こういうときにはやっぱり彼女
クラスに入ってまず目に飛び込んできたのは、自分の机に意気消沈したかのように突っ伏している伶門さんの姿だった。それを傍で委員長と白本さんが心配そうに見つめている。
おれは荷物を自分の席に置くと伶門さんの元に駆け寄った。
「伶門さん……どうしたの?」
大方の事情は察せられるがとりあえず訊いておく。
伶門さんの顔がゆっくりと上がった。その表情はやるせなさに染まっていた。
「生野……。私って、何なのかな?」
「え……?」
謎の問いである。
「えっと、女の子じゃないかな」
答えてから、何言ってんだおれ、と思う。
伶門さんは乾いた笑みを浮かべ、
「違うよ。私はどうしようもないヘタレのチキンだよ……」
「ひょっとして、謝れなかった?」
こくりと彼女は頷いた。
なんだ、許してくれなかったわけじゃないんだ。ひとまず安心する。
まあ、蓮雄さんも後悔してたもんな。謝られたら許すだろうし、むしろ謝るだろう。いやまだ伶門さんの言う男子が蓮雄さんだと決まったわけではないのだが。
委員長がおれの裾を摘まんできた。
「ねえ、生野くん。小波ちゃんどうかしたの?」
「うん、ちょっとね……。人と喧嘩しちゃって、謝りたいんだけど怖くてできないみたい」
「そう、チキンだから、私。北京ダックよ北京ダック」
鶏なのかアヒルなのか……。
しかし伶門さんが勇気を出せないというのは何となくわかっていた。戯曲二ページ消失事件のときも――小泉さんが無駄にプレッシャーをかけたこともあっただろうが――自分が犯人だと名乗り出られなかったのだから。
どうしたものかと思っていると伶門さんが委員長と白本さんに視線を向けた。
「二人は人と仲直りするときどうしてる?」
二人は顔を見合わせ、
「うーん、私はそもそも人とあんまり喧嘩しないんだよね。けど傷つけちゃったと思ったときはすぐに謝るよ」
委員長が実に委員長らしい回答を言う。次いで白本さんが答える。
「わたしも人と喧嘩はしないかな。というより、それほど交友関係が広くないから喧嘩する相手がいないというか……」
「萩原さんとかと喧嘩したりしないの?」
委員長が訊いた。
白本さんは穏やかな笑みを浮かべる。
「うん、なっちゃんとは全然」
そりゃそうだろうな。普段の萩原さんの様子を見ていたらわかる。だが、予想に反して白本さんの話は続いていた。
「けど一度だけ喧嘩したことあるよ。まあ、険悪になるような喧嘩内容じゃなかったからすぐに仲直りできたけど」
やはり昨日思った通り、委員長も白本さんも人とは争わない質のようだ。
「はあ……。二人とも凄いなあ。私なんて喧嘩の度に友達を失っていくよ。ただでさえ友達作るのに苦労したのに。……人を怒らせちゃうと二の句が継げなくなるのよね。ほんとチキン。ダックスフンドよダックスフンド」
ダックスフンドではなくダックスフントである。そもそも鳥類ですらないのだが。
伶門さんはかなりブルーになってしまっている。今日大丈夫だろうか?
