追走劇
突如として体育館に轟いた悲鳴におれたち三人、それからサーブ練習をしていた萩原さんは一瞬だけ硬直してしまった。
いち早く我に返った小泉さんに肩を叩かれる。
「生野君、様子を見てきて!」
「は、はい!」
おれは出せうる限りのスピードで舞台に飛び乗り、袖の奥へと急いだ。いまの悲鳴はどう考えても夏場現れる黒いアレを目にしたときのようなものじゃない。そもそも委員長はそんなもには驚かない。中学のときそのアレが現れたことがあったが、ビビる生徒を余所に委員長は一片の慈悲もなくアレを近場にあった消火器で叩き潰していた。
そのことに大層ギャップを感じたが、それ故に先ほどの悲鳴が気になった。余程のことがあったに違いない。
袖の階段を下り、目の前にある扉を開けた。一度もこんなところに入ったことがないので少しの不安があったが、そこまで広くないはずだと自分を納得させた。
果たして、扉の向こうに待っていたのは控え室に続く真っ直ぐの廊下、廊下の脇に固まっている委員長たち三人。そして、こちらに向かって走ってくる劇に使われるであろう衣装ドレスを抱え、キャップとサングラスとマスクで顔を隠し、黒く丈の長いコートで身体を覆った暑苦しい格好の不審者だった。
また不審者かよ!? もうパイ投げはごめんだぞ!
つい最近のできごとがフラッシュバックし、一瞬だけ身構えてしまった。しかしどうやら、それがまずかったらしい。
不審者はおれの五歩ほど手前で身体を左に向け、すぐ近くにあった扉を開けると外へと出ていってしまった。
そんなところに裏口があるとかしらんよ!
裏口だけに裏をかかれた。おれも急いで扉を開けると、外から「うおっ」という聞き覚えのある声が聞こえた。
剣也だった。突然開いた扉をよけたからか仰け反った体勢になっている。何でここにいる? そしてなぜかアロハシャツを着ている。……本当に何で着てる? いや、いまはどうでもいいか。
右側は高いフェンスがあって登るのに時間がかかるし、ドレスを抱えていたから厳しいだろう。目の前は石垣。石垣を越えてもやはりフェンスなので、必然的に不審者は左側に違いない。首をそちらへ向けると十メートルほど前方に不審者の姿を認めた。
「剣也、あいつを追うぞ!」
「え、なんで?」
「知らねえ! けど追うぞ!」
「なんかわかんねえけど、了解した!」
おれが駆け出すと剣也も後ろから付いてきてくれた。そしてそのままおれを追い抜いていった。意外かもしれないが、こいつはなかなか運動神経がいいのだ。
「待ちやがれ変な格好の奴!」
剣也が叫び声を上げる。言っちゃ悪いがお前も十分変な格好してるからな。
剣也の声に反応してか一瞬だけ不審者が振り返ってきた。猛スピードで追いかけてくる剣也を見てか、少しギアを上げたようだ。
しかし不審者はドレスを抱えているのであまりスピードは出ていない。剣也がジリジリと近づいていっている。
不審者が体育館に沿って左に曲がった。前も右も石垣だから当然である。
「逃がさせねえ!」
と、剣也がスピードを緩めずに曲がった結果、ずりっと滑って尻をコンクリートの地面にぶつけた。
「痛え!」
「何やってんだ馬鹿!」
おれは剣也を飛び越えて不審者を追った。
不審者との距離は大体七メートルくらいか。相手はドレスを抱えているから体力の消費も大きいはず。追いつける可能性は十分にある。
このまま真っ直ぐはトイレに阻まれているため進めない。案の定、不審者は右へ曲がった。石垣が出っ張っているため不審者の姿が死角に入ってしまった。
おれも急いで後を追う。あの先にあるのは体育倉庫だ。よもや倉庫に籠城するとは思えないので、おそらくトイレを迂回するように避けて校舎まで逃げ切るつもりだろう。
角を曲がると十メートルほど先に体育倉庫があった。それは知っていたのでいいのだが、予想外だったのは倉庫の両引き戸の片方が開かれており、倉庫にコートがひらりと引っ込むのが見えたことだった。
両引き戸が閉められてしまう。
まさかあの不審者……予想に反して立てこもるつもりか?
慌てて倉庫に駆け寄って両引き戸を引くも、中から鍵がかけられており開かなかった。
悔しさはなかった。むしろ不審者を追いつめられたことへの満足感があった。確か体育倉庫には小さな窓があるだけで、引き戸を使わなければ出入りすることはできない。不審者は自ら袋の鼠になったわけだ。
おれは切れるを息を深呼吸して整え、引き戸を叩いた。
「あなたは既に包囲されている! おとなしく出てくるんだ!」
反応はなかった。あくまでも立てこもるつもりか。
「亨」
剣也が尻をさすりながら追いついてきた。
「どうなった?」
「この倉庫に逃げ込まれて鍵をかけられた」
この倉庫は外で行う競技の備品が収納されていたはずだ。となると、
「剣也、外で活動してる部の顧問かコーチの先生から鍵を借りてきてくれ」
「おいおい亨さん。いまの俺の姿を見てくれよ」
剣也は両手を広げてアロハシャツを誇示する。
「この格好で教員に会いにいけだなんて酷ってもんだろ。わざわざ人目を避けてここまでやってきたんだぜ?」
「だから体育館裏にいたのか?」
「そういうこった。あの高いフェンスよじ登ってきたんだ。そしたらあいつが出てきたんだ。明らかに不審者だったから気になったけど、あそこに裏口があることを知って、そこからお邪魔しようと思って近づいたらお前が出てきたってわけだ」
「なるほど。じゃあ、その格好はなんだよ?」
「これはだな。母ちゃんが制服をクリーニングに出しちまったんだ。だから仕方なく」
「何で制服の代わりがアロハシャツなんだよ。どんだけ仕方なかったんだよ」
「いやせっかく夏なんだから、派手にいきてえだろ?」
派手すぎだ。こいつこの格好で家からきたのか? 大丈夫か、色々と。
剣也がこんな調子なので、おれが鍵を借りにいくしかあるまい。
「生野くん!」
おれたちが走ってきたルートから白本さんと萩原さんが現れた。
「委員長たちから聞いたよ。不審者がいたんだって?」
「うん。この倉庫に逃げ込んだよ。いま鍵を取りにいこうと思ってたところなんだ」
「なら私が借りてくるわ」
萩原さんは自ら名乗りを上げると走り去っていった。
二分ほど経ち萩原さんが戻ってきた。
「サッカー部のコーチから借りてきたわ」
萩原さんから鍵を受け取ると、おれはすぐさまそれを鍵穴に差し込み開錠した。ゆっくりと引き戸に手をかけ、素早く開いた。
「あれ……?」
思わず変な声が漏れた。倉庫内には白線引きやハードル、走り高飛びで使うような分厚いマット、金属バットが突っ込まれたダンボールなど様々なものがあったが……、
「いない……!?」
肝心の暑苦しい服装の不審者の姿がなかったのだ。
「捜してみようぜ」
剣也の言葉に全員が頷き、おそるおそる中に入った。物影や人が入れそうな場所を徹底的に調べ上げるが、あの不審者はどこにもいなかった。
唯一の窓はクレセント錠を見るかぎり鍵は開いているようだが、とてもあの不審者が通れるとは思えない大きさであった。
おれは絶句していた。どうなっている? 不審者が……消えた?




