彼と彼女の事情【真・解決編】
部室の引き戸を開けるとじめじめとした黒いモヤが一気に噴出してきた。当然ながらこれは的場さんの発する負のオーラの比喩表現のつもりであったのだが、その割には随分と現実感が伴っていたように思う。
ねっとりとまとわりついてくる黒いモヤを振り払うように、おれは部室へと足を踏み入れた。
室内には長い髪の女子生徒――黒いモヤの発生源たる的場凪子さんが中央の机に突っ伏していた。同じ体勢でも白本さんは可愛らしいのだが、的場さんの場合は相当に不気味である。神はどうしてこうも不平等なのか。
的場さんはおれに気づいたようで上半身を上げ、貞子のような状態になった自分の髪を暖簾のようにかきわけ、赤く充血した目を向けてきた。怖いですから。
「生野、こんにちは……」
「ど、どうも、的場さん……」
相変わらず瀕死の重傷者か悪霊のような低いかすれ声である。
おれは戸を閉めると、長テーブルの端にバッグを置いた。黒いモヤの発生源を見やる。
「的場さん、どうかしたんですか? 今日はまた、いつにもまして……その……」
「暗いよね……。うざいよね……。鬱陶しいよね……。ごめんね。生きてて」
「そこまで思っちゃいませんよ」
慌ててつっこむ。
「そこまで、ってことは……途中までは思ってたんだね……。ごめんね。生きてて」
ああもう面倒くせえなこの人も!
「あの、何かあったんですか?」
このまま彼女の愚痴と自虐を聞き続けるのは精神衛生上よくない。おそらく三十分と経てば流石のおれも発狂してしまうだろう。まあ、事情を聞くのも、それはそれで茨の道のような気もするが。
「聞いてくれる、生野?」
「はい」
あんまり聞きたかないですけどね。心の中で嘯いておく。
「実はさ……一週間前にスマホのゲームで親しくなった人をチャットで怒らせちゃって……」
え?
「悪気はなかったんだけどね……。ちょっと無神経だったかなって思ってさ……。謝りたいんだけど――」
「あの、的場さん」
まさかな、という思いを抱きつつおれは慌てて口を挟んだ。つい先ほどもそれで間違っていたため、今回はしっかりと確認しておきたい。
「ど、どうしたの生野……?」
「そのゲームでの的場さんのハンドルネーム? というか、ユーザーネーム? を教えてもらっていいですか?」
「な、なんで……?」
「いえ、ちょっと知りたくて」
的場さんは眉をひそめ、明らかに訝りながらも教えてくれた。
「『レイ』だけど……」
「あんたかい!」
思わずつっこんでしまった。的場さんが、わけがわからない、といった感じでびくびくと震えているけれど、いまのおれに彼女のアフターケアを行う余裕はなかった。
ため息と共に徒労感にも似た感覚が溢れてきた。灯台下暗しとは正にこのこと。どうやら剣也の言うところの貞子と伽椰子は既に邂逅していたらしい。これには剣也もおったまげるだろう。
おれはがっくりと椅子に腰を落とした。
「なに、どうかしたの、生野……? 私、まずいことしちゃった?」
「いえ、そういうわけじゃないです。何でまた『レイ』っていう名前に?」
「私ってさ、ほら、幽霊っぽいし……」
「自虐的すぎるでしょう」
仮想世界でくらい自分を偽りましょうよ。
「……ついでにもう一つ訊いていいですか? 怒らせてしまったユーザーの名前は何ていいます?」
「ろ、『ロータス』さん、だけど……。ほんと、どうしてそんなこと訊くの?」
的場さんの疑わしげな視線をスルーし、おれは再びため息を吐いた。ロータスって確か日本語で蓮とかって意味のはずだ。蓮……蓮雄。安直な……。
おれは矢継ぎ早に質問を飛ばしていく。
「『ロータス』さんとはいつどういう経緯で親しくなったんですか?」
的場さんは困惑気味に、
「え、ええと……二ヶ月くらい前に、初心者だった『ロータス』さんが間違えて高難易度クエストに来ちゃって、モンスターにボコボコにされているのを助けたのがきっかけで仲良くなっんだけど……」
そういえば蓮雄さん、親しくなった経緯は恥ずかしいから言いたくないと発言していた。なるほど。確かにこれは恥ずかしい。
「それで、どうして『ロータス』さんは怒ったんですか?」
「『ロータス』さんがガチャを百回引いても出なかったキャラを私が一回で出しちゃったんだ……。それを報告したら烈火の如く怒り出して……」
予想以上にしょうもない理由だった。そりゃ言いたくないわな……。
的場さんは肩を落とし、負のエネルギーを室内に充満させる。
「謝りたいんだけど、データ通信料の影響でログインできなくって……。凄い重いゲームなんだ……」
チャットに答えなかったのはゲームが物理的にできなかっただけなのか。
