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奸計奏して学校早退 ※


「どうした?森。今度は腹でも痛くなったのか?」


「はい。あ、いいえ、」


「…どっちだ?」 


 自分の返答に首を傾げる井坂を、林太郎は毛布の中から目だけを出して覗くように見上げた。

 井坂が心配そうにベッドの上にくの字に体を曲げている林太郎に顔を近づけた。保健の教諭として職務を全うしている顔がとんでもなく美しい。


 今の時間はどの教室も授業の只中だ。

 

 保健室には林太郎の他には具合の悪い生徒は誰もいない。井坂に会いたくて肘や膝をちょこっと擦り剥かせては保健室に駆け込んでくる男子生徒は多いが、彼らの思惑とは裏腹に、井坂は無慈悲にも無言で絆創膏を突き出すだけである。   

 

 そんな女が、日誌を書くのを中断してまでわざわざ林太郎の様子を見に来てくれるのだ。

 

 これは、脈あり。

 

 林太郎は井坂に気付かれぬように僅かに口角を上げた。


「いえ、腹は痛くはありません、けど」


 林太郎は井坂のいる方向に上半身を捩じって、気怠げに持ち上げた。

 俯いた顔に前髪を少し落として辛そうな表情を作り、愁いを帯びた視線を枕の脇に落としてから、そっと井坂に目を移した。

 

 静寂に包まれた部屋で、年上の美人先生と高校生の美形男子が二人、互いを見つめる図が出来上がった。

 少し開け放った窓の白いレースのカーテンが、初夏の風に吹かれてふわりと舞い上がる。

 覗き見する者がいたならば、両手を口に当てて、きゃあ♡と小さな歓声を上げている事だろう。

挿絵(By みてみん)

「何だか、体が、熱っぽくて」


 林太郎はネクタイを外して第二ボタンまで開けた胸元のシャツに指を掛けてゆっくりと引き下げながら、ほうっと息を吐いた。


「そうか?どれ」


 井坂が林太郎に近づいて、その額に白くほっそりとした手を押し当てる。

 

 何?この、使い古された漫画みたいな状況って、読者の皆さんは思うでしょう。確かにそうである。そうであるが、やっぱりこのような展開は今でも健在なのである。


「熱はないようだが」


 読者の期待を裏切るように、井坂が乾いた声で言った。


「…自分でも熱は大したことないと思うんですが、頭痛がちょっと」


「そうか。意識を失って倒れたのだから仕方がないだろう。酷く痛むのか?」


「いえ、そんなに大したことはありませんが」


 心許なげな表情で井坂茜の顔をじっと見つめてから、林太郎は物憂げに目を伏せた。


「学校を早退した方がいいかと思って」


「早退だと?」


 井坂はベッドに屈んでいた姿勢を正すと、林太郎に気難しい顔を向けた。


「はい。眩暈も収まってきました。今の体調だったら歩いて家に帰れます。動けるうちに早退して、家で休んでいた方がいいのではないかと」


「しかし、家には誰もいないのだろう?このまま保健室で休んでいた方が、お母上も安心するのではないか」


(いい加減に俺の言うことを聞けよ!この三十路過ぎのおばさん保健婦が!!)

 

 林太郎は心の中で井坂に醜い罵声を浴びせながら、表面ではしおらしい態度を崩さずに言った。


 美少年の林太郎がいくら瞳をうるうるさせても、その魅力が全く通じない相手もいる。その一人が、井坂茜だ。


(学校の奴らは知らんだろうが、こいつは老け(フケセン)だからな。金持ちの髭のナイスミドルにしか食指を動かさない。半信半疑だったが、噂は本当だったようだな)


 思惑通りに事が進まないのも世間では度々あるものだ。に、しても。


(ったく、髭のナイスミドルってどんな奴だよ。俺が知っている限りでは、古典的人気ゲームのキャラクターの主人公くらいだぞ)


「そうかもしれませんが、俺は母を心配させたくないんです。一人息子が貧血で倒れたと知った母が気を動転させて、迎えに来る途中で事故にあったりでもしたら、取り返しがつきませんから」


