万年と書いてかずとし登場
上田万年。
彼は明治時代、話し言葉の発音と文字を同じとする言文一致に尽力した言語学者だ。
江戸時代、地方の方言や身分階級などでばらばらに使っていた言語を統一し、近代日本語の基礎を作った。共通語になった日本語を国民全てが話せるようになったのは、上田の功績といっていい。(本当は弟子が作ったという噂あり)
林太郎はこの男が嫌いだった。
その頃の林太郎は文語体を使用して小説を書いていた。
上田の作った標準語が世に広まれば、自分が書い小説など誰も読まなくなってしまう。
それに腹を立てた林太郎は上田に徹底的に議論を吹っ掛けた挙句に、岡田良平という文部官僚をけしかけて「言文一致の文章なんか教科書に載せちゃダメ」運動を起こした。
林太郎の思惑通りに明治の尋常小学校の教科書は旧仮名遣いに決まったが、歴史を見れば、上田万年と森鷗外の勝敗は明らかである。
(こいつも俺と同時代に生まれ変わっていたとはな。全く皮肉な巡り会わせもあるもんだ)
万年も健吉と同じく転生前のことは全く覚えていない。
だが、明治時代の林太郎に対する遺恨は彼の魂に深く刻みつけられてしまったようである。
現代に転生した万年が無意識であっても、仕返しとばかりに林太郎に喧嘩腰で突っかかってくるのも頷ける。
(くそ、おうがいめ。おまえのせいで、俺は上田の奴にうるさく絡まれることになったんだぞ!)
林太郎が頭の中で怒ってみたが、おうがいが現れる気配はない。
「きさま、何を口の中でぶつぶつ言っているのだ?気持ち悪いぞ」
(げ。こいつ読唇術でも身に着けているのか?)
林太郎は訝し気な表情で自分を睨む万年から数歩後退りすると、声を上げて質問した。
「上田、お前は俺に何か言いたい事があって、電柱の陰になんか隠れて俺を待ち構えていたんだろう?用件を言えよ」
「えっ。あ、ああ。そうだな…」
何故か万年は口籠って視線をアスファルトに落としてもじもじし出した。
林太郎がその不可解な行動に眉を顰めて見つめていると、おもむろに顔を上げて林太郎の鼻の付け根あたりを指差した。
「森林太郎!帝峰学園に転入して来い!」
(また始まった)
林太郎は万年の指先を眺めながら小さな溜息を吐いた。
帝峰には万年を構ってくれる心優しい友人がいないのだろう。それが寂しくて捨て犬のように林太郎に寄ってくるのだろうが、いかんせんこの横暴な態度である。
プライドもチョモランマ並みに高いから、万年から岨野山田に転入してくることはあり得ない。
「きさまはT大の理三を目指しているのだろう?俺は文一を目指している。学部は違うが、目指すは同じ大学だ。受験科目全てで一位の成績を取るのが俺の目標だ。いいか、森林太郎!俺はT大に首席で合格して、きさまから受けた雪辱を必ず果たす!」
喋っているうちに自分の言葉に酔ってきたようだ。
万年は林太郎の顔の前で唾を飛ばしながら、大声を張り上げた。家に帰ったらクレンジングフォームで丁寧に洗顔しようと林太郎は思った。
「進学校として微妙な位置にある岨野山田の授業では、受験環境が整っている帝峰との学力の差が広がるばかりだぞ。きさまの成績が降下していくのを見るのは忍びない。それに…」
「それに、何だよ?」
「ライバルが近くにいないと、どうも勉学に対する俺のモチベーションが今一つ上がらんのだ。という訳で、森林太郎、きさまは早く帝峰に編入してこい!」
「お前なぁ、いい加減にしろよ」
林太郎はうんざりした表情で言った。
「母子家庭の俺ん家に私立に通うだけの余裕があると思うのか?帝峰は年間の授業料が百万は下らないと聞いてるぜ。そんな金ないよ。無理に決まっているだろうが」
「で、でも、お前の成績なら学費免除で入れるはずだぞ。だったら…」
「やだね」
林太郎は万年の言葉をさっさと遮った。
