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会話の手順


 今日も朝から青い空が広がっている。


 四季の中で林太郎はこの季節が一番好きだった。

 スギばかりかヒノキにまで反応し始めた花粉症の苦しい季節から、ようやく解放されるのだ。頭も体もすっきり爽やか、スキップして学校に通ってもいいくらいだというのに。

 初夏の太陽の光が燦々と注ぐ中、林太郎は重い足を引き摺るようにして、学校へ向かっていた。


 昨日は最低最悪の一日だった。


 自分の体調を心配して無理やりにでも病院に引っ張って行こうとする母の恵子を何とか落ち着かせてから、林太郎は自分の部屋に引っ込んだ。


 ベッドに直行して頭から布団を被ると、心の中で唸り声を上げた。


(いい加減にしろよ、くそじじい!母さんに余計な心配かけちゃったじゃないか)


((ふむ。ちょっとやり過ぎたようだ。母上があれほど心配してしまうのは想定外であった。すまんな))


 初めて殊勝な言葉を口にしたおうがいに、林太郎は苛立ちを収めて深く深呼吸した。これ以上怒っていると本当に脳の血管がブチ切れてしまいそうで、怖かったというのもある。


(おうがい、お前のおかげで俺の神経は一年分はすり減ったぞ。またぶっ倒れでもしたら大ごとになるからな。俺は寝る。だからもう喋るんじゃないぞ)


((承知した。実は俺も、お前の別人格として出現してしまってから喋りっぱなしで、かなり疲弊しているのだ。生まれ変わる前の、それも今際(いまわ)(きわ)の人格を蘇らせるとは、林太郎、お前も随分と器用なことをしてくれたもんだのう。そんじゃあ、お休みぃ))


 おうがいは大あくびをすると、林太郎の頭から煙のようにすうっと消え失せた。


「じじいっ!てめえが自分から勝手に出て来やがったんだろうが―――!!!」


 林太郎はベッドから飛び起きて壁に枕をぶつけてから、あらん限りの声で叫んだ。


 しまったと、自分の口を五本の指で鷲掴みにして息を顰めながら、リビングにいるだろう恵子の様子を、身を固くして窺った。

 恵子は風呂に入ってシャワーを浴びているのか、何の反応もない。

 近所の犬が林太郎の声に反応して遠吠したのが聞こえただけだった。




 恵子からは今日一日学校を休むように言われたが、おうがいと二人(?)だけで過ごすと思うと、頭がおかしくなりそうで耐えられない。

 学校に行った方がましだと判断して、林太郎はいつもより遅く登校したのだった。


 それに、林太郎の後ろの席には、エリスがいる。

 エリスに会いたい一心で、林太郎は学校に来たと言っても過言ではない。


 ホームルームが始まる頃、林太郎は誰もいない昇降口で上履きに履き替えた。

 靴箱に靴を入れ蓋を閉める。きいと、微かな金属音の他は何の音もない。

 林太郎は自分の頭の中でおうがいの様子を窺った。

 まだ眠っているようで、うんともすんとも言わない。というか、存在そのものを感じない。


(随分長く眠っているんだな。仕方ないか。あいつ、爺さんだもんな)


 このままずっと寝ていてくれればいい。昨日のような騒動は二度とごめんだ。


 林太郎はゆるゆると階段を上がった。鈴木の来るのが遅れているようで、教室からは生徒のお喋りが聞こえてくる。


 教室の喧騒をぼんやりと聞きながら、扉をがらりと開けた。鈴木が来たと思ったクラスメイトのお喋りが一瞬で静まった。


「林太郎君!学校に来ても大丈夫なの?!」


 健吉が椅子から立ち上がって林太郎を見た。他のクラスメイトも驚いた様に一斉に林太郎に目をやる。


「うん。まあ、大丈夫、かな」


 林太郎は頭の後ろを掻きながら教室に入った。

 途端に数人の女生徒が、わらわらと林太郎を取り囲んだ。森君、大丈夫?昨日はびっくりしたわ、体調はもういいのと、きゃあきゃあと騒ぎ出す。

 教壇の手前で女子に全方位を囲まれた林太郎は身動きが取れなくなった。

 その様子を、健吉を除いた男子生徒が白けた表情で眺めている。


(しまった。後ろから入るんだったな)

 

 そう考えても後の祭りだ。


(ええぃ、どけっ!このブスどもが!)


