生野兄妹の出発
八月の八日になった。七月の時点でかなり暑かった気温だが、八月に入ってからはさらに加速度的に上がっていき、日中を通じて三十度なぞ軽く超えてくるので、クーラーを点けなければ休まる時間がないくらいである。
八月も八日にもなれば大会に出ていた知り合いの結果が誰かしらを通じて伝わってきた。まず演劇部は最優秀賞は逃したものの、前年と同じく優秀賞を受賞した。委員長に聞いた話では小泉さんはたいそう悔しがっていたらしい。おれ的には十分すぎるほどにすごいと思うのだが。
そして萩原さんのワンマン体制でのインターハイに臨んでいたバレー部はなんとベストエイトだった。観戦していた白本さんによると、萩原さんの実力は高校でも問題なく通用したものの、殆どの点を一人で取っていたこともあって流石に疲労が溜まっていたようで、後半はほぼ何もできずにそのまま負けてしまった模様。しかしそれでもろくに部活に力を入れていない公立高校のバレー部が全国大会に出場してベストエイトになった時点で快挙だ。というより萩原さんがすごすぎである。
そして八日というと、荒巻会長の親戚が経営する海の家へバイトに向かう日でもある。手伝うことになったメンバーは、荒巻会長、奥道さん、おれ、白本さん、萩原さん、そして妹の響と荒巻会長のお兄さんだ。変な面子である。
目的地の石川県へは荒巻会長のお兄さんが車で連れていってくれるらしい。とはいえけっこう時間がかかるらしいので、朝六時に起床したおれは現在、洗面台で顔を洗っているのだ。普段こんなに早く起きることがないので、まだ異常に眠い。常日頃早起きして家事にいそしんでいる響は朝でも元気なようだが。
口を濯いでリビングに戻ると響がバッグを前にあたふたしていた。
「何やってるんだ?」
「準備に決まってるじゃん。女の子は持っていくものが多いんだよ! マイ包丁とかさ」
「それは女子中学生が旅先に持っていくものじゃないと思うけど」
「だって海いくんだよ? テンションも上がるよ」
海と包丁の関連性はいかに。
響はぶすっとした表情をおれに向けてくる。
「むしろ何でお兄ちゃんはそんなにいつもと変わらないの。海にいくんだよ? 岐阜県民なんだからテンション上げようよ」
「それ流行ってるのか?」
荒巻会長も似たようなことを言っていた。
「別に海なんていこうと思えばいつでもいけるだろ」
「確かにそうだけど、いこうとなんて思わないでしょ?」
「まあ、そうだな」
まず海にいく用がない。
その後トーストを食し、トイレを済ますと時刻は六時二十分を過ぎていた。そろそろ待ち合わせ場所に向かった方がよさそうだ。
おれは自室へとって返し四日分の衣類が入ったエナメルバッグを取って玄関に向かった。
「響、そろそろいくぞー」
一軒家なので近所に配慮する必要はないのだが、流石に朝早いのでつい声を抑えてしまう。
響はというと、なかなか自室のある二階から降りてこない。何をしているんだ、と手のひらで家の鍵をもてあそんで待っていると、ようやっと響が降りてきた。
「ごめんごめん」
申し訳なさそうに言う妹はリュックサックを背負い、右肩にトートバッグをかけ、左手で黒く細め且つ小振りなケースを持っていた。
おれは呆れてため息を吐いてしまう。
「どうしてそんなに荷物が多いんだ?」
「リュックに服を入れてて、トートの方には勉強道具、それからこの黒いケースには包丁を」
「ほんとに包丁持ってくのかよ」
「当たり前じゃん。旅先で料理バトルが発生するとも限らないんだし」
「発生するかよ」
そんなんだからお前はカミハラに『響ちゃんは遠月学園にでも編入する気なのか?』なんて言われるんだぞ。
そしてもう一つ疑問なのが、
「あと、どういう風の吹き回しだよ。お前が勉強道具を持っていくなんて。いつも夏休み終了間際まで放置してるのに」
そして泣きつかれておれが手伝うことになるのだ。
響は得意げにふっふっふー、と笑う。
「今回のバイトの旅には噂の白本さんもくるんでしょ? 前にお兄ちゃんが白本さんは成績もいいって言ってたから、勉強を教えてもらおう……あわよくば全部手伝ってもらおうと思いましてね。どう? この完璧な作戦は」
「自分でやれ」