「学費だけじゃない。公立だって制服や体操着とかに結構金が掛かるじゃないか。私立の、特に帝峰の制服は一流ブランド製品だからバカ高い。それだけじゃない。鞄や靴、靴下、ハンカチ、筆箱に至るまで、あらゆるものが学校指定なんだろう?」
「…うん」
「ほら見ろ。なんやかんやと金を巻き上げるシステムになっている。俺はお前みたいなお坊ちゃんじゃないんだ。勝手なこと言うな」
「……」
万年もそうだが、帝峰に在籍する学生の殆んどが金持ちや名士の子息だ。
偏差値以上に、普通の家庭の経済力ではおいそれとは入れる学校ではない。
万年はしょんぼりと肩を落とてうなだれた。林太郎は腕を組み首を横に曲げて万年の顔を覗き込んだ。
(こいつも家で色々とあって大変だとは思うがな。だからって、そのストレスが俺に向かってくるのは迷惑この上ない)
繰り返しになるが、上田の家は曾祖父、祖父、父と三代続く官僚一家である。
曾祖父と祖父は事務次官まで勤め上げた高級官僚であり、婿養子である万年の父も課長クラスで必死に頑張っているという。
祖母の実家も一族から高級官僚を輩出していて、見事な「上田家官僚系図」の一番下に万年が名を連ねるべく存在しているのである。
最初、万年の兄に期待を寄せていた祖父母と両親だったが、万年の兄の偏差値は上田一家が期待する程には伸びなかった。
そこで、万年が七歳年下の万年が兄に代わって、上田家四代目としての期待を一身に背負う事になったのである。
帝峰でトップの学業成績を収めているのもあって、祖父母と両親の期待はうなぎ上りで、彼が日々受ける重圧は計り知れない。
いつもの林太郎であれば、ここら辺で万年との会話を強制終了して家に帰るだろう。
しかし、林太郎は今、頭の中に突然現れて林太郎の精神を無茶苦茶にした挙句に未だ惰眠を貪っているおうがいと、美しさのあまり堀田に目を付けられてしまったエリスが心配で、イライラがマックス状態だ。
「金の件だけじゃない。俺が帝峰に行かない理由は他にある」
林太郎は万年と同じように、右腕を肩の高さにまっすぐに上げて、彼の目の前に指を突き立てた。
「俺は、お前の兄ちゃんのようになりたくないからだ!」
「俺の兄のようになりたくないだと?」
困惑した表情で自分の言葉を復唱する万年に、林太郎は高らかに宣言した。
「そうだ。お前の兄貴は中学から帝峰に通っていたよな。六年間、ほぼ男だけ。それで、お前の兄はどうなったと思う?」
林太郎の質問に万年は苦笑しながら頭を掻いた。
「いやぁ―、兄貴と俺は七歳も歳が離れているからな。あんまり一緒に喋ったり遊んだりした記憶がなくってさ。どうなったって言われても…」
「ならば、俺が、教えてやろう」
林太郎は万年の顔を睨みつけながら、指を彼の目の前でくるくると回した。
「六年間男子校に通った挙句に、大学も男だらけの工学部の機械科だ。そうでなくてもお前の兄ちゃんはかなり奥手だから、女子とお付き合いする機会がなかった。高校生時に死ぬほど憧れていた大学のコンパでも、緊張し過ぎて隣に座った女子学生に声を掛けることも出来ない。自分の席に蹲ってノンアル飲料をちびちび啜っているうちに、隣の女子も他の子も、イケている男子達とさっさと二次会に行ってしまった」
「…見てきたように話すけど、お前、大学のコンパに俺の兄貴と一緒に出た事あるの?」
万年の質問にはノーコメントで林太郎は話を続けた。
「と、言うわけで、女子とうまくお付き合い出来ないお前の兄だが、女性への興味は人一倍、否、十倍はあった。そんな哀れな青年の前に救世主が現れるのは時間の問題だった」
「救世主?」
「パソコンのエロサイトだ」
林太郎は厳かな表情で万年に告げた。
万年は激しく衝撃を受けた表情で林太郎を凝視した。
「だっ!お前、もしかしてっ、あ、あれ、見ちゃったの?」
「うん。見ちゃった」
真っ赤になって慌てふためく万年に、林太郎は勝ち誇ったように口角を上げた。




