命名、おうがい君
明治は日本史の教科書で近代国家の幕開けと表記されている時代である。
高名な医学者であり作家であった大人物の生まれ変わりだからといっても、遠い過去である。
「百年以上も前の記憶が甦ったからって、こいつのスキルが俺の役に立つか?」
いや、立たない。まるっきり立たない。
だって、今は二十一世紀だ。平成から令和と年号が変わるなか、猛スピードで科学技術が発展している時代なのだ。二〇一九年を日本の高校二年生として生きる林太郎が、彼の生まれ変わりだと知っても、何の得もない。
だからどうした。
そんな投げやりな言葉しか思い浮かばない。
「どうせなら、江戸幕府を己が手中にして将軍を思いのまま操りながらも、徳川埋蔵金の隠し場所を熟知しながら決して誰にも明かさずに、貞淑な正室と若くて美人の側室達に囲まれて天寿を全うした老中の生まれ変わりの方が良かったな。(いるわけね―だろそんな奴。←読者の心境を文字化しました)現世で大金持ちになれるじゃないか。…って、考えても仕方がないか」
林太郎は腕を持ち上げて、再び自分の頭をコンコンとノックした。
「おい、じいさん。いるんだろ?返事くらいしろ!…いや、してくれよ」
少しばかり哀願の籠った声を出してみたが、皺枯れ声の林太郎はうんともすんとも言わなかった。
「ちっ。くそじじいめ。今に見てろよ」
毒づいてはみたものの、その相手は転生前の記憶を持つ自分だ。己自身に暴言を吐いて溜飲を下げるなど愚の骨頂である。
「あ、そうか。こいつは俺自身だからな。じじい呼ばわりされているから返事しないのかも」
林太郎は猫撫で声で自分の頭に呼びかけた。
「そこの見目麗しき秀才のお兄さん。あんた、甘いお菓子に目がないだろう?チョコレートあげるから、ちょいと返事して下さいな」
((呼んだか?))
林太郎の中で声が元気よく返事をした。
じめじめとした低い皺枯れだったのが、明るく力強い声になっている。はやり少し若返ったようだ。
「ううむ、明治生まれとはいえ、やはり俺だな。己に利がなければ返事一つもしないとは」
((妙な感心しているんじゃない。せっかく出てきてやったんだから、早くチョコレートを口に入れろよ))
明治時代の林太郎が平成生まれの林太郎に文句を言い始めた。
((本当に久しぶりに覚醒なんかしちゃったから、余は疲れてんだよ。糖分補給しないと、また寝ちゃうよ?))
「黙れ!」
林太郎は大声で怒鳴った。
明治の林太郎が、今どきの高校生と遜色ない口調で喋っている。
語学にも天賦の才がある明治の林太郎は、現代の若者の喋り言葉を平成生まれの林太郎からすぐに会得したようだ。
さすが天才。
自画自賛したいところだが、現代語の喋り口調だと憎たらしさも倍増する。
最初の時代掛かった言葉を話していた皺枯れ声の方が遥かに可愛げがあったと、林太郎は思った。
「お前が出てきたお陰で、俺はお前、森鷗外の生まれ変わりだということを思い出しちまったじゃないか。俺はパニックに陥って貧血を起こし、教室でぶっ倒れる醜態をクラス中に晒してしまったんだぞ。この状況、一体どう始末をつけてくれる?」
((お前、頭いいんだろ?自分がやった事なんだから、自分自身で始末しようね。早くチョコレート頂戴))
林太郎は林太郎であった。
嫌味の何物でもない言葉を明治の林太郎に返されて、平成生まれの林太郎の怒りに火が付いた。
「きさま、俺の頭の中から出ていけ!俺は俺一人で十分だ!前世の記憶なんていらないんだよ!!」
((そりゃ、無理だな。お前に転生した余は、明治の記憶を蘇らせたことで、そこだけお前の精神から分離して、今や完全に独立した一つの人格になってしまったようだ。そうは言っても、余はお前の人格の一部だから、平成生まれの森林太郎の肉体から出ていけるわけがない。大体、お前は余の生まれ変わりだ。余の方が先に存在しているのだから、この体から出ていくとしたら後から生まれたお前の方だろうが))
「きいいっ!」
林太郎は、もし自分が明治の林太郎であれば、全く同じ言葉を口にするであろう屁理屈にブチ切れた。
「ふざけるな!昨日までは俺の頭の中は俺だけのものだったんだ!どこかの国でもあるまいし、俺の精神から分離独立しただと?蛆虫みたいに勝手に湧いてきやがったくせに!早く出ていけ!」
((だから無理だって。それから、蛆は勝手に湧くもんじゃない。蛆とは蠅の幼虫期の名称だ。蠅は胚から幼虫、蛹を経て成虫になる完全変態昆虫であり、成虫になった雄と雌が子孫を残すために人の食べ物や人糞などのタンパク質を摂取した後に交尾して、雌が幼虫が生育しやすい環境である腐敗して柔らかくなった食品や動物の腐乱した死骸、糞便などの汚物に産卵し))
「俺の頭の中でハエの生態なんか講釈するんじゃな―――い!!」
林太郎は喉が裂けんばかりに明治の林太郎に怒鳴りつけた。あまりに大きな声を出したので、思わずげほげほと咳き込んだ。
((大丈夫か?あまり興奮すると血圧が上がるぞ?脳の血管が切れでもしたら一大事だ))
「俺はまだ高校生だ。お前のような死にぞこないの老いぼれではない!」
はあはあと肩で息をしながら、林太郎は毒づいた。林太郎の言葉を聞いて、明治の林太郎がしんみりとした口調で言った。
((そうなんだよな。余は、自分の臨終直前の記憶から、お前の頭の中に甦ったんだ。何故だか分かるか?))
