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2.疲れて帰宅したわたしを癒してくれるものは、暖かな家の光

 その日の仕事を終え、クタクタになって終電で帰宅してきたわたしは、玄関のドアの鍵穴を回した。真っ暗な室内に、溜息をつく。実家を離れて暫く経ち、一人暮らしにも慣れてきたが、暗闇に出迎えられて疲れが癒えよう筈も無い。

 小さい頃から学校の成績だけはよくて、他者とのコミュニケーションを苦手としていたわたしは、医科大学の先生の進めに従って、人体シミュレーションソフト開発プロジェクトへ参加した。患者に不安を与えてしまいそうなわたしでは、臨床医は無理だ。中学生の頃から、趣味でプログラムを作り続けてきたわたしにとって、それが実用になること、そして自分に出来る事で誰かの為になれるのならばその進路はありがたかった。とは言え、やはり趣味と仕事ではそのハードさは桁違いだった。自分のペースで仕事ができないこと、他の人との打ち合わせを行わなければならないことは思った以上に精神をすり減らす。とは言え、この仕事から逃げるわけにはいかない。わたしにはこれしかないのだから。

 暗闇の中に点滅する赤い光を見つけ、わたしは部屋の照明を点けて電話機に向かう。

『天音、母さんです。元気にしてましたか? あのね、倫君……いとこの倫君の奥さんが亡くなられたんですって。前から病気がちな子だったけどね。産後の肥立ちが悪くって。明日、仕事を早引けして、お通夜にいらっしゃい』

 母からの留守番電話だった。軽くショックを受けたが、聞きながら、あの子なら仕方が無い、という納得もしていた。

 倫の奥さんになった人は、高校時代の同級生の野田つばさ、という女の子だった。彼女はわたしと同じクラスになったこともあったが、しばしば病欠をしていて、わたしとは違う意味で友達の少ない子だった。後に倫から間接的に聞いた話では、彼女の家系には同じような体質の人がしばしば現れていたのだという。遺伝子に病気が刻まれているのかもしれない。

 二人が交際するようになったのは、高校3年のとき。彼女が高校の校舎の廊下で具合が悪くなってその場に崩れ落ちたのを倫が助け起こしたのがきっかけだった。わたしも偶々その場に居合わせていたので憶えている。倫は優しい人だから、寂しさを抱えた女の子を本能的に嗅ぎ付けてその手をとるのかもしれない。わたしは仲良くなっていく二人の背中を見つめることしかできなかった。

 でもわたしはつばさが嫌いではなかった。彼女は、身体は弱くても芯は強い女の子だった。人より少ない時間の中を、いかに有意義に楽しむかを実践している彼女は、わたしも憧れるところであった。だからわたしは、二人の幸せを、自分の幸せであるかのように意図的に錯覚して見つめていた。………………けれど!


 翌日、わたしは葬式会場で久し振りに倫と再会する。


 そして一夜明け、わたしは胸にモヤモヤを抱えたまま仕事に戻った。休んでいる間も時間を無駄にしないよう、わたしのマシンはシミュレーションの実行のために動かしていた。モニタの電源をつけると、予想していた通り、大部分はシミュレーション終了、残りももうすぐ終了というところだった。まだ昨日の倫とのやりとりが頭の中でリフレインしている。画面に映る病名と治療スケジュールとその結果のリストをダラダラと眺めていると、わたしは不意に、くらり、と眩暈に襲われた。一瞬頭をよぎったヴィジョンが脳を刺激する。今のは何だ。ほんの僅かな時間のことで思い出すことはできなかった。やはり精神的に疲労しているらしい。今日は確認作業だけにして脳のリハビリにしようか。昨日の倫の悲しみは、わたしの心にも深く鈍痛を覚えさせている。

 

「天音」

 つばさの棺の側にいた倫は、わたしが入ってきた気配を感じて振り返り、呟くように云った。胸が締め付けられるような、今まで見せたことのない弱弱しい表情だった。いつも誰かの支えになっていた彼が、誰かからの支えを必要としていた。わたしは常日頃、彼の為になら何でもしてやりたいと思っているのに、いざそうすべき時になると、その重みに耐えられそうに無い自分が情けなくて、苦々しかった。

「俺が間違っていたのか」

「え?」

「俺が本当につばさの事を愛していたのなら、結婚をするべきではなかったのかもしれない。子供を生ませるべきではなかったのかもしれない」

「……」

 普段の倫なら、絶対こんなことは言わない。

 倫とつばさの子の小百合はその場にいなかった。たぶん叔母さんがどこかであやしているはずだ。

「結婚なんてしないで、静かに暮らしていれば、つばさは時々体調を崩すことはあっても命にまでは障ることはなかったんだ。つばさが赤ちゃんが欲しいと言ったとき、恨まれてでも拒否していれば」

「でも、つばさがそれを望んだのでしょう。亡くなったのはとても残念なことだけれど、倫との時間の証を残せたのなら満足したんじゃないかな」

 針金で心臓をくくられたような痛みを覚えつつ、愚かなわたしは必死で姑息な言葉を倫に伝えた。わたしはただ、本で読んだり、TVドラマで聞いたような言葉を、つばさの性格を鑑みて舌に乗せただけだ。でも本当は、清い意味でも邪まな意味でも倫に同意していた。

「証、か。つばさも同じような事を言っていたよ」

 死んでも尚、否、死んだからこそ、つばさは倫の永遠になった。倫は優しい人だけど。わたしの想いなんて、理解してはくれない。たとえ、理解しても、もう理解していない振りしかしないだろう。


 ……結局この日は、あまり効率のよい仕事が出来なかった。そして今、また一つのテストケースが、死というエンドを迎えるところだった。わたしはその結果を別ファイルに保存しようとして……今朝のヴィジョンの内容を思い出した。刹那、わたしは眩んだ目の奥から手を伸ばしキーを叩いていた。シミュレーション内の時間が止まる。仕事に慣れてくると、単なる英数字の羅列が、反射的に脳内で医学用語に変換される。そして、その向こうにいる患者たちの姿にも……。

 わたしは割り込みシグナルを用いて、デバッグ用に作っておいたシミュレータのパラメータ書き換えを行った。人間でいえば、体内の患部のみを強制的に取り除いたということだ。バグがあった訳でもないのにこんなことをするのは意味の無い全くの時間の無駄遣いである。また後でシミュレーションをやり直さなければいけない。仕事を忘れた愚かなわたしを嘲笑うがいい。ただのテストケースがつばさに見えたわたしを、そしてその側で泣く倫をも幻視してしまったわたしを。

 もしも、今のシミュレーションが現実の世界だったら、不治の病が、奇跡によって治ったところだったのだろうか。今日のわたしは本当にどうかしている。奇跡の回復に喜び合う患者とその家族の幻が見える。機械とばかり向き合って、いつもは超自然の存在など否定しているくせに。


 ――神様。

 

 わたしは虚空を見つめた。

 

 ――もしこの世界があなたのシミュレーションであるならば、わたしに一度だけ、やりなおしをさせてください。


 …………マシンのうなる音だけが開発室に響いていた。


 ――ハッ、馬鹿馬鹿しい。

 われに還って、己の愚挙を嘲笑う。感傷もいいかげんにして、早く現実に戻ろう。

 目を閉じた。涙が出ていることに気づいた。これは疲れたせいだ。そうに決まっている。

 だが、再び瞼を開いた時、わたしの目に入ってきたのは、開発室の自分のパソコンではなく、高校時代のわたしのクラスの教室の黒板だった。


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