「俺は大丈夫だよ。ほら、早く席に着かないと鈴木先生が来ちゃうよ」


 心の叫びとは正反対の優しい声で女子達を各自の席に戻らせた林太郎は、急いで自分の席に向かった。 

 正面からエリスの美しい顔が拝めると思いきや、エリスは窓の外を眺めたままで、林太郎を見ようともしなかった。林太郎は少しがっかりしたが、エリスの完璧な横顔を目の当たりにして目が眩む思いだった。


 にやけそうになるのを必死で抑えて平静な表情で自分の席に座ると、健吉が体を斜めにして林太郎に寄って来た。


「林太郎君、昨日あんなに具合悪そうだったのに、学校に来て本当に大丈夫なの?」


「ああ。昨日は悪かったな。あんなに連絡くれてたのに。寝てたから、全然気が付かなくってさ」


「気にしないでよ。僕の方こそ、慌てていたからお母さんに相談しちゃったら、すぐにおばさんに電話掛けちゃって。びっくりしたよね?」


「いや、連絡入れてもらって良かったって、母さん言ってた。ありがとうな」


 声を落として会話していると、鈴木が教室に入って来た。林太郎の姿を見つけると、鈴木は驚いた様子で林太郎に声を掛けた。


「あれ、森君。今日は学校を休むと思っていたんだけどね。体は大丈夫なの?」


 学校に来てからどれくらい「大丈夫?」を言われただろう。いい加減うんざりだ。林太郎はにこやかな笑みを浮かべて鈴木に“はい”と答えた。


「そう。でも、無理しないでね」

 鈴木は林太郎に笑顔で言ってから、ホームルームを始めた。林太郎は気もそぞろで鈴木の話など聞いていない。後ろには愛しいエリスがいるのだ。全神経をエリスに集中させている今、耳に誰の声も入るわけがない。


(しっかし、好きな女の子がすぐ後ろにいるっていうのは、どうにも落ち着かないもんだな)


 林太郎は首を左側に曲げて後ろを見ようとした。

 首だけ曲げてもエリスの姿が目には映らない。ただ、薄汚れた窓と古びた桟が目に入るだけである。


 それで今度は右側に首を曲げてみた。当然エリスは見えず、見たくもない坂本のごつい顔が視野に入ってくる。


 坂本も鈴木の話を聞いている様子はなく、鼻の下を伸ばしてエリスに見惚れていた。


(この、にきび面がっ!その汚い顔を、俺のエリスに向けるな!)


 逆上した林太郎は鬼のような形相で椅子から立ち上がると、拳を握り締めて坂本に向き直った。坂本はきょとんとした表情で林太郎を見ている。


「森君?」


「すいません。何でもありません」


 鈴木の呼び掛けに林太郎はすぐに椅子に座った。


(危ない、危ない。もう少しで坂本の顔をぶん殴るところだった)


 下手をすれば停学処分だ。それよりも暴力を振るう林太郎の姿をエリスに見られる方が一大事だ。

 

 生まれ変わる前のエリスは、ベルリンの貧困街に生を受けたとは思えない程、控えめで大人しかった。

 

 彼女は決して日の当たることのない場所に咲いてしまった花のようだった。

 細く弱々しい茎では純白の花弁を持ち上げることが出来ずに、その美しさを誰にも見せることなく、ひっそりと地面に伏している。

 そんなエリスが、自分の目の前で人が殴られたりしたら、きっと失神してしまうだろう。


 優等生の林太郎の思わぬ行動に、クラスが小さく笑いさざめいた。


(まずいな。苦労して構築してきた俺の完全無欠のイメージに傷が付いてしまう)


 己の失態に思わず顔を顰めた林太郎の耳の後ろで、くすっと笑う可愛い声が聞こえた。


(今の、エリスの笑い声?)


 林太郎はすぐにでも後ろを振り向きたいのを必死に堪えた。

 自分の顔がどれだけ(やに)下がっているか想像出来たからだ。それに、昨日と同じくエリスに注意されでもしたら、確実に優等生としての地位を下げることになる。 

 

 今日予定されている学校行事や簡単な注意事項を述べると、鈴木は教室からすぐに出て行った。他のクラスの授業の受け持ちになっているからだ。


 授業が始まるまで五分くらい時間がある。エリスと話すチャンスだ。林太郎は後ろを振り向こうと自分の椅子の背もたれの上に手を置いてから、動きを止めた。


(何て、話し掛ければいいんだ?)


 林太郎は自分から先に女子に話し掛けたことがない。

 大抵の場合、女の子達が「林太郎くーん♡」と寄って来て、勝手にぺちゃくちゃと喋り出すのだ。

 林太郎は、彼女達のお喋りに適当に相槌を打っていればいいだけだった。女の子とどうしても話さなければならない時には、健吉や先生を通して用件を伝えていた。幼稚園時代からそうなのだ。


(くそうっ。俺としたことが、何たる不覚!)


 林太郎は頭を抱えた。


(あ、そうか。いつも通りにすればいいんだ。先に健吉にエリスに話し掛けてもらおうっと。話が弾んできた頃に、俺がさりげなく会話に割り込んでいけばいい)


 そして、エリスと林太郎の二人だけで会話を盛り上げるのだ。最終的にはデートの約束にまでこぎ着けたい。


“今度の土曜日、二人で映画見に行かない?今、話題になっているやつ”


“ええ、いいわよ。私もその映画、見てみたいと思っていたの”


 何ともゲスな考えである。


「じゃあ、約束ね♡って言うことで、健吉く…ん。ん?」


 夢見心地で隣の健吉の席に目を移すと、もぬけの殻だ。

 どこに行った?トイレか?と、林太郎がきょろきょろすると、後ろから健吉のはしゃいだ声が聞こえてきた。


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