◇◆◇
大丈夫じゃなさそうだった。授業中はずっと上の空な感じであったし、休み時間中にも悩んでいるようだった。天然でドジなところがある伶門さんであるが、非常に真面目な性格でもあるため授業は人一倍勤勉に取り組んでいる印象があった。そんな彼女ががらんどう状態になっているのが気になって仕方がなかった。
それは剣也も同じだったようで、おれたちは学食にて話し合いを敢行していた。
「どうする、剣也?」
「どうするったってなあ」
弁当のおにぎりを頬張りながら剣也は天井を仰いだ。
「伶門さん次第だろ、今回の件に関しちゃよ。こっちは何の事情も知らないんだしよ」
「やっぱそうだよな。……勇気を出させようにも、昨日の纐纈さん以上のことなんて言えないし」
思い返してみると、纐纈さんはかなり上手いアドバイスを送っていたように思う。あのときは場の空気やノリが何かおかしかったのであまり深く考えていなかったが。
唸り声を上げつつ学食のカレーを口に放り込む。今日は珍しく響が朝寝坊をしてしまったため弁当がないのだ。
「何か力になれることがあればいいんだけどな」
「そうさなあ……」
剣也は少しの間、集中するかのように目の焦点を一点に集め黙り込んでいた。すると妙案が浮かんだようでぱちっと指を鳴らした。
「そうだ。伶門さんが『彼』を怒らせちまった事情を話したがらないなら、別の当事者から話を聞けばいいじゃねえか」
「別の当事者って?」
「蓮雄さんだよ」
「まだ蓮雄さんが伶門さんの言う『彼』って決まったわけじゃないだろ」
「それなら、そいつを見極めるためにも話を聞くべきだろ? それに蓮雄さんも蓮雄さんで心配じゃね?」
「それは……そうだな。昨日はあんなだったしな」
「なら善は急げだ。早いとこコンタクトを取ろうぜ」
剣也に促され、おれはスマホを取り出した。電話帳から蓮雄さんの番号を探し、早速かける。蓮雄さんは一コールもすることなく電話に出た。
『どうした生野?』
くたびれたような声がスマホ越しに届いた。疲労困憊、といった感じだ。
「蓮雄さん、出るの早くないですか?」
『心のオアシスを堪能していたからね』
「何ですかそれ? オアシス?」
『ソシャゲのことさ。スマホゲームは僕の唯一の癒やしなんだ。まさに砂漠に湧くオアシスなのだよ。ただ、最近は虚しい気持ちにオアシスが侵食されつつあるけどね』
「そ、そうなんですか……。実はちょっと蓮雄さんに訊きたいことがあるんですよ。昨日の件で」
『どうしてだ?』
「いや、何かアドバイスできたらなあと思いまして」
『なんだいなんだい生野。やっぱり良い奴じゃないか君は。こんな後輩を持てて僕はなんて幸せ者なんだ』
涙声で言う蓮雄さんについ顔をしかめてしまう。
ネガティブだろうがポジティブだろうが結局面倒くさいなこの人は。
蓮雄さんの教室に剣也と共に赴くことを伝え電話を切ると、おれたちは一目散に昼食を平らげ、二年C組へと向かった。
「それで、僕はどうすればいいのかな?」
廊下に出てきてくれていた蓮雄さんが開口一番に言った。
「とりあえず、どうして蓮雄さんが怒ったのか教えてもらえますか?」
尋ねると、蓮雄さんの顔が苦虫を噛み潰したように歪んだ。申し訳なさそうにかぶりを振り、自虐的な笑みを浮かべた。
「すまない。昨日も言ったがそれは訊かないでくれ。きっと知ったら君たちは僕をどうしようもないクソ人間、器の小さい愚図だと軽蔑するだろうからね」
剣也がため息を吐く。
「んなこと思いやしませんってば。蓮雄さんがどうしようもない人間なのはとっくに知ってますから」
「そうですそうです」
あっ、つい頷いてしまった。これは面倒なこたになるぞ。
危惧した通り、蓮雄さんはがくんと肩を落とし、辺りに負のエネルギーを振りまき始めた。
「二人はそんな風に僕のことを見ていたのか! そうか。そりゃそうだよなあ。お前たちには先輩らしいところなんて何一つ見せてられてないもんなあ。というか僕に先輩らしいところなんてないもんなあ。僕よりゴキブリの方がまだ誇れる箇所があるんじゃないかな。こんな僕だ。あの人にも嫌われているだろうな」
今世紀最大級のガティブ発言である。すかさずおれたちはお詫びのフォローに回る。
「い、いや、蓮雄さんのトランペットめっちゃかっこいいっすよ!? なあ亨!」
「あ、ああ! 魂を震えさせられる感じがしますもん!」
とってつけたかのような褒め言葉だが――実際にトランペットは巧いとは思っている――落ち込みやすいがちょろい蓮雄さんはこれだけで立ち直ってくれた。
「え、えへへ、そうか? 僕のトランペット捌きは凄いか? そうかそうか」
照れ笑いを浮かべる蓮雄さんだが、ふと寂しそうな顔になり、
「皮肉なもんだよなあ。僕の唯一誇れるところが、親に無理矢理させられているトランペットだなんて……。つまり僕のアイデンティティは親のものってことだ。僕自身のアイデンティティは何もないということだね」
もう本当に面倒くせえなこの人は!