「的場さん、Wi-Fiを使いましょう」
「家、Wi-Fi繋がってないよ……?」
「コンビニのを使えばいいんですよ。確か最初に簡単な登録をすれば無料で使えたはずです」
「え、そ、そうなんだ……」
的場さんの顔が珍しく希望に満ちた。
「じ、じゃあ私、早速近くのコンビニにいってくるね」
「そうしてください。鍵はおれが戸締まりしておくので、的場さんはそのまま帰ってもいいですよ」
「わかった……。ありがとう、生野……」
的場さんから鍵を受け取ったおれはやれやれと三度ため息を吐いた。
◇◆◇
亨、白本ちゃんと別れた俺は一人で大型スーパー・アチパに訪れていた。母親からタマネギのおつかいを頼まれたからなのだが、タマネギが不可欠な料理とは一体何なんだか……。絶対必要な具材なら、予めあるかないかくらい調べとけや。
面倒な話だが夕飯がかかっているので致し方なし。文句を言わず買ってやろうじゃねえか、タマネギ。
俺はアチパの店内へと入る。この店は入口がいくつかあり、俺が入ったのは本屋近くの場所だった。タマネギのある野菜売場は正反対の位置にあるため割と向かうのが面倒くせえ。
せっかく本屋の前まできたんだし、漫画の新刊が出てるかどうかチェックしとくか。ま、そこら辺はカミハラから随時情報を得ているから、何もないのは承知しているんだが。
ふらふらと本屋に近づいていくと見知った顔を発見した。長身にがっしりとした身体つき、そして無骨な顔立ち。
「よお、藤堂」
俺が声をかけるとその男は驚いてびくっと肩を振るわせ、慌てたように顔を向けてきた。
「あ、浅倉か……。びっくりしたぞ」
俺はへらっと笑う。
「悪い悪い」
「何か用か?」
「いんや。いたから声をかけただけだ。……お前の方こそどうしたんだ? 何か雰囲気暗かったけどよ」
尋ねると、藤堂はばつが悪そうな顔になった。それから肩をすくめ、
「ちょっと、人間関係で困っててな……」
「ふぅん。人間関係ねえ……」
俺の周りはそんな人ばっかか……。困っている人たちには申し訳ないが一種の呆れの感情が湧いてきた。
藤堂は続ける。
「二ヶ月前にクラスの男子に無理矢理付き合わされた合コンで知り合った女子なんだがな、一週間前に俺がバカな理由で彼女に怒ってしまったんだ」
は? ちょっと待て。
思いっきり聞いたことのある話に俺はたじろいでしまう。そんな俺に構わず藤堂は悔恨の息を吐いた。
「まったく……自分が自分で嫌になるよ。どうしてあんな理由で怒ってしまったんだか……」
過去を憂う藤堂を無視して、俺は伶門さんの言葉を思い出す。確か『彼』は『背が高くて体格がいい体育会系みたいな逞しい見た目』だったはずだ。藤堂の恰好はそれに当てはまっている。……おいおいマジか?
「そういえば、その女子は谷津川高校の一年生なんだ。もしかしたら浅倉も知ってるかもしれん」
「何て、名前だ?」
「伶門小波だ」
「てめえかよ!」
「な、何が!?」
反射的につっこんでしまった俺に藤堂は困惑の声を発した。
俺は頭を抱えてしまう。まさかこんな近くに『彼』がいたとは……。こいつには亨もびっくりだろうな。
「こ、小波のこと、知ってるのか?」
俺の様子から何かしら察した藤堂が訊いてきた。
「ああ。クラスメイトで友達だよ。……それで、どうして伶門さんに怒ったりしたんだ?」
「あ、ああ……。それはだな」
と、藤堂は非常に言い辛そうに顔をしかめつつ、ポケットからスマホを取り出した。ピンク色の無表情のウサギのキーホルダーが付いている。あんまり可愛いとは言えず、どっちかというとキモい。
「このキャラクターは『ウサ男さん』と言ってだな、最近はまってグッズの収集を始めたんだ。何とも味があるだろ?」
「ああ、うん、まあ……」
「……一週間前、小波にもこいつを見せてたんだが『気持ち悪いね』と笑われてしまったんだ。そのときなぜか無性に腹が立って、気づいたらブチ切れてしまって――お、おい浅倉、そこまで顔をしかめるなよ!」
そう指摘されるくらい、俺は顔をしかめていたらしい。
腹の底から全ての空気を吐き出す。……想像してたより数百倍クソしょうもねえ理由だった。
「なあ浅倉。俺はどうすればいいと思う?」
「謝れ。それしかねえ」
「そうしたいのはやまやまなんだが、小波の奴、電話にもメールにも対応してくれないんだ。嫌われてしまったのかもしれない……」
「だったら直接謝りゃいいだろ。場は用意してやっから」
この提案に藤堂はもじもじと煮え切らない態度を取ってきた。どうやら緊張するらしい。
俺は何回目かのため息を吐いた。……ほんと、クソ面倒くせえ。




