追憶2
――どうかお金を貸して下さい。少ない給金しかもらっていませんが、そこからお金は返します。自分の食事を抜いてでも絶対返済しますから――
涙ぐみながら上目遣いで懇願する美しい少女に、誰が嫌と言えようか。
当然の如く、林太郎は隠しポケットから二、三マルクの銀貨を取り出したのだった。
葬式の費用には足りないだろうと、懐中時計を出して質に入れるように言って、机の上に置いた。
「別れ際、差し出した俺の右手にエリスは両手をそっと添えた。それから…」
林太郎はでれでれと照れた笑みを顔一面に浮かべた。
「ありがとうって、柔らかな唇を押し当てて、暫らく離さなかった。俺の手の甲に落ちるエリスの涙が熱かったっけ…」
恍惚とした表情で上を見上げ、林太郎は百年以上前の回想に浸っている。
その胡乱な視線は窓の外の青い空から天井に移動していたが、焦点は合っていない。
こいつはどれだけだらしなく緩んだ表情をしているのであろうかと、おうがいが呆れていると、林太郎が急に改まった声を出した。
「あのですね、おうがい君。ちょっと、お聞きたいことがあるんですけど」
((…何だ?))
突然丁寧になった林太郎の口調に、おうがいは用心深げに身構えた。
「エリスとの記憶がここで途切れているんだけど、どうしてかな。最初の頃は、お前の子供の頃の記憶だって頻繁に甦っていたんだぜ。なのに今はさっぱり思い出せないんだ。これって、あんたが記憶を操作しているからだよね?」
((ほほう、もう気付いたか。さすがは林太郎、余の生まれ変わりだけのことはあって賢いのう))
「猫でも分かるわ!」
林太郎はソファから飛び起きて、テーブルを片足で踏み鳴らしながら喚き散らした。
「褒めて話を逸らそうったって、そうはいかないからな。おうがい!何でお前、俺から転生前の記憶をシャットアウトしてんだよ」
((何でだと?お前は余が派生した時に、生まれ変わる前の記憶なんかいらないと叫んだではないか))
ここぞとばかりに、おうがいが勝ち誇ったように言い放った。
今頃になっておうがいに言葉尻を捕えられて、何も言い返せない林太郎は悔し気にぐううと唸るばかりである。その様子を、おうがいは林太郎の内部から愉快そうに眺めて含み笑いを漏らしていた。
減らず口の言い争いに勝敗があるのなら、今回はおおがいの勝ちである。
「確かにあの時、俺はパニック起こしていたからな。おうがい君に酷いこと言ったと思う。謝るよ。謝るからさ、だからその」
林太郎は顔を赤らめながら頭を下げた。
「ベルリンでのエリスとの記憶を、もう少し見せてくれないかな。お願いします」
林太郎の殊勝な物言いに、おうがいも嫌とは言えなかった。学校では女子に囲まれて如才なく笑顔を振りまいている林太郎だが、中身はただの奥手な少年だ。
それも幼児期、積極的な女児に振り回わされっぱなしだったのがトラウマとなり、女性恐怖症の気がある。
そんな林太郎にとって、大人しく清楚で美しいエリスは恋愛対象として絶対的なものなのだ。
((学校では多くの女子に持て囃されているイケメンであるのに、哀れよのう))
おうがいは林太郎に聞こえないように呟いてから、((承知した))と威厳に満ちた声で頷いた。
「え、本当?やったぁ、ありがとう、おうがい君!」
無邪気に目を輝かせて喜ぶ林太郎に、おうがいは林太郎の脳内でちっちと舌を鳴らして人差し指を振った。
((とっておきの記憶を見せてやってもいいが、それには余の条件を飲むことが先決だ))
「取引ってか。転生後の自分自身に記憶をタダでは見せないとは、恐ろしいほど強欲なジジイだぜ。で、その条件って何だ?言ってみろよ」
顔を歪めて忌々しそうに吐き捨てる林太郎にお構いなしで、おうがいは惚けた声でおねだりを始めた。
((お主、上田万年の兄の秘蔵ファイル画像を自分のUSBメモリに入れて大切に保存しているのだろう?それを余に見せてくれ))
「…お前、聞いていたんだな。このエロジジイが」
((余はお前であるからな。エロガキが長い年月を経てエロジジイになっただけだ))
