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生野三兄弟



 日本で一番暑くなる時期は八月だというが、じゃあそれ以外の月は暑くないのか、というとそんなことは決してないのは日本人の周知の事実だろう。そして日本で一番暑くなる時間帯は十四時頃だが、それ以外の時間帯ならば暑くないということもない。


 七月上旬の夕方四時半。おれはうだるような暑さの中、エナメルバッグを左肩に、スーパーのレジ袋を右手に下げながら長い長い坂を上っていた。じっとりとした汗が夏服の背に張りついて気持ち悪いことこの上ない。


 陽は随分と西に傾いているというのにこの殺人的な暑さ……八月の、それも一番気温が高くなる時期になったらどうなってしまうのだろうか。未来への不安を抱えつつ坂を上りきる。


 曲がりくねった坂故に使う体力も大きくなってしまったが、カーブの脇から生えている木々がブラインドとなり西日を遮ってくれたのはありがたい。


 しかしこの坂を越えたとて、まだ我が家への道のりは遠い。いやそれほど遠くはないが、また別の坂の途中に建っているため疲れるのである。


 ここから真っ直ぐと進んで国道へと進み、地下道を通って向こう側へと渡る。そこから田んぼや畑の広がる坂道を行くと二階建ての一軒家がある。それがおれの家だ。特筆すべき箇所は何もない、大きくも小さくもない普通の家。


 おれはノブを捻り扉を開けた。


「ただいまー」


 あまりの暑さにより気怠げ感がましましになった情けのない声を上げながら開け放されていた――つまりクーラーは点いていない――リビングに入った。


「あ、おかえりー!」


 扇風機に当たりながらソファに座って録画していたと思しき料理番組を見ていた、妹のひびきが返事をしてくれた。暑い中元気なものだ。


 おれはレジ袋をダイニングテーブルの上に置く。


「なあ響、今日本当にキムチ鍋にするのか?」


 レジ袋から見える煮込み用ラーメンを見つめながら尋ねる。

 響はリモコンの停止ボタンを押してビデオをとめると、ポニーテールを揺らしつつ振り返った。


「あったり前じゃん。そのために締めのラーメンを買ってきてもらったんだからさ」

「一応言っとくけど、めっちゃ暑いぞ?」

「そんなことわかってるよ」

「じゃあどうして……。暑い中に熱いものを食べるといいってよく言うけど、それ絶対間違ってると思うんだ。暑い日には冷たいものだろ」


 扇風機の前に移動しつつ恨みつらみの述べる。響は呆れたようにため息を吐き、


「暑い日に熱いものを食べるのは本当に健康にいいんだよ? 摂取しがちになっちゃう水分を外に出してあげるの」

「学術的のこと言われても心情的にはなあ……」

「だからこそのキムチ鍋、ですよ」

「どういうことだ?」


 響はふふんと笑う。


「暑い日に熱いものはノーサンキューでも、暑い日に辛いものならオーケーって思える謎の感情があるでしょ?」

「いやないけど」

「まあお兄ちゃん辛いの苦手だもんね。けどさ、キムチ鍋ってそんなに辛くないからいいよね?」

「響、自分の言ってることが矛盾してるのわかるか?」

「あはははっ。冗談だよ、ジョーダン。本当はさ、お姉ちゃんのリクエストなんだよね。今日帰ってくるんだって」

「姉ちゃんが? 今日水曜日なのに」


 今年二十歳になる姉は現在、名古屋に在住しており名古屋市内の大学に通っている。本当は東京とかにある有名な大学とかにもいけるくらいには学力がよかったのだが、ホームシックになってしまうという何とも情けない理由で、いつでも帰ってこられる近場の大学に進学したのだ。いま通っている大学も十分いい学校なのだが、色々ともったいない気がしないでもない。


 姉ちゃんは基本的に金曜日の夜に帰ってきて一緒にご飯を食べて一泊して翌日に帰宅するというサイクルを築きあげており、今回のようなその輪から外れる行動というのは、初めてかもしれない。


「姉ちゃんのリクエストならしょうがないか」

「拒否すると拗ねちゃうもんね」


 おれのため息混じりの言葉に響が同意した。姉ちゃんは精神年齢が低いのだ。見た目は――弟のおれが言うのはあれだが――モデルみたいにすらっとした美人なのに。とことんもったいない。まあ剣也曰く「そのギャップが堪らねえんだよ」らしいが。


 響がリモコンの再生ボタンを押した。


「そうだ、冷蔵庫にプリンがあるから食べていいよ」

「手作り?」


 尋ねると響はどどんと胸を張った。


「とーぜん!」


 そりゃそうか。響は中学二年生にして家事が大好きで、東京に単身赴任している母に代わり、我が家の全家事労働を担っている。その中でも特に料理に関しては、無駄に凝ったものや創作料理を作ったりと完全に家事レベルを逸脱している。最近では市販されている商品の味を、その商品の値段以下に抑えつつ超えるという、わけのわからない挑戦にはまっているらしい。


「でもいつの間にプリンなんて作ったんだ?」

「学校で作ったんだよ。カラメルがさあ、面倒くさいんだよねぇ。本気で作ろうとするとガス警報機が鳴っちゃうんだよ、ギリギリまで焦がすから。だからコンロごとグラウンドに出して作ったの」

