ある日の放課後
キーンコーンカーンコーン……キーンコーンカーンコーン。
小学生時代からの長い付き合いである聞き慣れたチャイムが鳴り、先生が授業を打ち切った。割と中途半端なところで終わったと思うのだが、生徒はおろか先生も特に気にした素振りはなかった。当然おれもだが。
今日も、長い長い学校生活が終わった。まだ掃除とホームルームがあるけれど、そんなものは何の苦にもならない。他の生徒のことはわからないが、掃除なんてのは小学生から続けているからか、面倒という気概も湧いてこず、殆ど習慣と化している。ホームルームは聞き流すのだし、あんまり意味はない。
そんなことを考えている間にあれよあれよと掃除が片づき、ホームルームが終わる。学生たちが待ちに待った放課後が到来した。そして、おれの一日が無駄に浪費された。
がやがやと音を立てながら部活へと向かう級友たちを尻目に、何となくため息を吐いた。なんだかなあ、というよくわからない思いまで滲み出てくる。毎日毎日がつまらないということは決してないのだが、なんだかなあ……煮え切らないとでも言うのだろうか?
「なあに、黄昏てんだよ」
一抹の虚しさを抱き呆然としていたところ、右から声を掛けられた。見上げるとノリの軽そうな外見と雰囲気をした男子生徒が呆れたような視線を向けてきていた。
「剣也……」
「死ぬにはまだ早えぞ」
「いや、何で死ぬと思うんだよ」
いつものように、おれは浅倉剣也へつっこみを加えた。こいつは保育園からの友人であり、おれの最も古い友人でもある。気心の知れた関係であるため、日頃からお互いに軽口を叩きまくっている。
「帰るのか?」
尋ねると、剣也は僅かににやりと笑みを浮かべた。何か企んでいるときの表情だ。嫌な予感がする。
「いんや。ちょっとだけ部室に用があんだ。資料が溜まり過ぎたんで、それらを家に持って帰ろうと思ってな。その量なんと、ダンボール二箱分」
剣也の作った横ピースを見ながら(男子高校生がしても何にも可愛くないむしろキモい)を見ながら、おれはこいつの意図を察した。
「手伝えってことか?」
「端的に言えばそうなるな。俺んちまで頼むわ」
「別にいいけど……お前の部活って日本歴史研究会だったよな? 前々から思ってたけど、お前って日本史に興味あったっけ?」
「いや、人並みだ。新撰組がかっこよさげで好きってくらいだな。それから明治も好きだ。面白いし」
「明治って……それ、『るろうに剣心』が好きなだけだろ?」
「まあそうなんだが」
呆れるぜ。
「じゃあ何で日史研に入ったんだよ」
この問いに、なぜか剣也はドヤ顔で突き出した右手の親指を力強く立てた。
「そんなもん、可愛い先輩がいたからに決まってんだろ!」
「お前、毎日が楽しそうだよな」
「当たり前だろ。せっかく花の高校生になったんだ。恋愛しないと損だろ。ぜってー彼女作る。年上の彼女作る。年下イラナイ」
最後の方は念仏のようにぶつぶつと唱えていた。こいつは三人の妹がいる影響で、年上の女性に惹かれるようになったのだ。毎日妹たちがうるさいらしく、それがストレスになって、一時期は年上というだけで女性に惚れてしまうほどに深刻な精神状態に陥っていた。
そんなことを思い出していると、勝機に戻ったらしい剣也が、
「お前も彼女くらい作れよ。ってか人を好きになれよ」
と悲しいものを見る目で言い、前の席に座る。
「高一にもなって初恋がまだなんて、寂しすぎるぜ」
「しょうがないだろ、そんなの……」
恥ずかしいことに、おれはいままで女子を好きになったことはない。可愛いとか、綺麗だとか、美人だとか、そういった感情を抱いたことは当然あるが、それだけである。おれの熱意は恋愛に対しても欠いているのだ。
「けどな、女子と付き合う、ってこと事態は経験しといた方がいいって、あいつも言ってたぞ」
剣也が頭を掻きながら言った。
「あいつがそんなこと言うかよ。……だって、好きでもないのに付き合うなんて、相手に失礼だろ」
おれが言い返すと剣也は、ははあ、と深いため息を吐いた。
「付き合ってくうちに、その人のことを好きになることだってあんだよ。あんまりくすぶってっと、ホモだと思われるぜ?」
