連続パイ投げ事件
芸人って凄いなと思った。ドッキリなどで突然パイ投げを食らっても気の利いたことを言って笑いを取るのだから。それはそこらの一般市民――例えばおれ――には土台無理なことである。
現にいま、もの凄く困惑している。
「ええっと……白本さん。敢えて訊くけど、どういう状況かわかる?」
「えっと、敢えて答えるね。全然わからない」
「だよね……」
やはりというか、当然というか、白本さんも事態を把握し切れていないようだ。そりゃそうである。突如目の前に現れた不審者がいきなりパイを投げてくるなんて、意味不明もいいとこだ。
さて、これからどうしようか。とりあえず手と顔を洗いたいな。
背中が痛むのを我慢して立ち上がろうとしたとき、脇に茶封筒が落ちているのが目に入った。転倒する直前にはなかったはずだ。
「これ、なんだろう?」
おれが呟くと、白本さんは茶封筒に目を落とし、
「さっきの人が置いていったものだよ」
「さっきの人……って、あの不審者?」
「うん」
何が入っているんだろう。気になったが、いきなりパイ投げをしてくる人間が残していった封筒の中身を見るのには、いささか勇気が必要である。
封筒を手に取り立ち上がる。紙のようなものが何枚か入っている感触がある。開けようか開けまいか悩んでいると、後ろから声をかけられた。
「そこのお二方。少しよろしいですか?」
抑揚のない女の声だった。白本さんと共に反射的に振り返る。振り返って気づいたが、おれはいまとんでもない顔をしているのではないか? 顔面にパイを受けたわたけだし。もう遅いが。
振り向いた先にいたのは眼鏡のかけた女子生徒だった。肩まで伸びたセミロングの髪をしており、姉ちゃんに勝るとも劣らない無表情っぷりが特徴的だ。どこか、見覚えがある顔の気がする。
その女子生徒を見た白本さんが呟く。
「生徒会副会長の、奥道美善先輩、ですよね」
あ、そうか。生徒会の人だ。全校集会のときに見た憶えがある。
奥道さんはその無表情を一切変えることなく、
「はい。どうやら自己紹介の必要はないようですね」
彼女は視線を白本さんからおれへと向ける。
「あなた、その顔は――」
「あっ、いえっ、これはその……」
相手が生徒会の人間と知ってキョドってしまう。何か問題になったらどうしよう。
奥道さんはおれの心を見透かすように言う。
「安心してください。別に何もペナルティはありません」
「そ、そうですか……。けど、何があったのかとかも、訊かないんですか?」
顔面クリームまみれの生徒を何もせずに放置しておくというのは生徒会の副会長的にどうなのだろうか?
奥道さんはやはり姉ちゃんばりの無表情で答えた。
「はい。何も訊きません。大方の事情は察せられますので」
「え!? 察せられます!?」
奥道さんは驚くおれをよそに歩み寄ってくると、おれの持つ封筒に手を伸ばした。
「ちょっと失礼します」
おれの手からするりと封筒を取ると、奥道さんは臆することなく中身を覗いた。
「やはり、そういうことでしたか……」
相変わらず無表情だが、ふうっと疲れたように奥道さんが息を吐いた。封筒を返してくる。
「お二人、名前は何といいますか?」
「生野亨です」
「白本由姫です。何が起こったのかわかるんですか?」
「ジャージを着て顔を隠した不審者にパイを投げつけられたんですよね?」
思わず絶句してしまった。どうしてそれがわかったんだ? まさか彼女が犯人? それとももう一人の名探偵?
おれは驚いていたが、しかし白本さんは冷静だった。
「もしかして、パイ投げを受けたのって生野くんだけじゃないんですか?」
「はい。生野さんで三人目です。一昨日男子生徒が、昨日女子生徒がそれぞれ不審者にパイを投げつけられています。いわば『連続パイ投げ事件』です」
ああ、そういうことか。もう既に複数起こっていた事案だから事情を知っていたのか。それにしても『連続パイ投げ事件』か。我が学校でそんな変な事件が巻き起こっていたとは……。おれのせいではないよな?
