亨、倒れる
「う、生野くん、大丈夫!?」
朦朧とする意識の中、白本さんの声が聞こえた。普段の彼女からは想像もできない、焦ったような大きな声だった。
あまりに一瞬のできごとで、おれは自分の身に起きたことと、現在の自分の状態が理解できていなかったが、背中にゴツゴツとしたアスファルトの感触を受け、自分がうつ伏せに倒れていることを自覚した。
「生野くん、しっかりして!」
目を開くと、白く霞む視界にぼんやりとだが、おれを覗き込む白本さんの心配そうな顔が映った。
……どうしてこんなことになったんだっけ。
おれの記憶は数十分前に遡っていく。
◇◆◇
いつものようにホームルームが終わり、普段通りの放課後が訪れた。クラスメイトたちが連れだって部活や家路へと向かう中、おれもその流れに乗ろうと剣也の席へと近づく。
「帰ろうぜ剣也」
声をかけると剣也が申し訳なさそうに振り向いた。
「いやあ、悪い亨。今日は無理だ」
「何かあるのか?」
「部活の集まりがあるんだ」
「日本歴史研究会のか? どんなことするんだ?」
少し気になったので訊いてみた。そもそも日本歴史研究会がどんな活動をしているのかすら知らないのだが。
剣也は肩をすくめた。
「まあ、集まりっつっても、ただみんなで掃除をするだけなんだけどな。終業式までには綺麗にしたいらしい」
「あれ、この前掃除したばかりじゃなかったか? おれも手伝ったよな」
六月の……そう、委員長の傘が盗まれた日のことだ。
剣也はアメリカ人がやるように両の掌を広げ、けろりとした態度で言った。
「なあに、また汚くなったってだけの話だ」
どんな部屋の使い方をしてるんだよ。
「そんなわけだから、俺は今日は帰りが遅くなるんだ。お前は一人寂しく帰るこったな」
剣也はバッグを片手に立ち上がると背を向け、片手をひらひらさせながら颯爽と教室から出ていった。
そういう事情ならば仕方がない。剣也の言葉通り一人で帰ることにによう。委員長や伶門さん、その他のよく話す面々はもうみんな教室から出ていってしまったし、白本さんも机に突っ伏して眠っている。ここに留まる理由はない。
バッグを肩にかけ、暑いので開けっぱになっている教室の扉へと向かう。そんなときであった。ポケットの中でスマホがブンブンとバイブ音を発し始めた。長さからして電話がかかってきたようだ。取り出して画面に表示されている名前を確認する。
響がおつかいを頼んでくるのだろうなあ、と勝手に想像していたおれは度肝を抜かれた。なんとそこに映っていた名前は『萩原夏美』だったのだ。
なぜに? と思う。萩原さんからの電話は初めてのことだ。こちらからは先の委員長の傘が盗まれた際に電話をしたけれど。彼女がおれに連絡してくる理由が一切わからない。
恐る恐る通話ボタンを押す。
「もしもし」
『生野くん、いまどこにいる?』
随分と単刀直入である。まあ萩原さんは誰かに初電話をする程度のことで緊張するようなタマではないか。
「教室だけど。これから帰るところだよ」
『ということはいま暇なのね?』
「うん。まあ暇だね」
『そう……。由姫はそこにいる?』
おれは眠っている白本さんに目をやり、
「いるよ。寝てる」
『わかったわ。じゃあ生野君、ちょっとそこで待ってて』
萩原さんは一方的に電話を切ると、おれが困惑する間もなく教室に現れた。おれは訝りながら尋ねる。
「えっと、何かあったの?」
萩原さんは首を横に振った。長いポニーテールが揺れる。
「いいえ。そういうわけじゃないわ。ただちょっと、生野君に頼みがあるのよ」
「頼み?」
「ええ。今日、由姫を家まで送っていってくれないかしら?」
「……はい?」
白本さんを、家まで送る?