「それで、結局は何で怒ったんっすか?」
痺れを切らしたように剣也が尋ねた。
「それは……やっぱり言えない。君たちに徹底的なまでに人格攻撃を受けてしまう」
「そんな酷い理由なんですか?」
唖然とする。
「ああ。あの人がしてきたちょっとしたことに腹を立ててしまったんだ。何であんなことで怒っちまったんだろうなあ。あのときの僕はおかしかった」
蓮雄さんは年中おかしいがそれはどうでもいい。いまの話は伶門さんの話に通ずるところがあった。伶門さんは『彼』を怒らせてしまった理由をつまらないことと表現していた。そして蓮雄さんはどうやらしょうもない理由で怒ったらしい。伶門さんは『彼』の悪口を言われたくなくて、事情を話したがらないのかもしれない。……蓮雄さんが『彼』だとしたら、当人が自分をこてんぱんに言っているので、伶門さんがしていることは物凄く無意味な意地ということになってしまう。
「謝れないんですか? 相手の方もひょっとしたら気にしているかもしれませんよ?」
「謝れないよ。あの人も僕に愛想をつかしているだろうさ。昨日も言ったけど連絡が取れないんだからね。気にしていたら連絡に受け答えしてくれるはずだろ?」
「いや、相手が怖がってるだけかもしれませんぜ? また怒られるんじゃないか、って」
剣也が伶門さんの言っていたことをそのまま口にした。
「それはないよ。あるはずない」
「どうしてっすか?」
「第三者の君たちはわからないだろうが、僕にはわかるのさ。あの人は僕と話したくないってね」
「じゃあ直接ご本人と会って謝罪すればいいじゃないですか?」
おれの案に蓮雄さんは目を剥いた。
「そ、そんなことできるわけないだろう!」
「どうしてですか? 別にできるでしょう。親しかったんなら」
蓮雄さんは恥ずかしそうに目を泳がせた。
「そ、そりゃ親しくはしていたが、僕とあの人……レイさんはそういう関係では……」
「レイさん?」
「その人の名前だよ。まあ渾名みたいなものだけど」
レイさん……伶門さん……。どうやら本格的に繋がったようだ。でも念のためもう一つ確認しておこう。
「そもそも、蓮雄さんってそのレイさんとやらとどこで知り合ったんですか? 蓮雄さん普段忙しいのに、誰かと会って親交を深める暇なんてあったんですか?」
「いや、だから僕とレイさんはそういうんじゃ……まあいいや。親しくなった経緯は恥ずかしいから言いたくない。それに忙しいけど、分刻みでスケジュールが組まれているわけじゃないし……」
ここで蓮雄さんは思い出したように腕時計に視線を落とすと残念そうに肩をすくめた。
「どうやら部活の昼練の時間になってしまったようだ。……じゃあ、かっこよくトランペットを吹いてくるとするよ。ははは……」
蓮雄さんはトランペットケースを教室に取りに戻るとおれたちを一瞥もすることなく去っていった。
出会った経緯は恥ずかしいから言いたくない、か……。伶門さんは『彼』と合コンで知り合ったんだったな。確かにそれは少し恥ずかしいかもしれない。それから『彼』は普段忙しいとも言ってたってけか。これは完全に繋がったのではないか?
「どうする亨さん?」
剣也に訊かれた。
おれは腕を組んで思案する。蓮雄さんをあのまま放置するのはまずいだろうし、何よりも気が引ける。それに伶門さんもおかしいことになってしまっている。どっちかが謝れば終わりそうなことなのに……。
「もう本人たちに伝えちまうか? 相手も謝りたがってるから勇気出せって」
「それも一つの手だろうけど、あの精神状態の二人がそれを信じると思うか?」
「……思わねえな。でも他に何か手があんのか?」
「二人の間に起こったトラブルを知ることができれば、もっと適切なアドバイスが送れると思う」
「んなこと言ったって、どうやってそいつを知るんだよ? ……ああ、なるほど」
流石は剣也。おれの真意をいち早く汲み取ってくれた。
「おれたちには名探偵がついてるだろ?」
やはり最終的には彼女を頼ることになるらしい。




