姉の謎
翌朝。おれと響は向かい合って朝食を食べていた。そこに姉ちゃんの姿はない。
ベーコンエッグに醤油をかけつつ訊く。
「響、姉ちゃん何時に起こした?」
「ん? 五時だよ。おにぎり食べてさっさと駅にいっちゃった」
「五時って……。姉ちゃん、そんな時間に起きて大丈夫だったのか?」
「んー、凄く眠そうだったけど、たぶん平気じゃないかな。昨日十時には寝てたみたいだし」
そういえば昨日は早くに自室に引っ込んでいた。
響は味噌汁を啜り、
「それよりさ、お姉ちゃん服を洗濯機に入れたまま忘れてっちゃったみたいなんだよね。なぜか昨日着てた服の他にワンピースも入ってたし。あれ確かお気に入りの服のはずなのに、どうしたんだろ」
昨日抱えていたワンピースと下着は洗濯機に突っ込んでいたのか。それならばなぜあんなに挙動不審だったのだろう? そもそもどうしてもう一セット服を持っていたのだ。
朝っぱらから気になることができてしまった。今日は調子悪いだろうなあ。
◇◆◇
案の定であった。胸に生まれた小さなしこりの影響か、始業から放課後に至るまで気分がまるで優れなかった。まあ今日やったことといえば、いつもの如く剣也と軽口を叩き合ったことくらいなので、別に気分が上々だろうがなんだらうが普段とさして変わらない日常だったろうが。
しかしやはり軽口にもギアがかからず、
「ジャムおじさんの名前ってジャムなのか?」
という剣也の発言に、
「そうなんじゃね?」
というまるでやる気のない回答をしてしまったのには反省した。いつもなら「知るか」と返すところなのに……。あんま変わんねえか。しかしこれを受けて剣也が、
「亨、お前今日調子悪いだろ」
と見抜いてきたのには驚いた。流石だなあいつ。
そんなこんなで乗らない半日を過ごしてしまった。白本さんに相談すればよかったかなとも思ったが、姉ちゃんの謎の行動には何ら理由がなくて、ただの奇行であるという可能性が十二分にあったのでやめておいたのだ。
姉ちゃんが変なことをするのはさして珍しいことではない。ハチミツをストローで吸おうとしたり、餃子の皮だけを焼いて食べたりと、いままでもおかしな行動は取っていた。じゃあなぜ今回に限ってこんなに気にしているのかというと、その問題はおれの方にあるのだと思う。おれは高校に入学してからおかしな体験をしすぎた。そのせいで不自然なことを「そういうもんだ」と受け流せなくなってしまったのかもしれない。厄介事に巻き込まれすぎて、おれ自身が厄介な性質を得てしまったようだ。
夕食後も心持ちがっくりとしたままだらんとソファに座ってニュースを見ていた。何でも隣の市で贋札が出回っていたらしく、それを製造していた男が逮捕されたのだとか。この周辺が全国区のニュースで放送されるなんてかなり久しぶりかもしれない。
しかしそれほど詳細な情報は伝えられることなく、別のニュースに切り替わってしまった。ネットで検索をかければ何かしら出てくるのだろうが、おれはそこまで野次馬根性旺盛ではない。テレビを切った。そんなときである。玄関の鍵、そして扉が開けられる音がしたのは。
どきりとして、創作料理に取りかかっていた響と一瞬顔を見合わせるも、直後にリビングに参入してきた姉ちゃんに脱力した。
「お、お姉ちゃん!? びっくりさせないでよもー」
「ごめん」
相変わらずの無表情で一言だけ詫びる姉。
「どうしたんだ姉ちゃん? もう夜ご飯は終わっちゃってるけど」
既に九時を回っている。
「友達と食べてきたから大丈夫」
「じゃあ何しにきたの?」
きょとんと首を傾げながら響が尋ねた。
「泊まりに……」
「いやだから、どうして?」
次いでおれが訊く。
「それは……うん。お風呂いくね」
姉ちゃんはバッグを抱え、おれたちの視線から隠れるように浴室へと引っ込んでいった。
再び響と顔を見合わせる。響はするするとにじり寄ってくるとちょこんとおれの隣に腰掛けた。
「ねえねえお兄ちゃん。お姉ちゃん、明らかにおかしいよね」
響も姉ちゃんの不自然さを気にし出したようだ。おれは頷く。
「何か隠してるのは間違いないな」
「お姉ちゃん、常にポーカーフェイスなのに隠し事と嘘が激烈に下手だもんね」
「うん。全部仕草に出るからな」
ババ抜きとかも、何でそんな無表情なのに弱いの? と訊きたくなってしまうくらい弱い。
「でも何隠してるんだろ」
「それを知るためには情報を整理しないとな」
「情報?」
「ああ。姉ちゃんの一連の不自然な行動を挙げていけば、自ずと姉ちゃんの真意が見えてくる……」
「おお! 流石、伊達に変なことに巻き込まれてないね! 何か探偵みたいだよ!」
「……はず!」
「ガーン!」
ショックを受けるところじゃないだろ。
「まず不自然その一」
「どうして昨日、今日と帰ってきたのかだよね?」
「そう。姉ちゃんは毎週金曜日の夜に帰ってきて土曜日に帰っていくはずなのに、今回に限ってはなぜか理由不明の二度の帰宅をしている。昨日だけに関して言えば晩ご飯を食べにきたといえるけれども、今日の場合はその限りじゃない。完全におかしい」
「不自然その二は昨日服を余分に一セット持ってたことだね」
「ああ。あのワンピースはいったい何なのか。ただ洗濯機に突っ込んだだけとは思えない。何かしらの事情があって所持していたはずだ」
「他には?」
うーん、とおれたちは頭を悩ませるが、思い浮かばなかったので次に進む。
「じゃあ今度はわかっている事実を並べてみよう」
「わかっている事実、って例えば?」
「姉ちゃんは晩ご飯を食べにきたわけじゃない、とかかな。まあ昨日と今日の行動に一貫性があればの話だけどな」
昨日帰宅してきた理由と今日帰宅してきた理由が別々なら成り立たない事実ではある。
「それと、姉ちゃんは昨日、一旦下宿先に戻った後に大学に向かったはずだ」
「どうしてわかるの?」
「バッグにキャンパスノートや筆記用具、参考書とかが入ってなかった。つまりそれらを下宿先に置いてきたってことだ。大学そのものにいかなかったっていう可能性は、まあないだろう。目的もなく朝五時に起きたりはしない」
「なるほどお。ってことはあのアパートが倒壊して宿無しなっちゃった、みたいなことはないんだね。ちょっと安心したよ」
姉ちゃんが下宿先しているのはかなり老巧化したアパートなので、響が不安を感じるのもわからなくはなかった。鉄階段は錆びて茶色になっているし、外壁もボロボロだ。住民は姉ちゃんの他に大家さんのお婆さんのみ。そのお婆さんに姉ちゃんは可愛がられているらしく、よく食べ物を頂いたりしているようだ。
「他には他には?」
響が興味深げな目をして尋ねてきた。
おれは腕を組み思案する。
「ううん……それくらいかな」
残念ながらここで打ち止めである。響と共にため息を吐く。……一体姉ちゃん奴、何をしているんだ?
