリス!)
心配して様子を見に来てくれたようだ。手の痛みが消滅するくらいに林太郎は歓喜した。
「健吉、俺、保健室で少し休んでから帰るから、ワイゲルトさんと一緒に帰って」
「え!林太郎君、そんな大怪我してるのに、一人で帰るつもり?大丈夫なの?」
健吉が酷く困惑した表情になる。
「ガキじゃないんだから大丈夫だよ」
「森の言う通りだ。相沢、もう帰りなさい」
それでも心配そうな顔で林太郎の周りをうろうろする健吉を、井坂は猫を追い払うように保健室から追い出した。静かに引き戸を閉めると、林太郎を向いてにっこりと微笑んだ。
「いい友達を持っているな。少し、いや、かなり過干渉ではあるが」
「はい。あいつには幼稚園の頃から世話になりっぱなしで。多分、ライフワーク化しているんだと思います」
十二年前、林太郎の父が交通事故で死んだ時、涙でぐしょぐしょになっている林太郎をぎゅっと抱きしめて、健吉は「僕が林太郎君のお父さんになってあげる」と叫んだのだった。
その後の経過を見ると、父親というより母親感がかなり強いのだが。
「結構出血したから、また貧血を起こすといけない。ベッドで休んでいなさい」
「はい」
林太郎は椅子から立ち上がるとベッドに向かって歩いて行った。
間仕切りのカーテンを閉めている最中に引き戸が荒々しく開いた。同時に数人がばたばたと入って来て、静かだった保健室が騒然とし始めた。サッカー部の生徒が部活の最中に大怪我をして担ぎ込まれて来たようだった。
どうやら足を骨折しているらしい。騒ぎを聞きつけて駆け込んできた他の教諭達に、井坂が早く救急車をと声を張るのを、林太郎はベッドの上で聞いていた。
「うう、くそ!区の大会が近いのに怪我するなんて。俺が不注意なばっかりに、みんなに迷惑かけてしまった。本当にすまない」
激痛を堪えながら涙声でメンバーに詫びを入れている部員に、他の部員が次々と励ましの言葉を掛けていく。
「お前が俺達に謝ることなんて一つもないからな!」
「折れた骨が足から飛び出しているんだぞ!こんな大怪我しているのに、悲鳴一つ上げないお前を俺達は誇りに思うぜ!」
「そうだ!大会は俺達に任せろ。お前の分までピッチを走り回ってやる」
薄いカーテンの隣で繰り広げられている青春はどうでもいい。
だが、シャーペンで怪我したくらいで死にそうな悲鳴を上げた自分が恥ずかしくなった林太郎は、健吉が持って来てくれていたバックパックを肩に掛けると、そっと保健室から出た。
「災難、続きか…」
林太郎は井坂の言葉を繰り返してみた。
確かに怒涛の三日間ではあった。
頭の中におうがいが現れたのは人生最大の災難だ。しかし、明治の林太郎が熱愛した恋人、エリスと再び出会えたのは運命としか言い表せず、これは人生最大の幸運である。
エリスがすぐ後ろの席に座っているのに話も出来ない今の状況は災難と言えるが。
一人とぼとぼと家路に向かう林太郎の前に、またしても万年が姿を現した。
「お前なあ、何なんだよ。昨日に続いて今日も俺の前に出没するとは。随分と隙してんだなあ」
手の怪我の事もあり、どうしても声を荒げてしまう林太郎だ。イラつく林太郎に困った顔をした万年が言った。
「いや、その、一昨日、きさまが教室でぶっ倒れたって相沢に聞いて、大丈夫なのかなあと思って、様子を見に来たんだけど」
万年は、二日前に倒れた林太郎の容態を、今日の午後になって心配してくれているらしい。
(どこまでズレまくっている奴なんだ)
林太郎は眉間に深い皺を寄せた。
「いや、それはもう大丈夫だから。俺さ、今日はこれ以上イライラしたくないんだよ。だから、上田。お前さ、とっとと、お家へ帰ってくれないかな?」
無意識に右手を上げてから、しまったと後悔しても遅かった。
案の定、林太郎の包帯ぐりぐり巻きの手を万年はものすごい形相で睨み付けていた。
「おい、森!その手、どうした?」
興味津々で聞いてくる万年に、林太郎は渋々答えた。
「シャーペンで、怪我した」
「シャーペンで怪我しただと!」
万年が苦しそうに顔を歪めた。
勿論、林太郎の怪我を心配してではない。爆笑を堪えての表情である。
「きさまの使っているのは百円のプラスチックのシャーペンだろ?それでどうやったらそんな包帯ぐりぐり巻きになる程の怪我をするんだ?」
「…折れて、刺さった」
「お、れ、て、刺さった、だと?!」
万年はひくひくと頬を震わせた。
こいつが腹を抱えて笑い出すのと、俺の足蹴りが飛び出すのはどっちが早いかと林太郎は考えた。
「あれ、林太郎君。まだ帰っていなかったの?」
昨日とほぼ同じタイミングで、林太郎の後ろに健吉とエリスが立っていた。