 事故と聞いて、井坂の顔色が変わった。図らずも、林太郎に父親の死を語らせてしまったことへの自責の念が再び頭をもたげたのだろう。


「分かったわ。森君、あなたはもう高校二年生ですもの、自分の体調管理は出来るでしょうからね。早退を許可します。鈴木先生には伝えておきますから、早くおうちへ帰りなさい。」

弱みに付け込んだ策が効を成した事に内心ほくそ笑みながら、林太郎は、「はい」と殊勝な面持ちで返事した。


 手の空いている教師にバックパックを保健室まで届けて貰うと、林太郎はそそくさと学校を後にした。

 

 健吉は、林太郎がエリスの名を口にしてから意識を失って倒れたと話していた。

 それが本当なら、どんなに無様な様子だったろう。今更、のこのこと教室に戻れるわけが気ない。それに、授業が終わった途端に健吉を筆頭にクラスの女子一同が保健室に押し寄せてくるのは目に見えている。煩わしいことになるのは明々白々だ。


 だから、授業中である今、林太郎が早退してしまうのが最も賢明な判断である。

 自分自身に起きた理解不能な状況に、林太郎は少なからずパニックを起こしていた。これでは授業など受けている場合ではない。

 

 家に帰りたい一心で、林太郎は井坂に一芝居打ったのだった。一刻も早く一人で考える場所が欲しかったからだ。


 校門を出てから殆んど走るようにして帰宅した林太郎は、鍵穴に鍵を差し込むのももどかしい状態でドアを開けた。

 家の中に飛び込むように入ると、玄関でスニーカーを急いで脱いだ。狭いリビングを走り抜けて自分の部屋のベッドに突っ伏する。


「一体全体、俺の頭ん中はどうなっちゃったんだよ―――!」


 誰もいない部屋で長々と絶叫すると、林太郎は幾分か冷静さを取り戻した。

 ベッドにうつ伏せになったまま、しばらくじっとしてみる。だが、このまま寝そべっていても何の進展もない。


 ベッドの上に正座すると、林太郎は恐る恐る自分の頭を軽くノックした。


「おい、じいさん」


 林太郎は頭の中の皺枯れ声の林太郎に話し掛けてみた。現国の授業中はうるさいくらいに喋っていたのに、今の林太郎の頭の中からは(しわぶ)きの一つも返ってこない。


「おい、じいさんってば!何だよ、喋り疲れて寝ちまったのか?」

 誰もいないので心置きなく声を出せるが、自分の頭の中に話し掛けるなど、やはり異常である。


「やっぱり、幻聴だったってことは…ないよな。だって、あれだけ喋っていたんだ。それに」


 林太郎は力なく息を吐いて肩を落とした。


 今、こうしてベッドに正座していても、自分が森鷗外だった時代の記憶が水底から浮かんでくる泡のように甦って、脳内で写真のように再生されていく。


 その殆んどは幼い頃のものだった。


 木造の古い屋敷の縁側に座って飴玉をなめていたり、近所の友達と家の庭で遊んでいる風景だ。衣服も着流しに帯を巻いたものだし、母親らしき女性に至っては髪を島田に結っている。


 それは、平成生まれの林太郎が見たこともない古色蒼然とした景色である。まるでテレビの時代劇を一コマ一コマをスライドにして見ているようだ。


「本当にあるんだな、生まれ変わるなんてこと…」


 林太郎はうーむと唸って、起こした体をベッドに再び横たえた。頭の後ろで手を組んで、天井を睨みつけた。


「イエス・キリストとか仏陀のような聖者が今の時代に生まれ変わっていれば、とっくに世界に平和が訪れているんだろうな。もし、ヒトラーがこの世に転生していて、自分の過去を記憶していたら…。うわ、怖っ!」


 転生はともかく、前世を記憶している人間がうじゃうじゃいたら、この世界はとっくに崩壊しているだろう。

 だからまあ、生まれ変わる前の自分を記憶している人間なんて、殆んどいないと考えるのが妥当だ。自分を除いては。

 

 林太郎は再び、うーむと唸って体を捩り、うつ伏せになると枕に顔を押し付けた。


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