悶々と考え込んでいるとリビングにパジャマ姿の姉ちゃんが舞い戻ってきた。姉ちゃんは基本的にドライヤーを使わないので長い髪はまだ多くの水気を残していた。
姉ちゃんは抱えていたバッグから紙袋を取り出し、ダイニングテーブルの上に置いた。
「これ、お土産……」
「お土産?」
おれと響はソファから立ち上がり、紙袋の中身を覗いた。入っていたのは色んなメーカーのカップラーメンだった。
「どうしたの、これ?」
大量のジャンクフードを前に響が呻くように言った。
「大家さんからのお土産。三日前から博多にいってて、今日帰ってきたの」
だからどれも豚骨味で、しかも『博多限定』の文字が入っているのか。
「でもよかったじゃん。姉ちゃん、カップラーメン好きだもんな」
カップラーメンは不器用な姉ちゃんでも簡単に作れるお手頃食文化の到達点である。
「うん。今度みんなで食べよう」
その言葉に眉をひそめてしまう。
「え、どういう風の吹き回し? 姉ちゃん、いつもなら独り占めにするのに。この前、大家さんから『兄弟たちで食べて』って頂いた生八つ橋を全部一人で平らげちゃったんだろ?」
これは姉ちゃんの部屋を掃除しにいった響が大家さんから聞いた話である。姉ちゃんは優しいけど、食い意地だけは譲れない質なのだ。
「えっと……そのときの反省」
「いや、お姉ちゃんその後にも、大家さんからもらった宇都宮の餃子一人で食べたでしょ?」
「……それの反省でもあるの」
弟と妹二人から疑わしげな眼差しを向けられた姉ちゃんは居心地悪そうにもじもじと身体を揺すると、すっと踵を返した。
「もう寝るね。響ちゃん、明日も今日と同じ時間に起こして」
「それはいいけど……。明日は――というか明日も――帰ってくるの?」
「うん……。土曜日と日曜日も泊まるから」
それだけ言うと、姉ちゃんは風のように二階にある自室へと引っ込んでいった。
◇◆◇
「とまあ、こういうことがあったんだ。おかしいと思わない?」
月曜日の昼休み。食堂の一角にて、向かい合って座る白本さんに尋ねた。
「うーん……やっぱり杏さん可愛いなあ」
隣で聞いていた剣也がしみじみと呟いた。
「いまそれ関係ないだろ。姉ちゃんの奴、明らかにおかしい行動を取ってるんだぞ」
「いやあ、可愛けりゃ別にどうだっていいだろ」
「お前な……」
どうもこいつは楽観的すぎる。
「可愛いかどうかはともかくとして」
白本さんの隣に座る萩原さんが口を開いた。
「生野君がおかしいと感じている部分を差し引いても、そのお姉さんは相当に変わり者みたいね」
「うん。そんなことは物心ついたときから理解してるからいいんだ。だけど今回はおかしすぎる。何か隠しているみたいだし……。ちょっと気になるんだ」
「要はお姉さんのことが心配なんだよね?」
こっくりしかけの白本の問いに首肯する。
「話を聞いてもらってわかったと思うけど、うちの姉って大分あれでしょ? だから何かしらやらかしたんじゃないかって思っちゃうんだ。もちろん優しいから基本的に人を傷つけるようなことはしないけど、自分のことになると無駄に強がっちゃうところがある。それも精神年齢が幼いからなんだけど」
「可愛い」
剣也が謎の合いの手を入れてきた。今回の件に関しては、どうやらこいつは使い物にならないらしい。
「だから白本さん。姉ちゃんは一体何をしたかったのか、考えてほしいんだ」
おれは真剣な目を向け、頭を下げる。
「うん、いいよ」
ノータイムで返事がきた。そういえば白本さんが頼みごとをされて逡巡するのを見たことがないかも。演劇部に白雪姫役を頼まれたときは断ったらしいけど、それは迷惑をかけかねないと判断したからだったはずだ。けど最終的には引き受けていた。なぜか妙にそのことが気になったが、いまは姉ちゃんの件に専念することにする。