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回想・出会い

 「健吉?!」


 林太郎が後ろを振り向くと、健吉は自分の席から離れて坂本の机に寄り掛かり、エリスと楽しそうに話していた。

 健吉の隣には何と原田までいて、ちゃっかり会話に混じっている。その様子を坂本がにこにこしながら頬杖を付いて眺めていた。エリスも楽しそうに微笑んで流暢な日本語で彼らと話している。


(えええ!何この、超和やかな雰囲気!これじゃあ)


 林太郎が会話に入り込む隙はまるでない。

 無理やり入ったら最後、途端に場が白けて、林太郎はKY(空気を読めない奴)のレッテルを張られてしまう。


「うぬぬぬっ」


 林太郎は羨望に肩を震わせて四人を眺めるばかりであった。無情にも授業開始のベルが鳴る。健吉は林太郎の目の前でエリスに小さく手を振ると、自分の席に戻った。


「け、ん、き、ちぃぃ~」


 恨めしそうな声を出すと、健吉はにっこりと笑って「あ、ごめん。うるさかった?」

などと、勘違いも甚だしい言葉を返してくる。


 引き戸が開いて派手なワンピース着た女性教諭がテキストを抱えて入って来た。一時間目は英語である。


(くそ、完全に出遅れた)


 林太郎は苛々しながら、教卓の上で教科書を開く教諭の富永小百合を眺めた。


(富永小百合。五十二歳。ベテラン英語教師。身長百五十八、バスト、ウエスト、ヒップ全て百センチ。体重は八十キロを超えている模様。人間とは思えないドラム缶のような体形が、半世紀の間にどうやって形成されていったのかは不明。あの巨大なムームーワンピを何処で入手しているのかも不明だが、一般流通品でないことは百パーセント確実。既婚者。二人の娘あり。うむむ…。いつもの癖で、とんでもないものを測定してしまった。分類統計外物件の為、総合評価は行わず)


「さあて、授業を始めるわよ。教科書は十七ページを開いてね」


 教壇の上に立った富永教諭は、声を張り上げてクラスの生徒を見渡した。


「そういえば、このクラスにはアメリカからの転校生が来たのよね。エリス・ワイゲルトさん、クラスの皆にネイティブな発音を聞かせて頂戴」  


 エリスは静かに立ち上がると教科書をゆっくりと読み始めた。穏やかで美しい声だった。


 初めてこの声を耳にした時の事は忘れられない。

 

 何故って、エリスは泣いていたから。


 林太郎は頬杖を付いて教科書に目を落としながら、エリスとの初めての出会った場面を回想し始めた。




 

 「どうして泣いているの?」


 極度の人見知りの林太郎が、しくしくと泣いていた見知らぬ少女に声を掛けてしまったのは、その姿が、あまりにも可憐で美しかったから。


 突然、現れた黒い髪と瞳の異邦人に驚いて顔を上げた少女の背に、一瞬、純白の両翼が見えた林太郎は、思わず息を飲んだのだった。


(天使…)


 林太郎は口の中で呟いた。それほど少女は美しかった。


 歳は十六、七くらい。簡素だが清潔な衣服を身に着けた少女が、体を震わせて泣き崩れている。


「困っていることがあるなら、私に言ってごらん。力になるよ」


 人見知りを自認しているくせに、よくもまあ、そんな大胆な事が言えたものだ。いや、大胆などではない。林太郎が単に美人に弱かっただけである。


「貴方は優しい人なのね?私の母のように酷いことはしないわよね?」


 少女が顔を上げた。泣き濡れた大きな青い瞳が瞬きする。その目から再び涙が溢れ出た。


「父さんが死んでしまったの。だけど家は貧しくて、お葬式を出せるお金がない。母さんは私がお金を工面出来ないからって、怒って叩くし…。もう、どうしたらいいか分からない」


 言い終えると少女はまた泣き出した。


 俯いた拍子に長い金髪がさらりと落ちて震えるうなじが露わになる。少女の美しい白いうなじに林太郎の目は釘付けになった。自分の喉がごくりとなる音が頭の中に響く。


「家に送ってあげるから、気持ちを落ち着けて。ここは人の往来が多いから、泣いている声がみんなに聞こえちゃうよ」


 家庭の事情を林太郎に説明しているうちに、再度泣き出した少女の体が自分に向かって傾いできたのをいいことに、林太郎は己の肩を少女にそっと寄せた。


 そこは小説には書いていない。

 書けばただのスケベな男の話になってしまう。情緒も何もあったものではない。

 自分から林太郎の肩に寄り掛かったと勘違いした少女は、顔を上げて恥ずかしそうに林太郎から離れた。


 人に見られるのが嫌で、林太郎は少女の後を足早に付いて行った。

 

 寺院の筋向いにある古びた建物の大扉を開けて中に入ると、あちこちが欠けている古い石階段がある。それを使って四階まで登ると、腰を屈めなければ入れない小さな扉があった。

 

 少女は錆びた呼び鈴の引き金を掴むと強く引いた。

 

 家の中から「誰だい?」と年を取った女の皺枯れ声が聞こえてくる。


「母さん、エリスよ。今、帰ったわ」

 

 林太郎はその時初めて、少女の名を知ったのだった。





 チャイムの音が聞こえてきて、林太郎は目を開けた。


(あ、あれ?)


 顔を教科書から持ち上げると、授業を終えた富永に礼をしようとクラスの生徒が椅子から立ち上がり始めている最中だった。

 林太郎は音を立てずに椅子を引いて立ち上がり、富永に向かって頭を下げた。これなら数秒遅れでも目立つ事はない。

 

 椅子に腰を下ろした林太郎はぼんやりと黒板を眺めた。黒板にチョークで書かれた英文と文法を、当番の生徒がせっせと腕を動かして黒板消しで消している。


(…もしかして俺、居眠りしてた?)


 居眠りどころではない。授業の始めから終わりまでの記憶がないのだから、熟睡していたと言っていいだろう。

 それにしても、小一時間の間、頬杖を付いた林太郎の格好を富永が気付かれなかったとは。何とも器用に寝ていたものだ。


(昨日の騒動でかなり疲れていたからな。おうがいの奴もまだ眠っているみたいだ。あいつは死にかけのじじいだから、俺よりもずっと疲労が激しいのだろう)


 二時間目は日本史、三時間目は古典の授業だ。林太郎ならぶっ通しで居眠りしても構わない科目である。四時間目は物理で五時間目は習字、美術、音楽の三教科からの選択になる。


 絵を描くのも習字も苦手な林太郎は消去法で音楽を選択した。有難いことに、あまりやる気のない教師だから、CDを掛けての音楽鑑賞がメインになる。


 英語の教科書を片付けていると、朝のホームルーム前に林太郎を取り巻いた女子のうちの三人がこちらにやって来た。 


 堀田怜奈(ほったれいな)木野(きの)(かわ)アヤメ、それと吉沢(よしざわ)(みず)()だ。

 彼女達は堀田を筆頭とした二年三組女子カースト上位三人衆である。そこそこの美人ではあるが、とにかく気が強い。林太郎が一番苦手とするタイプだが、本人達はまるで気付いていない。


 堀田は、林太郎に熱っぽい流し目を送りながらその机の脇を通り過ぎて、エリスの席の前で足を止めた。木野川と吉沢がそれに続く。


 三人は机を取り囲むようにして、座っているエリスを見下ろした。


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