「くっ…」
林太郎は悔し気に唸ったが、口の達者なおうがいに何も言い返すことはできなかった。
「分かったよ。後でファイル画像を見せてやるから、先にエリスとのデートシーンの記憶を出してくれ」
((うむ。では、林太郎、集中せよ。目を瞑って己の頭に気をやるのだ))
おうがいに言われた通り、林太郎は目を閉じて自分の頭に集中した。
官仕勤めの傍ら大学に通い勉学に励む多忙な日常を送っていた林太郎(小説の中での話です。実際の鷗外は遊び惚けていたようですが)の休日は、ショーペンハウエルやシラーを熟読する日々であった。
それが、父の葬儀の礼をと、エリスが林太郎の住む官舎に訪れれた瞬間から事態は一変した。
男一人が住む殺伐とした部屋にエリスが入って来た途端に、林太郎自身も驚くほどに明るくなったのである。
淑女ならば、独身男性の部屋に単身で足を踏み入れることなど決してないだろう。
悲しいかな、貧しく育ったエリスはそのような教育は受けていない。
その無邪気さが返ってエリスの無垢な美しさを引き立たせ、林太郎は目を細めながら美しい少女を一心に眺めていたのであった。
エリスは林太郎の部屋を物珍しそうに見回していたが、書物が積み重なった棚やテーブルに目を止めると、林太郎に尋ねた。
「林太郎、この本、全部読んだの?」
「そうだね。大体は、読破したかな」
「すごい!」
エリスは大きな目を更にぱっちりと開いて、林太郎を見つめた。
「字を読むのは得意ではないけれど、私も本が大好きなの。貸本屋で借りて読んでるわ」
エリスは嬉しそうな顔をして、林太郎であれば決して手に取ることはないであろう大衆小説の名を上げた。
林太郎は、目の前の少女が陽の差す窓辺でゲーテやシラーの叙情詩を読み耽る姿を、頭に思い描いてみた。
それは、どれほど美しい光景だろう。
「君に読ませたい詩集があるんだ」
林太郎は緑に染色された革で装丁されてある本を手に取ってエリスに見せた。その本を見るなり、エリスは小さく首を傾げて困ったように微笑んだ。
「私、その、あんまり字が読めないの。だから…」
「僕が教えてあげるよ」
林太郎は、自分がドイツ語習得に使っていた比較的読みやすい本を選んでエリスに手渡した。
「最初は難しくない単語から始めればいい。すぐに覚えられるさ」
エリスは林太郎から渡された本を開き、たどたどしい口調で読み始めた。
だが、すぐに窮して口を閉じるのを、林太郎が綺麗な発音を聞かせながら一つ一つ教えていく。
頬を薄紅色に染めながら、エリスが尊敬の眼差しで林太郎を見つめた。
「林太郎は、この国の本の文字を全部読み書き出来るの?東の遠い異国から来た人なのに」
「ああ。でなきゃ、国の代表としてヨーロッパ随一の先進国であるドイツに留学出来ないからね」
「まあ!林太郎って、とっても優秀なのね」
エリスは林太郎を見つめたまま感嘆の声を上げた。その、きらきらの瞳は林太郎から離れることはない。この瞬間、林太郎は十七歳の美少女が自分に恋心を抱いてるとの確信を得た。
そんな林太郎は、一目見た時からエリスの恋の虜になっていたのだが。
「林太郎様ったら、とっても優秀な方なのね♡」
「いやあ、大したことないよ。まあ、日本を代表する頭脳であることは確かだけれどね」
「いやーん。エリス、頭の良い人だーい好き♡ちゅっ」
「やめなさいエリス。まだお勉強の途中でしょ?もう、だめだってば。あ、あ、こら♡」
大抵の場合、優等生は自分の頭脳を可愛い女子に崇められるのを無上の喜びとする。林太郎も例外ではない。
秘蔵ファイルの確約を反故にされては大変とばかりに、おうがいが無責任にデフォルメした思い出に脳内を著しく侵食された林太郎は、ソファの上で体をうごうごとくねらせながら、力いっぱい抱きしめたクッションに激しく接吻を繰り返した。
「…林太郎、昨日から普通じゃないんだけれど、ホントに大丈夫?」
息子の体調を心配して早めに帰宅した恵子が、リビングのドアの前で立ち竦んでいるのに林太郎が気が付いたのは、それから間もなくの事である。