「そんな手間かけなくても……」


 我が妹ながら呆れる。



 ◇◆◇



 いつも我が家では六時十分頃が晩ご飯の時間帯なのだが、今日は姉ちゃんを待っていたので七時を回っていた。


 姉ちゃんはいつものようにぬぼーっとした無表情で帰ってきた。


「ただいま」


 それだけ言うと、姉ちゃんはぱんぱんに膨らんだバッグをソファの上に放って、ダイニングテーブルについた。いつものことである。姉ちゃんは基本的に無口で無表情なのだ。

 おれは土鍋をダイニングテーブルの中央に置き、自分がいつも座る椅子に腰掛けた。


「いただきまーす」


 と全員揃って言い、各々鍋に箸を伸ばし始める。


「で、姉ちゃん。どうして金曜日でもないのに帰ってきたの?」


 豚肉のふーふーしていた姉ちゃんの動きがとまる。


「それは……うん」

「……なに?」

「ちょっと……」


 何なんだよ。

 余計に気になってきたが、響はあんまり細かいことは気にしない主義なのでばくばくともやしを食している。


「やっぱりもやしってキムチ鍋に入ってるときが一番輝いてるよねぇ」


 目を輝かせながら言う響。確かにキムチ鍋に入っているもやしは美味い。


「そういえばお姉ちゃんさ、最近学校はどうなの? 友達とか増えた?」


 不意に響が親戚のおばさんみたいなこと言った。姉ちゃんは首を振り、


「普通。友達も増えてないけど、いまでも十分だから」


 姉ちゃんは無口、無表情に加えてそれを裏切らない不器用さと人見知りと口下手っぷりを合わせ持つという超社会不適合者だ。しかしそれが逆に母性本能か何かを刺激するようで、面倒見のよい同性が構ってくれる得な性質も保持している。「いまでも十分」というのは、面倒を見てくれる友達がいるからそれ以上は求めない、ということだろう。


 姉ちゃんはおれに昆虫のような無機質な視線を向け、


「亨くんは高校には馴れた?」

「うん。三ヶ月経てばね」


 それに他の高校生が体験していないような濃密な時間も、幾分かすごしている。

 おれはニラを口に運び、


「というか、毎週会ってるんだからこの話題おかしくないか?」

「だって他に話すことないじゃん。お姉ちゃん、何かある?」

「ううん。響ちゃんは?」

「ないよ。……あれ、いつも何話してたっけ?」


 そう言われておれも一瞬考えたが、普段から割といまのような会話を繰り返していた。まあ家族間の会話なんてそんなものだろう。適当に話題を出すことにする。


「そういえば昨日また変なことに巻き込まれたよ」


 姉妹が揃って顔を見合わせた。


「お兄ちゃん高校入ってからそんなのばっかりだよね。絶対おかしいよ」

「亨くん呪われちゃったの?」

「物騒なこと言うなよ。……巻き込まれたって言っても、当事者じゃないんだ」


 おれは昨日のカミハラの一件をかいつまんで説明した。『作者』に関しては一応伏せたが。


「ふぅん。漫画で告白なんて変わってるね。でも各務原さんかっこいいもんなあ。告白とかされまくってるだろうから、ちょっと奇をてらった方が印象に残るかも」


 まあ、そんな告白されたら、印象に残るどころか一生忘れないだろう。第三者のおれでさえ――『作者』の正体も相まって――忘れられそうにないのだから。


「ロマンチックだね」


 スープを飲みながら姉ちゃんが呟いた。

 どの辺にロマンがあるのかわからないが姉ちゃんの感性はずれているので気にしない。


「聞き忘れてたけどさ」


 ラーメンがいい具合に煮詰まってきたころ、響が姉ちゃんを見やった。


「お姉ちゃんって今日どうするの。泊まってくの?」

「うん。明日早起きして名古屋に戻るつもりだから、早く起こしてくれる?」

「オッケー!」


 響はサムズアップを決めるけれど、この会話におれは眉をひそめてしまった。姉ちゃんは朝に弱く、いつも講義の直前に大学につくらしい。そんな姉ちゃんが早起き? ここから名古屋にいくだけでも一時間以上かかる。姉ちゃんの場合、電車の中で眠って終電に気づかずに折り返して戻ってきてしまう可能性があるというのに、一体どういう風の吹き回しだろうか。


 キムチ鍋を食べ終え、響が食器の後片付けを始めた。流石にこの仕事を取られたくらいでは怒らないのでおれも姉ちゃんも手伝った。


 やはりというか、暑い日に熱くては辛いものを食べるというのは、おれには自殺行為に等しかったようで身体中から滝のように汗が噴き出てきた。扇風機の強風を受けつつ、もう風呂入っちゃおうかなあ、とか考えていたのだが、


「私お風呂入るね」


 姉ちゃんが先に宣言してしまった。彼女の行動は素早く、既にソファに放ってあったバッグからパジャマセットと、なぜか白いワンピースや下着を取り出していた。


「それ、どうしたの?」

「うん……ちょっと」

「いや、だから何なの?」

「……うん」


 頷かれても。

 姉ちゃんは逃げるようにそそくさと浴室へと向かっていった。……怪しい。

 何となく姉ちゃんのバッグを覗いてみる。入っていたのは明日着るための衣類であった。つまり姉ちゃんはパジャマと明日着る服、それからさっき持っていったワンピース等の三セットの衣服を所持していたことになる。


 前者二つはいいとして、果たしてワンピース等は何のために持ってきていたんだ?


 何かあるな。高校入学からの三ヶ月で研ぎ澄まされた、おれの事件レーダーが敏感に反応している。姉ちゃんは何か目的があって帰ってきたのだ。


 いったい何のために……。

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