「ホモはホモで初恋するだろうけどな」
「いや否定をしろよ。まさかお前……俺を!?」
「ありえないから安心しろ」
冷たいつっこみを入れ、机のフックに掛けてあるエナメルバッグを手に取る。
「まあいいわ。とりあえず、さっさと帰ろうぜ。部室とやらに行こう」
「そだな」
おれと同時に剣也も立ち上がった。気づけば教室にはおれと剣也、それからいままで眠っていたらしい小柄の女子生徒の三人しかいない。寝ぼけているのか、彼女がふらふらと心許ない足取りで教室から出て行くので、少し心配しながらもおれたち二人も後に続いた。……ところ、
「……ほわ」
という何とも可愛らしい小さな悲鳴と共に、前にいた女子生徒がこちらに倒れてきた。おれと剣也が反射的に両腕を伸ばすと、彼女の小さく華奢な両肩がおれの両手に収まった。
「だ、大丈夫……白本さん?」
思わず、クラスで割と目立っている彼女……白本由姫に声を掛けた。
何が起こったのか理解できていない様子の白本さんだったが、数秒の後、おれに全体重を預けていることを自覚したらしい。彼女は脚に力を加えて踏ん張ると、おれの手から離れた。それから踵を返してこちら向くと頭を下げてくる。
「ありがとう、生野くん……。ちょっと眠くって」
それを証明するが如く、彼女はどこかふわふわした口調である。というか、おれの名前を知っていたらしい。クラスメイトとはいえ、まだ一ヶ月も経っていないし、面と向かって話すのは初めてなのだが。
もともと可愛らしいクラスメイトだとは認識していたが、間近で見て、それは正しかったのだと確信した。雪のように白い肌に、さらさらとしたセミロングの黒髪。小柄のためか、顔のパーツは全体的に小さく、また整っていた。そのふわふわした雰囲気も相俟って、「おとぎ話のお姫様」、という表現がぴったりである。……うん。まあ、それが何だという話なのだが。
彼女はおれたちに別れの挨拶を言い、やはりまだ寝ぼけている……いや寝たりないのか、少しだけふらふらとした足取りで階段を降りていく。
おれと剣也はそれを心配そうに眺めていた。
「白本さんって、いつも寝てるけど……大丈夫なのかな、あれ……」
白本さんがクラスで目立っているのは、浮世絵離れしたというか、神秘的というか、どこか不思議な雰囲気と容姿をしているというのもあるのだが、一番の原因はとにかく頻繁に眠っているからだ。休み時間は別にいいのだが、授業中やホームルーム中などもお構いなしなのだ。寝てしまうのは故意ではないようで、洗濯鋏を耳に挟みながら授業を受けているのを見たことがある。結局寝てたが。
しかし、そんな姿を見ても教師は誰も注意しない。もしかしたら、何かのっぴきならない事情で眠ってしまっていて、学校側はその事情を認知しているからかもしれない。
「ふむ。確かに心配だよな。あんな可愛い子が無防備に寝てたんじゃ、いつ誰の魔の手に掛かってもおかしくねーもんな」
剣也が白本さんが消えていった階段を見ながら心配そうに呟いた。
「その誰かさんの魔の手は、お前の手じゃないだろうな?」
じと目で訊くと、剣也は高速で首を左右に振った。
「とんでもねえ! 俺は真摯な恋愛を目指しているんだ。できちゃった婚なんざごめんだぜ」
「そういう場合はできちゃった婚とはいわんだろ。ただの犯罪だよ」
「まあそうだわな。つーかそもそも、俺は年上好きだって知ってんだろ。白本さんはめちゃくちゃ可愛いと思うけど、同い年じゃダメだ。せめてもっと早熟した見た目じゃないとさ」
「白本さんがそれに該当してたらお前は魔の手を伸ばしたのか?」
冗談で訊いたのだが、一瞬だけ逡巡する間があった。
「ないな。さっきも言ったが、俺は真摯な恋愛を目指しているからな」
「じゃあ何で一瞬迷ったんだよ」
出会って十二年、初めてこいつを軽蔑しかけたが、剣也は慌てたように両手を動かした。
「勘違いすんな。迷ったんじゃなくて、白本さんに身長を十五センチほど足してふわふわした雰囲気を取り除いて目つきを鋭くした姿を想像しただけだ」
「それはもう別人だろ……」
おれは呆れてため息を吐いた。