「いいことは、いいけど……どうして? 別に白本さんも一人で帰れるよね?」
「当たり前よ。子供じゃないんだから。……けれど、下校している途中で眠ってしまう可能性があるでしょう?」
あ、それもそうか。
「確かに、道端で眠りこけるのはまずいね」
「そういうこと。由姫みたいな美少女が道で寝てたら人攫いにあって海外に売り飛ばされてしまうわ」
何時代の話だ。とつっこみたかったが萩原さんにはつっこみ慣れていないのでやめておいた。
気になったことを訊くことにする。
「でもさ、そういうのって普通は同性に頼むものじゃない? 異性に頼むのは……その……」
「本末転倒?」
「うん、まあ、そういうこと」
憚りながら言うと、萩原さんは首をきょとんと傾げた。
「なに? 生野くんは美少女が無防備に寝ていたら攫って慰み者にして最終的に海外に売り払うような悪漢なの?」
「なわけないじゃん!」
そんな危なっかしい人間がこの街にいてたまるか。
「ならいいじゃない。……まあ、本当なら生野君の言う通り同性に頼みたいのだけど、生憎と交友関係が狭くってね。委員長さんや伶門さんも部活でしょう?」
そういえば白本さんも自分は交友関係が広くないと言っていた。
「わかった。しっかりと白本さんを送り届けるよ。けど、どうして今日に限ってこのことを頼んだの?」
背を向けかけていた萩原さんは動きをとめ、
「ああ、そういえばそれを説明してなかったわね。もうすぐ大会が近いから遅くまで練習するつもりなのよ。一応期待のエースだから。遅い時間まで由姫を待たすのは悪いから生野君に頼んだというわけ」
そうだった。我が谷津川高校の女子バレー部は初めて全国大会に出場できたのだった。
「納得したよ。……じゃあ、どうしよう。白本さん起こした方がいいかな?」
「いつごろから眠り始めたの?」
「えっと、確かホームルーム途中辺りだったから、ついさっきだね」
萩原さんはすやすやと寝息を立てている白本さんに目をやり、
「自発的に起きるまで待ってあげて。あんまり短い時間で起こされるとまたすぐに眠くなってしまうらしいから」
そういうものなのか。じゃあいつも謎解きしてもらった後はすぐ眠っているのだろうか。
「なら白本さんが起きるまで待つことにするよ」
「よろしく頼むわね。……生野君」
「なに?」
「あなたのことは信頼しているけれど、一応言っておこうと思って」
萩原さんは真剣な表情で接近してくると、耳元でドスの利いた声で囁いてきた。
「由姫に何かしたら、八つ裂きにするから」
「う、うん、何もしないから……」
あまりの恐ろしさに冷や汗を流しながら答えるおれであった。
◇◆◇
白本さんが起きたのはそれから三十分後であった。おれはその間、ただひたすらにぼうっと座っていた。普通の高校生ならスマホですゲームなりネットサーフィンなりネットニュースを見たり学校の課題をしたりするのだろうが、おれはスマホゲームはやってないし別段ネットで知りたい情報もないし課題は面倒くさいしなどの理由で何もしていなかったのだ。
机から上体を起こした白本さんは可愛らしいあくびをすると、目を擦って大きく伸びをした。それから二つ隣の席に座るおれに気づいて驚いたのか、びくっと肩を震わせた。
「う、生野くん……。ま、まだ、いたんだね。びっくりしたよ」
おれは曖昧な笑みを浮かべる。
「そうみたいだね。ごめん。……実はさ、白本さんが起きるのを待ってたんだ」
白本さんは一瞬だけぽかんとしたが、すぐに何かに思い当たったようで、
「もしかして、また変なことが起こったの?」
やっぱりそう思われるよな。おそらく白本さんの頭の中では生野亨=変な頼みごとをしてくる男子、という図式ができあがっていることだろう。そうなっても仕方ないが。
おれは苦笑しつつ首を左右に振った。
「いや、今日は違うんだ。さっき萩原さんに――」
おれは萩原さんから承ったことを白本さんに伝えた。
「そうなんだ。なっちゃん沢山練習するんだね」
話を聞き終えた白本さんは嬉しそうに笑った。
反応が少し予想外で驚いた。もう少し寂しがるものだと思っていたのだ。ただまあ、おれも剣也が部活で遅くなると知っても何とも思わないので、別におかしな反応ではないのだが。
「でも、生野くん……いいの? 私の家、たぶん生野くんの家と正反対だよ?」
白本さんが申し訳なさそうに言った。
「ちなみにどの辺にあるの?」
「一中の近くだよ」
あ、確かに真反対だ。しかしまあ、
「別に構わないよ。どうせ早く帰ったってなんにもすることないし。白本さんのことも心配だからね」
笑ってそう答えると、白本さんも微笑んできた。
「ありがとね、生野くん」
◇◆◇
おれと白本さんは適当な雑談をしつつ昇降口を出て、校門の前までさしかかっていた。そこで、起こったのだ。
おれたちの前に謎の人物が立ちはだかった。黒いキャップをかぶり、顔をサングラスとマスクで隠した人物。学校指定の――公立学校にありがちなダサい――紺色のジャージのため男子なのか女子なのかは定かではない。右手には白い物体の乗った紙皿を持っている。
その明らかに怪しい風体の人物におれたちは口を閉じ、足をとめた。
誰だ……? 何だ……?
疑問が湧くが、ひとまず横目で白本さんの表情を確認してみた。怯えた様子ではないが、困惑しているのは見て取れた。
とりあえず男として白本さんを守れる態勢を取っておこう。学校の敷地内といえども、目の前に純然たる不審者がいるのは事実である。
おれは白本さんの前に出ようと足を踏み出した。その直後であった。
不審者がおれめがけて紙皿を勢いよく放り投げてきたのだ。紙皿は一瞬のことでまったく反応できなかったおれの顔面に見事に直撃した。視界が真っ白に染まり、ベチャッという不快な音が鼓膜に響いた。バランスを崩し、後方に背中から転倒し――最初に至る。
頭は打っていないが、アスファルトに背中から思い切り倒れたので結構痛む。
「生野くん、大丈夫……?」
白本さんに背中を支えられ、おれは上体を起こした。紙皿は地面に落ちたはずだが、依然として視界が白いままである。しかも顔に何かしら付着している感覚がある。
両手を駆使して顔に付いている謎の物体を取り払うと、ようやく視界が鮮明になった。その目で顔から手に移った物体を正体を認めることができた。
白く粘り気のあるドロッとした液体と個体の中間のようなものだった。どこかで見たことあるような気がする。
おれは白本さんに顔を向け、
「ねえ、白本さん、これって……?」
白本さんは困り顔で曖昧に頷いた。
「うん。たぶんだけど、シェービングクリームじゃないかな。ようするに、バラエティ番組とかで使う……パイだと思う」
どうやらおれは、生まれて初めて『パイ投げ』を受けたらしい。……どういう状況だこれ。




