朝の林太郎
「どあっっ!!」
森林太郎は野太い悲鳴を上げてベッドから飛び起きた。
はぁはぁと肩で息をしながら左右に激しく首を振って、辺りを見回した。
最初に目に飛び込んできたのは、年季が入って薄く変色した壁紙だった。それから水色のカーテンと、小学生の頃から使っている学習机に、参考書の詰まった本棚。床には学校指定の黒いバックパックが転がっている。
どこを見ても、見慣れた自分の部屋だ。林太郎は腕を伸ばすと、ベッド脇の小さなラックの上で甲高い音を立てている目覚まし時計のスイッチを切った。
額に噴き出た汗を手で拭ってみると、手の甲がずるりと横に滑っていった。
寝汗などと言う可愛いものではない。滝のような汗が林太郎の全身から吹き出ていた。パジャマの上が胸の上までたくし上げられ、ズボンは下着共々腰骨の下にまでずり落ちている。布団もシーツも、脱水機にでも掛けられたように捩じれてくしゃくしゃだ。
林太郎は、自分が寝ている間、いつも以上にベッドの上でのた打ち回っていたのだと理解した。
それもそのはず。
「何で俺が、死ぬ夢なんか見きゃならんのだ!それもジジイになって!」
忌々し気に吐き捨ててから、林太郎はベッドから起き上がった。荒々しくドアを開けて廊下に出ると、脱衣所を兼ねた洗面所に直行した。
寝ぐせでヤマアラシのように逆立った髪と、起きむくれの不機嫌な表情が洗面所の鏡に映る。洗濯機にパジャマを投げ入れて風呂場に入ると、シャワーの栓を捻った。
頭からお湯をかけているうちに次第に生体リズムが整ってくる。
すっきりした表情で風呂場から出て来た林太郎は、体を素早くタオルで拭くと髪をセットし、新しい下着を着けた。
それから急いで部屋に戻り、昨日の間にきちんとプレスした制服のズボンを履き上着に袖を通した。最後にネクタイを締めると、起き抜け直後とは別人のようにきりっとした身なりになった。
そう。これこそが、誰もがよく知る林太郎の姿だ。
林太郎はリビングのドアを開けた。
母と二人で暮らしている二十平米のマンションだ。リビングの隣に ある六畳の部屋の襖は開いていて、布団が部屋の隅に畳んであるのが見える。
リビングと繋がっている狭いダイニングの小さなテーブルに、林太郎の朝食と昼に食べる弁当が用意されていた。
林太郎の母はシングルマザーだ。今頃は満員電車に揺られて、会社に向かっている頃だろう。
苺ジャムをこってりと塗った食パンと一緒に目玉焼きを頬張りながら、林太郎は牛乳の入ったマグカップの脇にあるメモに目を通した。
―おはよう。気をつけて行ってらっしゃい―
いつもの文言の後に、燃えないゴミ出しておいてとの、走り書きがある。
朝食を食べ終えた皿をシンクで洗い、再び洗面所に行って歯を磨いてから自分の部屋に戻る。今日の授業に使う教科書と参考書の忘れ物がないかチェックすると、バックパックを背負った。
玄関脇に置いてある燃えないゴミが入ったビニール袋を手に持ち、扉の鍵をかけると、林太郎はマンションの階段を駆け下りた。
エレベーター付きの七階建てマンションだが、何せ三十年近い築年数が経っている。
建築年数とほぼ同じ年代のエレベーターはボタンを押しても反応が遅い。住んでいるのは三階なので、高校生の林太郎には階段の上り下りなど造作もない。
それに、ゴミ置き場に直行するには、マンションの中央部分に設置されているエレベーターより階段で降りた方が三分は速いのだ。
林太郎は歩いて学校に通っている。
電車やバス通学程ではないにしろ、朝の三分というのは、遅刻しない程度に教室に滑り込む学生にとっては大変貴重なものである。
ゴミ置き場の不燃物入れにビニール袋を放り込むと、林太郎は、駅の反対方向に建っている学校に向かって大股で歩き始めた。
近年、林太郎の住んでいる街は、再開発が進んでいる。屋根瓦の古い大きな家が取り壊されると、狭い敷地に分割されて、小さな新築住宅になって建ち並ぶ。
洒落た作りの家ばかりが目に入る中、年季の入った昭和様式の八百屋や文房具店、駄菓子屋などの商店がひょっこりと顔を出すのが、ご愛嬌と言ったところか。
アスファルトで固められた通りは電柱が多く、車道は車がすれ違うのにぎりぎりの幅で、歩道もそんなに広くない。
信号がないのをいいことに、大通りの抜け道に使う車が飛ばしてくることもある。
そんな道も、通学時間帯には車は進入禁止となるので、高校に通う学生で少なからず溢れていた。
「林太郎く―ん!」
名前を呼ばれて、林太郎は後ろを振り返った。