「えー。お兄ちゃんだって変なことに白本さん巻き込んでるじゃん。それに比べたら中学校の勉強を手伝ってもらうことなんて些細なことだも思うけど」
「うっ」
それを言われたら反論のしようがない。しかしまあ、いつもならやらない勉強をやろうの言っているのだから、悪いことではないか。
お喋りはこのくらいにして早いとこ家を出るとしよう。おれはサンダルを履くとドアノブに手をかけた。しかしまたしても響は騒がしかった。
「ああ! そうだったサンダルこんなになってたんだ……」
呆然とした声に何事かと振り返る。響が悄げたような表情を浮かべながら、鼻緒部分が千切れたサンダルの右足側を見せつけてきた。
「お前なあ、昨日のうちに買っておけよな」
「うぅ、失念しておりました」
いくら家事が好きといってもこういうところはまだ中学生である。
「ど、どうしようお兄ちゃん。こんな時間じゃまだアチパ開いてないよ」
「サンダルじゃなくて靴履いていけばいいだろ」
「それがですね……終業式の日に穴が空いちゃいまして」
「どうして新しく買わないんだよ」
「だって、しばらく履かないから……」
おれはため息を吐く。こいつは人の世話ばかり焼くくせに、自分のことになると後回しにするから困る。
「こ、このままじゃ待ち合わせ場所までいけないよ! 灼熱の太陽に身を焦がされたアスファルトに足の裏を焼かれちゃうよ!」
何だその言い回しは。とはいえ、あながち誇張表現というわけではない。まだ六時すぎとはいえ、太陽は既に照っている。アスファルトが身を焦がされるのも時間の問題だ。
「仕方ないし、左足でケンケンしていくしかないな」
「ないよ! 疲れちゃうよ!」
「冗談だよ。代わりに履ける靴くらいあるだろ」
おれはサンダルを脱ぎ捨て廊下へ戻ると、リビングへの通りの途中にあるシューズインクローゼットを開けた。並べられている靴の一つを手に取る。
「これでいいだろ。お前が小六のときまで履いてた靴だ。まだ履けるんじゃないか?」
ピンクを基調としたマジックテープでとめるタイプの靴だ。
響は憮然とした表情を浮かべ、
「嫌だよそんなの。子供っぽいじゃん」
「大丈夫だよ。お前は――中身はともかくとして――見た目自体は十分すぎるほど子供っぽいから」
響は童顔だし、同じ年代の少女と比べても背が低いのだ。ランドセルを背負えば小学生に見えるだろう。しかし疑問なのは白本さんの方が響よりやや背が低いと思うのだが、彼女は全然子供っぽくないという点だ。まあ白本さんは童顔ではないし、非常に聡明だからだろう。こう考えると響は中身も子供っぽいのだ。
「人が気にしてることを堂々と言うな!」
頬を膨らませてぷんすかし始めた。うん。やっぱり子供っぽいな。そもそも自分のする家事を取られたら拗ねる辺りも子供っぽいではないか。拗ねる理由がおかしすぎるだけで。
響がじと目でおれを見てきてるのに気がついた。
「どうした?」
「お兄ちゃん、いま絶対私のことを子供っぽい子供っぽい思いまくってたでしょ」
「どうしてわかるんだよ!? 怖いわ!」
「女の勘を舐めちゃ駄目ってことだよ!」
おれはピンクの靴をシューズインクローゼットに戻す。他には……これでいいか。おれは黒いサンダルを取り出す。
「姉ちゃんが中学生のときに履いてたサンダルだ。古いけどまだ履けるだろ」
「おお! それでいいよ」
やれやれ。シューズインクローゼットを閉め、再びおれはサンダルを履く。同じくサンダルを履いた響に尋ねる。
「どうだ?」
「ちょっと大きいかな。まあサンダルだしあんまり気にならないけどね」
「じゃあそれでいいってことだな」
「オッケーだね。……お姉ちゃんって、私と同い年のとき身長どのくらいだった? 私ぼんやりとしか憶えてないからさ」
「うーん……いまはおれと身長同じだけど、当時はどのくらいだったかな。百六十は普通に超えてたと思う」
「くっ。な、なぜ血を分けた姉妹なのにこうも違うのか……!」
そりゃまあ、おれとお前は母さん似だけど、姉ちゃんは父さん似だからな。しかしおれは海にいくことに浮き足立っている響に配慮し、このことを言わなかった。それにこんな朝っぱらから暗い空気になるのはごめんだ。