「ふん。俺が知る筈ないだろうが」
林太郎が言葉を吐き捨てる。
((エリスだ))
明治の林太郎が情緒を込めた声を発した。
皺枯れ声だったのが、今はもう成人男性のものに変わっている。
結構、耳に心地の良いテノールだった。
((エリスへの愛を思い出したからだ。あれは本当に無垢で純粋な恋人であった))
「エリスって…もしかして、俺の席の後ろに座ることになった、アメリカ人の転校生のこと?!」
林太郎はごくりと唾を飲み込んだ。
鈴木の隣に立っていた少女の美しい顔が目の前に浮かび上がる。
柔らかく微笑んだ薄紅色の唇に、目が釘付けになっていた瞬間を思い出すと、頬がかっと熱くなり、次第に胸が高鳴ってくる。
自分の部屋の淀んだ空気が一瞬で浄化されたような思いがした。
「あんなに綺麗な子が、俺の恋人だったのか?」
((お前のじゃない。余のだ))
明治の林太郎が力を込めて言い直した。
「都合のいい時だけ自分を強調するんだな。身勝手な奴め」
悪態を付いているどころではない。今はエリスの情報が欲しい。
「じゃあ、さ。彼女も過去の時代から現代に転生した人間だってことだよね?」
((恐らくな))
急に明治の林太郎から自信に満ちた口調が影を潜めた。
((神にも称賛されるであろう、絶世の美しさが寸分違わず再現されている。エリスでない筈がない。余が転生しこの時代に、あれもまた生まれ変わったのだな。これも、神の決めた定めかも知れぬ))
自分が生きていた時代を思い出したらしく、明治の林太郎の声と口調が年寄のものに戻っている。
「ええっ!だったら、エリスは、この時代でも俺の恋人になる運命ってこと?!」
((さあ、どうだろう。それに、エリスが転生前の人生を記憶しているとは限らんしな。いや、その方がよいのだ))
次第に明治の林太郎の声が小さく弱々しくなっていく。
「おい、じいさん。気弱なこと言ってんじゃない。あんただって超絶美少女の元カノと縒りを戻したいだろう?だったら俺に協力しろ」
((じいさんではない。俺はお前だ。森林太郎という立派な名前がある))
「うーん。くそ!自分自身を俺だのお前だのと呼び合っていると、頭がおかしくなりそうだ」
林太郎は自分の髪の毛をぐしゃぐしゃにして唸った。
「それに転生前と後で同姓同名ときている。ややこしいから呼び名を変えた方がいいな」
林太郎はベッドの上で腕と胡坐を組んだ。明治の林太郎も高校生の林太郎と同意見らしく、林太郎の頭の中で「ふむ」と頷いた。
「おい、じいさん。じゃなくて、明治生まれの森林太郎。お前は小説家になって森鷗外と名乗ったんだから、俺があんたのことを鷗外って呼べばいいんじゃないか?」
((鷗外の名で呼ぶのは構わないが、余はお前の転生前では大文豪だった人物だ。普通の高校生でしかないお前が、陸軍軍医総監、高等官僚及び作家として後世に名を残した余を呼び捨てとは無礼だぞ。それから余は明治生まれではない。江戸後期、文久二年の生まれだ。西暦だと一八六二年。あの時代は桜田門外の変や生麦事件などが次々に起こって激動の時代であったらしい。お前は学校一の秀才らしいが、まだまだ勉強が足りておらんな))
「ぐぬぬっ」
萎れていたのは何処へやら、急に偉そうに喋り出した明治の林太郎にむかついたが、林太郎は口を引き結んで黙って聞いていた。確かに彼の言う通り、鷗外の生まれた年と年号を間違えていたからだ。
((ああ、そうですか。じゃあ、鷗外様とでも呼べばいいだろう?大文豪))
嫌味半分で言ってやると、明治の林太郎の澄ました声が、林太郎の頭の中で響いた。
((確かに転生前は大文豪であったが、今は、お前と同い年で高校生の身分である。様付けでは仰々しい))
「なら、鷗外君だったらいいだろう?対等な感じだし」
((君付けはいいが、鷗外って漢字が硬くてやだな))
はあ?何言ってんだ、こいつ。
屁理屈をこね回す明治の林太郎に、林太郎は苛立った。だが、怒ったところで何の前進もない。ここは冷静になるしかないのだ。
「それじゃあ、平仮名でおうがい君って呼んでやる。どうだ?友達みたいでいいだろう?」
((悪くはない))
「じゃあ、決まりだな。エリスちゃんと仲良くなれるように協力してくれよ」
おうがいは、林太郎の言葉を無視して言った。
((チョコレートくれ))