「その二人の被害者にも茶封筒が残されていたんですか?」
白本さんが再び尋ねた。
奥道さんはやはり無表情だが、何となく驚いているのが見て取れる。
「察しがいいですね。その通りです。茶封筒の中身も同じでした」
「中身……」
おれは茶封筒に目を落とす。覗いてみようかと思ったが、いまでなくてもいいだろう。奥道さんを見る限りそこまで邪悪なものが入っているわけではなさそう、ということがわかっただけでも十分だ。
代わりに訊くことがある。
「あの、先生とかはこのこと、知ってるんですか?」
「いいえ。教えてないです」
「いいんですか、それ……?」
「よくはないですね。けれど、お二人も入学して三ヵ月以上過ごしているわけですから、この学校の生徒会がどういう存在か把握していますよね?」
おれたちは頷いた。
この学校の生徒会は有名だ。いや、逆に有名じゃない生徒会って何だという話になるが、ともかくこの学校の生徒会は有名だ。学校で発生したトラブルは教師よりも、まず生徒会に相談されるほどに。そして基本的に問題は解決される。つまりは非常に有能なのだ。おれもクラスに白本さんがいなかったら利用していた可能性がある。まあ、問題といってもおれの身に起こる不可思議な現象などではなく部活内の不和の解決や不良の更正といった、現実的な問題の解決なので謎の解明は専門外かもしれない。
現に奥道さんはやや徒労感のあるため息を吐いた。
「会長の意向で被害者二人にこの件のことを誰にも言わないよう口止めしたんです。会長は犯人側にも事情があるかもしれないから、捕まえて真意を訊きたいらしいです。その上で犯人の処遇を決めたい、と」
「悪戯とかではないんですか?」
白本さんが言うと、奥道さんは首をゆっくりと左右に振った。
「それはないです。これが悪戯ではないことは、その封筒の中を見ればわかりますよ」
中を見ろ、と促された気がするので、それに従ってみる。
恐る恐る封筒の口を開けた。目に飛び込んできたものを見て、思わず呻いてしまった。
「何が入ってるの、生野くん?」
「……千円札が十枚ほど」
「ということは、一万円?」
無言で頷く。
なるほど。確かに何かありそうだ。おれで三人目ということは、犯人は既に三万円の出費をしていることになる。高校生にはなかなかの額だ。ただの悪戯でここまでしないだろう。しかし、となると犯人は何かのっぴきならない事情があって、人にパイを投げつけていることになる。果たしてドッキリや悪戯以外にそんな事情があるのか甚だ疑問である。
それからもう一枚、札束とは別に小さな紙きれが入っていた。取り出してみる。特徴のない筆跡でこう書かれていた。
「『生徒会へ行け』……なんですかこれ?」
「わかりません」
つい首を捻ってしまう。
「悪戯じゃないのは何となくわかりました。それで解決の目処は立ってるんですか?」
尋ねると、奥道さんは残念そうに首を振った。
「いいえ、まだです。私たち生徒会は人間関係の修復などは得意なのですが、こうした妙な事件は初めてでして……。解決への足がかりすら得られていない状況です」
おれは彼女に教えてあげたくなった。すぐ傍にその道のエキスパートがいますよ、と。しかし流石に白本さんの意志を聞かずにそんなことを言うのは憚られたのでやめておいた。第一、――普段散々頼っといてあれだが――白本さんをこんな妙ちきりんな事件に巻き込む訳にはいかない。……いや、そもそもおれが被害者になって、白本さんもその目撃者になってしまったので、既に思いっきり巻き込んでしまっているのだが。
「それなら、わたしもお手伝いしていいですか?」
白本さんが言った。……自分から助力するのね。
「それは、どういうことですか?」
首を傾げる奥道さん。
「ええっと、実は彼女、この件のような変わった事件を何度も解決しているんです。……まあ、殆どおれが巻き込んだんですけど」
「変わった事件、といいますと?」
おれはこれまでの白本さんの功績を伏せるべきところは伏せた上で説明した。
「なるほど……。確かに手伝ってくれるなら力強いですね。では、私からお願いします。白本さん、生徒会に力を貸してください」
「はい」
「それでは、事件の情報をお教えしますから、生徒会室へいきましょう。生野さんはどうしますか?」
「あ、おれもいっていいですか? 被害者として事件のことが気になるんで」
それに、今日は白本さんを家に届けると萩原さんと約束している。彼女が帰らないのならば、おれも帰るわけにはいかないのである。
奥道さんはやっぱり無表情で頷いた。
「わかりました。では――」
「ちょっといいですか」
おれは奥道さんの言葉に被せて声を出した。
「どうかしましたか?」
「生徒会室にいく前に……顔洗ってもいいですか?」
こうしておれと白本さんは、この奇妙な『連続パイ投げ事件』に関わることになった。




