4.目が覚めて忘れた夢の記憶は、夢うつつの状態で蘇る
毎日が充実していた。半日以上をマシンの前で過ごす生活は厳しかったけれど、プログラムは楽しいし、医療現場で実際にそれが動いているという話を聞くと、自分が役に立っているのだと実感できて嬉しい。
そして何よりも、倫と結婚し、二人の生活を始めた事が、疲労を充実に変えてくれた一番の原因だ。わたしの仕事が忙しくて二人で過ごす時間は短くなり、愛を確かめ合う手段が性交に偏りがちになるのだけが悩みの種である。と、いうより、自分自身がこんなに性交を欲しがる女だとは思わなかった。幸せになると、それを失うのが怖くなるというのは、わたしもその例外ではなかったのだ。
「倫くん」
「ん? 何だ?」
「ううん。何でも無い」
幸せが永遠に続けばいいと思っていた。
だけど、夢の終わりが始まった。
シミュレーションを始める際にざっと眺めたインプットデータから、つばさの顔を想像したのは単なる直感だった。仕事が忙しくて、最近はすっかりつばさとも疎遠になってしまったが、彼女から聞いた持病の症状は覚えていた。そしてこのデータを持つ女性が、年齢も血液型もつばさと同じであることにも気づいた。個人情報保護の法律があるから、データを入力するだけのわたしにはこれが誰のものなのかということはわからない。わたしが彼女を知っているから、先入観を持って想像しまっただけだと思う。でも、その時は、特に問題はなかった。心の内に留めた個人的感情からこのデータのシミュレーションは成功で終わらせたいと感じただけだから。
けれど、死という終わりと、生という終わりの双方の結果を並べてみたのが、わたしの夢の終わりの始まりだった。シミュレーションソフトの検証であるのだから結果を比較するのは当然のことなのだけれど。
つばさ(と、わたしが名付けたデータ)の辿った幾つもの分岐したルート。現実世界ではありえない、死と生の隣り合わせ。そしてわたしはそのデータの羅列を、はるか昔に見た覚えがあった。
――ああ、そうか、そういうことだったんだ。思い出した。
ここは、わたしが願った、もしもの世界だったのだ。倫を悲しみから救いたいという、わたしの感傷から生まれた、ありえない夢の世界だったのだ。現実逃避をした、愚かで哀れなわたしだけの空想だったのだ。
――いいじゃない。誰も死なない、悲しまない世界なのだから。
わたしはわたしに思考停止を呼び掛ける。
つばさは病気がちながらも、静かに生き続けることができるし、わたしのシミュレーションソフトが正しければ、この結果次第で快方に向かってくれる。倫は、大切な人を失う悲しみを免れる。そしてわたしは、倫の傍にいられる。
なんて、幸せな、世界。
うふふ。
気味の悪い忍び笑いを漏らしたのはわたしだった。
「おう、お帰り」
暖かな光あふれる部屋へ帰宅したわたしを、倫が優しい声で迎えてくれる。いつもの、かけがえのない幸せの証――。
「おぃ、どうした、天音? 泣いているのか?」
ただいま、と言い掛ける前に彼はわたしを心配してくれる。そんなにわたしは酷い顔をしていたのか。
「ううん。疲れただけ」
「そうか?」
言いながらも彼は身体を起こしてこちらに近づいてくると、わたしの身を抱き寄せ、髪を撫でて額に二度三度と接吻をしてくれる。
なんて、幸せな、夢。
夢の中で夢だと気づいたとき、それはもうすぐ夢から覚めるということだ。目が覚めたとき、わたしはあのシミュレーションの結果を覚えているだろう。そして、生と死を分けた原因を発見するだろう。そしてそれをつばさの病気の有効な治療方法への提案として提出することになるだろう。そして……わたしは自分が独りでいることに気づくだろう。倫は、わたしを恨むだろうか。わたしの治療法が正しくても、本当の世界では、つばさはもういない。助けられたはずの彼女を助けられなかったわたしは倫から恨まれてもしかたがない。倫は優しい人だから、直接そういう態度は見せないだろうけど。だからこそわたしはつらい。
「倫くん、わたしのこと、愛してる?」
力を込めて彼に抱きつき、陳腐な言葉をわたしは求める。
「愛しているよ」
ぎゅっ、と。痛くて、嬉しい。
「……おい、ホントにどうしたんだ、天音? なんで泣いているんだよ?」
「幸せだもん。人は幸せな時に涙を流すんだよ」と、薄っぺらな嘘を付く。
だけどお願い。夢から覚めるまでは、倫との時間を、偽りの幸せを感じさせて欲しい。淫らな女と思われてもいい。彼のぬくもりを感じさせて。わたしは倫にしがみつくと、背中にまわされるに決まっている筈の彼の手の感触を待った。




