現実は厳しいのだ・前編
朝の登校時、「林太郎くーん」と林太郎の後ろから駆け寄ってくるのは、毎度お馴染み相沢健吉である。
彼、相沢健吉は、明治の林太郎が若かりし頃の友人、相沢謙吉の生まれ変わりである。健吉自身はそれを(羨ましいことに)全く記憶していない。
健吉に転生する前の相沢謙吉は、頭が切れて行動力もあり、貴族議員秘書としてかなりやり手の人物であった。
天方伯の秘書を辞めて郷里に帰った後、知事として故郷の発展に努めたようであるが、そこら辺の記憶は林太郎には定かではない。
面倒見の良いところだけは変わらないのだが、優秀な部分は健吉として転生する前にどこかに全部落としてきたようで、今は全くの別人になっている。
健吉は朝から不機嫌な顔をしている林太郎にお構いなしでべちゃくちゃと喋り出した。
「おはよう、林太郎君。今日から衣替えだね!」
「ああ、そうだな」
「林太郎君って、いつもシャツをスラックスにインしているよね。暑くないの?」
「お前こそ、シャツを全面的に出してるのって、どうなんだ?だらしないと思わないのか」
「学校の男子生徒でシャツをインしているのって、少数派だよ?誰も僕をだらしないなんて思わないから大丈夫だよ」
「左様でございますか」
慇懃に返事する林太郎の苦虫を潰したような表情をちらりと見てから、健吉は話題をいつものアイドルの話に移した。
朝、調子が悪くて不貞腐れている林太郎というのを嫌という程見てきている健吉だから、このくらいは通常範囲である。
林太郎が朝から不機嫌な顔をしているのには理由があった。
昨日の夕方、息子の異常行動を目の当たりにした恵子に、再び病院に連れて行かれそうになったのだ。
林太郎が得意とする口から出まかせが再び功を成して、騒ぎは無事に収まったのだが、今度は就寝しようとする林太郎に、おうがいが約束の秘蔵ファイルを見せろと騒ぎ出した。
((おい、林太郎!余との約束はどうなった。まさか、反故にするつもりではあるまいな?))
「しないよ。だけど、今日はもう疲れているからこのまま寝させてくれ。明日必ず見せるから」
((ううむ。その言葉、信じられぬ。もしやお前、余を、己自身を謀ったのか?!))
「だからぁ、明日見せるって言ってるだろうがっ!お前こそ自分自身を疑うのかよ?」
((己自身を熟知してるが故だ!林太郎、今すぐ秘蔵ファイルを見せろ。見せるのだ!))
という知性の欠片もないやり取りを、おうがいが諦めるまで延々と繰り返していた。
頭の中の駄々声が聞こえなくなったのは深夜三時を回ってからだ。
疲弊し切った林太郎が気を失うように眠りに落ちたのは、その直後である。
(エリスとの思い出に浸っている時は、天国にいる気分だったのにな)
昨日、ベルリンでのエリスとの回想に浸った林太郎だったが、現実という今日、体は怠く学校へと進む足取りは重い。
単に寝不足というのもあるが、林太郎にとってはそれ以上に精神的なショックが大きかった。
それが何かと端的に言ってしまえば、ベルリン時代を生きていた林太郎の理想のエリスと、現代っ子エリスの性格の違いである。
恥ずかしい伏字を事も無げに口にしたエリスは、林太郎の覚えている転生前の片鱗もない。
恐らく、転生前の相沢謙吉と転生後の相沢健吉よりも、もっと別人になっているだろう。
それよりもっとショックなのは、堀田の恫喝のせいで健吉や坂本、原田、それから真紀とエリスが仲良く喋っている輪に自分が未だに加われていないことだ。
(何で、こうなっちゃったのかなあ…)
ずるずると歩いているうちに校門前まで来た。
去年だったら、衣替えでブラウス一枚になった女子生徒のスリーサイズの測り直しの為に忙し気に目を動かしている林太郎だが、今回はそんな気力もない。
自分の周りに集まってくる女子にいつもの笑顔を向けるのが精一杯である。
エリスが登校して来るのが目の端に映った。
その後ろに男子生徒が列を成しているのに林太郎は目を剥いた。
金髪碧眼が物珍しいのもあるだろうが、絶世の美少女が自分の学校の制服を着て校内を歩いているのだ。生きた人間を見つけたゾンビの如く男子生徒がエリスににじり寄って行くのは、本能だけになったゾンビの習性と一緒である。
男子の群れの中からルックスに自信がある奴が、さり気なくエリスの両脇に陣取っている。
(エリスの周りから散れ!散るのだ!この、有象無象どもめらがあっっ!)
嫉妬で気が狂いそうになった林太郎が我を忘れて金切り声を上げようとした刹那、エリスが足を止めて林太郎を見た。
「あ」
林太郎も目を見開いてエリスを見た。
視線が交わり合ったのは一瞬で、エリスはすぐに林太郎から少し離れて立っている健吉の顔へと瞳を移動させた。
「おはよう、健吉君」
「あ、おはよう。エリスちゃん」
エリスはそのまま健吉の元へと足を速めた。
「健吉君、一緒に教室に行って欲しいんだけど、いいかな?」
エリスの言葉で、林太郎は昨日の教室での一件をすぐさま思い出した。
(堀田と木野川、吉沢の三人が、またエリスに嫌がらせを仕掛けてくるかも知れない)
健吉は女子に取り囲まれている林太郎を見た。林太郎が頷くのを見て、その意図を察したらしい。
いいよと言って、エリスと並んで歩き出した。林太郎はほっとして二人を昇降口まで見送っていたが、重大な事に気が付いた。
(あれ?エリス、俺にはおはよう言ってくれなかった)
二人から遅れて教室に入った林太郎は、思い描いた事態が杞憂だったことにほっと胸を撫で下ろした。
エリスは昨日と同じように坂本や健吉、生田真紀と楽しそうにお喋りしていた。そこに原田と岩崎も加わって随分賑やかになっている。
(女子生徒が生田だけというのが少し気になるが、まあ、良しとしよう)
林太郎が自分の席に座ってエリスを中心とした談笑の輪に入ろうとさり気なく後ろを振り向いた途端、真紀に腕を掴まれた。
「森、ちょっといいか?」
真紀は林太郎を椅子から立ち上がらせると、廊下に出るように合図した。林太郎が先に廊下に出ると、後から真紀がやって来た。教室から離れた場所に移動すると、真紀がおもむろに口を開いた。
「お前さ、今、エリスと喋ろうとしただろ?」
真紀の睨み付ける顔があまりにも怖いので、林太郎はしどろもどろになって返事をした。
「う、うん。まあ」
「馬鹿か、お前」
自分の基準からすると、学業評価がCマイナスである真紀に馬鹿呼ばわりされた林太郎は「は?」と言って、体ごと首を傾げた。
「お前がエリスと仲良さそうに話なんかしたら、堀田の連中が嫉妬してエリスをいじめに掛かるだろ?だから、エリスとは喋るな。仲良くするな。分かったか」
「ええっ、そんなぁ。俺だってワイゲルトさんとお喋りしてみたいよう」
林太郎が絞り出した悲痛な声に、真紀が眉を吊り上げた。
「エリスの身の安全の為だ。絶対に口を聞くんじゃないからな。お前の周りにはいつも女子が群れているんだ。エリス一人くらいと喋らなくたってどうってことないだろ」
そう言い捨てると真紀は教室に戻って行った。
一人取り残された林太郎は、壁に背を付けてずるずると廊下に尻を付いた。
「ふえーん」
誰もいない廊下の片隅で、林太郎はさめざめと泣いた。




